きのうの風から 時を知って散った佳人

  • 2007.08.31 Friday
  • 11:46
前回の記事に細川ガラシャの辞世の歌を載せました。2年ほどに前彼女について一文を書きました。8月の最後の日に、夏を惜しみつつ、お読みいただければ幸いです。ブログの一回分としては少し長いですが、ご辛抱を。


細川ガラシャの志・散りぬべき時知りてこそ  

細川ガラシャの生涯には二つの巨大な出来事がある。
一つは、丹後半島の山中味土野(みどの)に幽閉されたこと、一つは、関ヶ原の前夜、大阪玉造にある細川家の屋敷内で自害したことである。
味土野幽閉は夫細川忠興の手によって行われた。忠興はなぜ最愛の妻を死地に追いやるように深山に幽閉したのか、その理由は明白である。

ガラシャ、実名玉子は、明智光秀の娘である。
天正十年(1582年)六月二日、光秀は主君織田信長に謀反を起こし、京都本能寺で弑逆した。細川家は逆臣の娘を抱えたことになった。こうした場合、荒々しい戦国のならいでは、玉子は即刻殺害されるか、離縁であろう。
ところで、細川家と明智家は人も知る盟友の間柄であった。光秀からは自分に荷担してくれるように再三催促があった。窮地に追い込まれた藤孝、忠興父子の苦悩は深かった。が、細川家は親友を捨てた。信長の命を弔うとして父子は剃髪して幽斎、三斎と名乗った。戦国大名の身のこなし方は非情である。
 
さて、玉子のことであるが、忠興は離縁と見せかけて、領内の山中味土野に幽閉したのである。忠興は気性の激しい武将で、残忍な振る舞いも多かったようであるが、妻玉子の命をこよなく惜しんだ。おそらく深く愛していたのであろう。玉子の美貌だけの故ではない。玉子は人格も魅力的であったようだ。その夫婦関係はかなり近代的だったと思われる。そして、息子忠興の心中を察する幽斎、藤孝も、人間理解の深い紳士ではなかったか。
 こうして玉子は死を免れ、わずかな従者とともに味土野に落ちのびたのである。
 
若いころから、ガラシャにはひとかたならぬ興味を抱いていた。外国語の名前を持つとはどういうことだろうと、単純な疑問が興味の初めだった。ガラシャとはグレイスつまり恵みの意味であり、彼女がイエス・キリストを信ずるキリシタンと知ったとき、太い綱でぐっと引き寄せられる気がした。と同時に、彼女の死に方に不審を抱いた。クリスチャンなら自殺は罪だと知っているはずなのに…、どうしてなのだろう。
永井路子の『朱の十字架』と三浦綾子の『ガラシャ夫人』がおおよその事情と背景になる情報を聞かせてくれた。

先年、思い立って隠棲の地、味土野に行ってみた。我ながらよく行ったものだと思う。アクセスが悪いのである。悪いどころではない、鉄道は丹後鉄道峰山までで、そこから現地へはタクシーしかないのである。峰山までは東京から新幹線で京都、山陰本線に乗り換えて福知山、近畿タンゴ鉄道で宮津、天橋立を通って峰山である。一日の旅では無理なので、ガラシャが嫁いだ細川のお城があった宮津という小さな町に宿泊した。

翌朝、宮津から峰山まで列車を使い、その後タクシーで山中に入った。
車一台がやっとの細い山道を40分上った。運転手氏によれば、昨今は半年に一人くらいしか訪れる人はいないという。
そこには跡地という目印の立て札が二、三ヶ所立っているだけ。道もそこで行き止まりになっていた。驚くべき深山であった。聞こえるのはうぐいすの声のみ。その時は風さえなかった。一面の新緑の中に溶けてしまいそうだった。

味土野に随行した者の中に清原マリヤというキリシタンの女性がいた。彼女はガラシャの精神生活に多大な影響を与えた。マリヤはガラシャの苦しみを温かく見守り、祈り続けながら、折に触れ、時に触れて神のことを話題にしたのではないか。ガラシャの心はすぐには開かれなかったが、山中での二年におよぶ孤独な生活は、神に到る、なくてならない道筋となったことは確かである。 

さて、天下人となった秀吉は、忠興にガラシャを戻すように命ずる。ガラシャは晴れて新築なった大阪玉造の細川屋敷に帰ることができた。
が、幽閉事件を通して地獄の底を見てしまったガラシャは、以前とは別人であった。一直線に神を求めた。秀吉のキリシタン禁制も、夫の立場も反対も信仰の炎を増すことはあっても消すことはできなかった。
やがてマリヤから洗礼を受け、ガラシャと名乗った。
三浦綾子氏のガラシャは、城中でかいがいしく伝道し慈善に励み、充実した信仰生活を送っている。

戦国の荒波はいよいよ猛く、まるでガラシャを標的にするように襲いかかってきた。さもあらん、世は信仰篤き者を見逃しはしない。時代は豊臣と徳川の二者択一を迫っていた。機を見るに敏な細川家は、今度はなんと家康を選んだ。
敵将石田三成は陰湿な手段をとった。
関ヶ原の前夜と言える16005月、忠興は家康の命で会津へ向かっていた。その留守宅に、石田方から夫人ガラシャを城中に差し出すように使者がきた。つまり人質である。わかっていたことであった。

出陣に際して忠興は、三成の命には決して従うことならずと申し渡した。それは死ねということであった。ガラシャも、人質は意ではなかった。生き延びても、いつか辱めを受けて棄教を迫られ、命も取られることは明白である。 信仰と夫の両方を立てる道は死しかないと判断した。ガラシャの決意を支えたのは強烈な信仰である。

ガラシャは忠興にきっぱりと言うのである
「デウスを信ずるものには肉体の死はありましても、霊魂の死はありませぬ」ガラシャは永遠のいのちを信じたのだ。

「御恩寵の日が来たと、わたしは今思っております。キリシタンの御禁制は日を追って厳しくなるとも和らげることはありますまい。私がキリシタンであることは細川家のために大きな障りとなることは明らかです。かといって、私にはキリシタンの御教えを棄てることはできませぬ」
永井路子は、ガラシャの死を恩寵によって与えられた恵みだと理由付けしている。
三浦綾子は、ガラシャが永遠のいのちを信じ、そこに希望のすべてを託して敢然として死んでいったと強調して、キリスト教の福音を明確に示している。      
 
ガラシャの辞世の歌は生き死にに対する決意を痛烈に物語っている。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ



伝道者の書の一節『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある』を彷彿とさせる。
またパウロの声も聞こえてくる。
『私にとって生きるはキリスト、死ぬこともまた益です』
 
こうしてガラシャは積極的に死を選んだ。決して逃避や自殺ではなかった。死ぬことに志を見いだし、自分の全存在を賭けて死んでいった。 
三浦綾子は、死を間近にして『私にはまだ死ぬという大切な仕事がある』と言って、死に対する考え方に新しい領域を見せてくれたが、ガラシャの死もまた彼女にとっては最後の大きな仕事であった。

人の抱く志は十人十色である。しかしほとんどの場合土俵はこの世である。生きて志を果たしたいのである。的を死そのものに置く人は稀であろう。
ここに見えてくるのはイエス・キリストの十字架の死である。
神さまはガラシャの死をどのように判断されるであろうか。

日本クリスチャンペンクラブ発行 あかし新書27より

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  • 2020.05.31 Sunday
  • 11:46
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    コメント
    マンションのそばに教会があります。
    教会の屋根の上には十字架が上がっております。
    日が暮れるとライティングされたその十字架がくっきりと夜目にも美しく見上げられます。
    その教会で三浦綾子さんのご本など、御夫君さまの書き物などの展示がありました。

    私も三浦綾子さんのご本を貪るように読んだ時期がありました。三浦綾子さんのガラシャ夫人への慈しみを感じます。

    そして、希望の風さまの素晴らしさを・・・
    • すみれさん
    • 2007/08/31 3:53 PM
    お近くから教会の十字架が見えるのですか。よいところにお住まいですね。時々見上げてください。
    物言わぬ十字架が何かを語りかけてくるかも知れませんから。

    • すみれさんへ
    • 2007/09/01 7:34 AM
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