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日々の風から 真夏の閑けさ

日々の風から 真夏の閑けさ

 

夏の大型年中行事である夏休みも、子どもたちはさておき、大人たちが職場に戻ってそろそろ終わりだろうか。今年は雨続きだったせいか我が家のすぐ脇を通る車の音もふだんとほとんど変わらずだった。お正月の時のように森閑とすることはなかった。

 

最近、大江健三郎氏の著書を再読していて、忘れてしまっていた一文を興味深く読んだ。

講演集の中の一文である。

 

「わたしはパリで公開討論の会に出席しました。日本文化に深い理解を示す、フランスの一詩人が、日本の高名な俳人、芭蕉の俳句を一つ引用して、こういわれたのです。《枯れ枝に  

烏のとまりけり 秋の暮れ》、この十数羽の烏に、日本人の心はよく表現されていると。

私は反論しました。日本人にとって、この烏は一羽でなければならないのだと。ところが同席していた日本の古典詩の専門家が、私にとどめの一撃を加えたのでした。最近のことだが、芭蕉自身がこの句に合わせた絵を描いた作品が発見された。そこには、烏が二十数羽、描かれていると。それ以来、私は外国人の前で俳句の話をする時、単数と複数の表記が日本語では厳密でないこともあり、疑いにとらえられるようになりました。芭蕉のもうひとつの、有名な俳句、《古池や 蛙とびこむ 水の音》。この蛙は一匹なのだろうか、十匹なのだろうか、二十匹なのだろうか、フランス語の世界では、どれがもっとも自然なのだろう。私は長い間、一匹だと信じてしたのですが……」

 

 唸ってしまった。私も、枯れ枝に泊まる烏は一羽、古池にとびこむ蛙は一匹だと固く思っていた。枯れ枝に二十数羽の烏がとまっているなんてとても考えられず、それでは句から受ける感じがまるで違ってしまう。古池の蛙も十匹、二十匹がとびこんだのなら、もう、滑稽になって楽しくなって笑いだしたくなる。一匹だと思って受けたイメージが壊れてしまう。

大江氏でさえ一羽であり、一匹だと信じて疑わなかった。この知者と同じ思いだったというだけで何かほっとするが、これは日本人だからか。日本人でも複数派がいるのではないだろうか。一人一人に尋ねてみたい。

 

もうひとつ《閑けさや 岩にしみいる 蝉の声》。

この蝉は単数か複数か、これも考えてみたいし、訊いてみたい。

いかがでしょうか。

 

2017.08.19 Saturday 15:05 | comments(4) | - | 
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2018.01.23 Tuesday 15:05 | - | - | 
サムサム (2017/08/19 8:02 PM)
よう聞いてくれはりました。もちろん、烏は一羽で蛙は一匹でないと俳句になりまへん。わては、そない思てます。
なになに、蝉でっか? うーん、蝉の方は複数でもええような気がしますのやが……。はて、さて、他のみなさん方は?
サムサムさん (2017/08/20 7:25 AM)
蝉は多くても構わない、一匹だったらむしろ句の真意が伝わらない、そう思いますね。考えてみると、日本人は単語の形に関係なく単数か複数か感じ取ってしまっていると思います。
美雨 (2017/08/21 10:39 AM)
蝉は時に単数であり、複数でもあり得ます。わが庭から羽化する蝉は、一斉に声をそろえて大合唱します。複数でも一つの声になるのです。ただ、今年の蝉は少し元気がありません。
お元気ですかと聞かれて、七日目の蝉ですと、答えていた私のせいかと思い、これからは六日目ということにいたします。
美雨さまへ (2017/08/22 7:52 AM)
蝉問答できるなんていいですね。こちらはますます鳴き声が小さくくす無くなっています。街路樹が植え替えられ、地中も変わり、代わりの木々はまだ若いです。「蝉しぐれ」は小説だけになりました。