きのうの風から 『若松賤子の生涯を覗く』

  • 2016.06.21 Tuesday
  • 21:58

きのうの風から『若松賤子の生涯を覗く』

 

新しく、歴史に生きる一人のクリスチャン女性の生涯を追かけ始めています。

ダイジェスト的にまとめてみましたので、ひとまずアップします。

写真は、若松賤子ゆかりの場所です。洗礼を受けた横浜海岸教会と葬られた染井霊園の中の墓地です。こちらは豊島区駒込、JRは山手線巣鴨駅が便利です。主な参考図書は『説くと我を見みたまえ』(山口玲子著 新潮社)によりました。

 

 

 

 

『若松賤子の生涯を覗く』

 

平絽の白無垢に身を包みながら、頭には純白のヴェールをかぶる、当時としては意表をつく斬新な花嫁姿で夫に寄り添う島田嘉志子、幼名甲子(かし)、ペンネーム若松賤子は、夫になる巌本善治に送る一篇の英詩を懐中にして式に臨んだ。明治二二年真夏の七月一八日、式場は賤子が洗礼を受けた横浜海岸教会である。花嫁賤子は二五歳であった。

 

この白きヴェールをとりて/とくと我を見たまえ

しかと我がこころを見たまえ/わがこころの最も悪しき輝きを/

われは君のものならず/ 

 

英詩は延々と続く。賤子には日本語よりも英語の方が使いやすいのだ。特に自分の思想や信条を的確に表現するには英語が慣れていた。なにしろ六歳の時からギター宣教師と暮らしていたもの同然だったから。詩は長い間原文のまま置かれていたのを昭和になってから訳されたという。その訳文をであるが、一読するかぎりかなり物騒な内容である。まだ封建色の色濃い時代にあって、結婚の日に夫に贈る言葉としては異様である。形を変えた懐中の短刀ではないか。

 

全身全霊和洋折衷のかたまりのような装いと英詩は、賤子の二五年の前半生とわずか七年の短い結婚生活、合わせて三二年に満たない全生涯を鮮やかに物語る象徴といえる。賤子は夫に自分のどんな顔を見てもらいたかったのだろう。顔は心を表わす鏡である。ヴェールの下の花嫁の顔には賤子の心が赤裸々に映っていた。夫を慕いつつも、ありのままの自分をよく見てほしい、よく知ってほしいと訴えているのだ。

 

賤子は自由な精神を持っていた。時代の空高く飛んでいる女性であった。しかし立場や学問や才能をことさらに振りかざす高慢軽率な女性ではなかった。自作品のペンネームとして使った「若松賤子」にそれが現れている。若松は、あとで述べるが、出生地である会津若松を指す。「賤」は神のみ前に自分は賤しい女であるとのへりくだりであり、「私は賤子、神の身前には賤の女、それ以上ではない」との心情の吐露である。特異な装いの下には出生から嫁ぐ日までの波乱に富んだ二十五年がそのまま包まれていた。夫になる善治はそれをどこまで知り、理解していたのだろうか。この白きヴェールをとりて/とくと我を見たまえ/と挑戦しつつも、胸元に飛び込んでする妻に狂おしいほどの愛しさを覚えながら、善治はヴェールの下の燃える瞳をとくと見たに違いない。

 

賤子は現在の福島県会津若松に生まれた。父松川勝次郎は会津藩士であった。賤子が生まれたとき、父は京都守護職に任じられた最後の藩主松平容保(かたもり)とともに京都にいたという。時は元治元年(一八六四年)三月、明治に先立つこと四年の維新前夜である。

 

会津藩は維新の悲劇の闇を一身に背負った、いわば犠牲の小羊といえよう。会津と聞けばすぐに飯盛山での白虎隊の自決を思い出すだろう。敗者になる川に忠誠を尽くしつづけた結果である。

会津初代藩主保科正之は家康の孫にあたり、家光とは異母弟の間柄である。三代目から松平家を名乗り川の親藩となった。正之の作ったかの有名な『会津家訓十五箇条』の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記したほど、川一辺倒の藩である。幕末の藩主松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで新政府軍(薩長土肥他連合軍・官軍)と戦った。戊辰戦争の一部の会津戦争と呼ばれる戦いである。

 

会津藩攻撃の火ぶたが切って落とされたのは賤子四歳の時であった。

一八六八年戊辰の年、元号が明治と改まる半月前の慶応四年八月二三日の朝、会津若松は官軍に急襲される。もとより藩はこの時のために綿密な手筈を整えていたが、官軍は早鐘が鳴る前に攻め入ってきた。先頭を切ったのは土佐の板垣退助が率いる一隊であったという。

 

賤子の家は祖父と父は出陣していて、留守宅を守る祖母と母との三人が、阿鼻叫喚の巷に飛び出した。

ついでながら、鶴ヶ城はありったけの武力で応戦、その中には後に新島襄の妻になる山本八重も女性の身でありながら銃を取って粉塵の戦いをした。賤子たちがようやく火炎の町を出たとき、身重だった母が出産した。ショックのために早産したのだろうか。女児はみやと名づけられた。母はこの時以来心身に重い病を負い、二年後に亡くなった。父の行方は分からなかった。この二年間の賤子の身の上については諸説があり、真相は神しか知らないとおもう。しかし確かに神だけはご存知であった。神は賤子のかたわらを歩いておられた。神の不思議な御手は強く伸ばされ、人には奇跡としか表現できない数奇な仕方で働いていた。

 

六歳になった賤子は横浜にいた。よりによって新時代を先取りする横浜である。濃厚な保守一色の会津と比べると対極の環境である。微塵も賤子の意志から出たことではない。賤子という種は神の風に乗って、あらかじめ用意されたまことによい地に落ちたのである。会津の火炎で焼かれていたかもしれないこの一粒の種は、神の地に蒔かれたために三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことになった。

 

賤子の父、会津藩士松川勝次郎は藩の隠密であったそうな。そのために名も島田姓を名乗り、いつも在所は不明であった。藩主容保とともに京の都にいたとか、降伏後は榎本武揚の箱館戦に加わったとか、会津藩の新しい領地、斗南へ移住したとかいくつかの説があるが真相は明らかではない。しかし、賤子は父の隠密時代に懇意になったと思われる横浜の商人山城屋の番頭、大川甚兵衛に貰われて横浜に連れてこられ、大川家の養女になった。父勝次郎の意志であったと思われる。

 

賤子はアメリカ人女性宣教師「キダーさんの学校」入れられた。メアリー・エディ・キダーは日本初の女性宣教師である。学校は、居留地三九番地ヘボン施療院の中にあった。ヘボンはヘボン式ローマ字、辞書の編纂、聖書の翻訳で知られる長老派の宣教師であった。横浜は「祖国の中の異国」と呼ばれ、文明開化の先駆けとなった地である。新しい文明を学び、身を立てようと志す人々が全国から集まってきていた。戊辰戦争に敗れた旧幕臣や佐幕派の家臣や子弟たちも多かった。

 

賤子は生来神経質なのか、またはそれまでの異常な生育史のためか、衣服の着脱や入浴などの基本的な生活習慣も身についてはおらず、しつけようとする養母にはなじまず、意に染まぬことは頑として口を閉ざして従わず、養母をおおいに困らせたそうである。学業態度も悪く、下女が付き添いで世話を焼いた。養父大川甚兵衛は山城屋の大番頭であったから、物質的には豊かで、賤子は甘やかされ、贅沢な衣類で身を飾り、目立つ生徒だった。

しばらくして養父の身の上に一大事が起こった。勤め先の山城屋が倒産、当主の和助は自害したという。賤子一家は横浜を去り東京下谷稲荷町に移転した。

 

空白の三年があって、明治七年、賤子は新しく寄宿舎制度整ったキダーの学校に再入学した。賤子にはもう付き添いはいなかった。変転激しいこの時期は賤子をすっかり成長させたようだ。賤子は単身でキダーの寄宿学校に戻った。その経緯には、会津以来、杳として行方の知れなかった父勝次郎との再会があり、没落貧窮の大川家の世話になれないと悟った父の英断であった。

 

キダーの手紙集として《フェリス女学院》に残されている文書には、学校の写真が同封され、次のような一文がある。『よく目立つビロードの衿を付けているのがカシ(賤子の本名は島田嘉志子)です。彼女は江戸から来ました。彼女はずっと前に私の生徒でした。寄宿学校が出来たとき戻ってきました』

新しい学校は横浜港を見下ろす山手の高台、千坪ほどの場所に建ち、校舎と寄宿舎があった。建築資金は主にキダーの出身地アメリカ改革派伝道協会本部から寄贈された。

 

明治八年六月一日に開校式が行われた。時に賤子は十一歳になっていた。はじめは「寄宿学校」と呼ばれていたが、明治九年には建築資金を寄贈した協会の総主事アイザック・フェリスの名を取って「フェリス・セミナリー」と命名された。日本最初の女子教育機関である。現在の「フェリス女学院」と改称されたのは戦後の昭和二五年のことである。

 

新しい寄宿学校は水をくみ上げる風車、タンクが備えられ、校舎の壁が赤一色で覆われ、窓枠は濃いグリーンであったので人々の注目を浴び、風車の学校、赤学校と親しまれた。ギダーは賤子が東京にいる間に結婚してミラー夫人になっていたが、夫人には特別に愛され期待される生徒であった。

 

明治十年、十三歳の賤子は横浜海岸教会でミラー師から洗礼を受けた。横浜海岸教会は日本初のプロテスタント教会である。フェリスからはすでに数名のクリスチャンが誕生していた。キダーの手紙には『スエコとカシコは熱心で忠実な主の働き人です。彼女たちは日曜学校を作りました』とある。スエコとは後に植村正久夫人になる山内季野(すえの)である。神の伸ばされた力ある御腕は会津の戦火の中から孤児同然の幼子を拾い上げ、新鮮なキリスト教教育の乳を与え、育て、魂の救いにあずからせるとともに、純粋な信仰者として、熱心な教育者として、文学者として仕立てあげた。神のドラマに心が震える。

 

賤子には彩な才能が潜んでいたが、それが次々に花開いていった。その芯柱になるのは神への信仰であった。十三歳の時に魂のうちに住まわれた神は終生変わりなく賤子のうちに燃え続け生き続けた。昭和三七(一九六二)年、生まれ故郷の生家跡、会津若松(福島県会津若松市宮町)の古川家の庭に建てられた文学碑に刻まれた一文がそれを証ししている。

 

『私の生涯は神の恵みを/最後まで心にとどめた/ということより外に/

 語るなにものもない/ 若松賤子』

 

この一句は私の内におごそかな音色を奏でつつ鳴り響いている。なんとつつましく、何と気高く、なんといさぎよい告白であろう。 賤子の生涯はわずか三二年、数え年七つの長女を頭に、三人の子と最愛の夫善治、焼失したばかりの明治女学校(夫が校長)、手がけている多くの文学活動などいっさいを心から主に託して神のみもとに帰って行ったのである。

 

 

寄宿学校で勉学中のクリスチャン賤子に戻る。

 

ここで生活するようになって賤子は初めて平和を知った。学校の保護と監督のもとで身の安全を守られる日々の中で、賤子は「家庭」を見出したのであった。ミラー夫人はいつも生徒たちを「大家族」と呼んだ。ミラー夫人こそ賤子にとって生みの母、育ての母に勝る「母」であった。 その後、母であるミラー夫人はフェリスを退職し、十年ぶりにアメリカに帰国、二年後に再び来日するのであるが、夫妻ともども東京築地で伝道に専念することになった。賤子にとって「母」のいないフェリスは寂しくまたむなしかった。校長もブース師に代わった。

 

学友たちはほとんどが結婚のために思い思いに学んでは去っていった。いつまでも行き場のない賤子は孤独であった。しかしブース師の力強い経営と教育のもとで賤子は元気付けられて再び勉学に励んだ。

そのころフェリスには正式な卒業制度はなかった。

「どうして私たちは官立学校のように免許状をもらえないのですか」

賤子を筆頭に学生たちの意見は聞き入れられ、こうしてフェリスは明治一五年六月二九日、最初の卒業式を挙行した。開校当初からのただ一人の生徒である賤子に卒業証書が授与された。賤子はたった一人のフェリスの一期生であった。賤子は来賓と在校生たちを前にして英語で演説をした。しかし一人の身内も賤子の晴れ姿を見る人はいなかった。 賤子はブース校長を初め来賓の祝辞を聞きながら、ここまで育てられた自分にはフェリスの理念実現のための責任があると痛感した。賤子は和文教師として採用されそのまま母校に残って教鞭をとることになった。時に花の一八歳であった。 

 

日に日に名声の高まっていくフェリス・セミナリーは賤子の資質を発揮させるにこれ以上はない環境であった。賤子は学内に生徒たちのための文学会「時習会」を創設した。今でいえば部活動であろう。会報も発行した。この会は月一回開かれ、参加者が自作の文章を朗読した。また、英詩暗誦、演説、音楽、会話などがあった。外部にも開放し、客を招くこともあった。賤子は女子教育と文学の二本の柱を働きの中心にした。

 

一九年には初めて『女学雑誌』へ投稿が始まった。

この『女学雑誌』こそ、賤子の才能を全開させ、文筆家として世に出るための備えられた花壇であった。さらに巌本善治との出会いは賤子の人生そのものを大きく変えることになった。

 

『女学雑誌』は明治一八年七月に創刊され、主宰者の巌本善治が大半の記事を書いてい

た。賤子は『女学雑誌』が総合的に婦人問題を扱うことに大きな関心を抱き、自分と同じ志であることに新鮮な喜びを感じた。あるとき善治がフェリスに見学にきたことで面識を得、『時習会』誌を進呈し、二人の親交が深まっていった。

 

賤子の心には今までに経験したことのない炎が燃え始めた。異性を慕う恋の炎である。

賤子は過去にもいくつかの火炎を潜り、味わってきた。四歳の時の会津戦争の戦火、キダー女史から受けた母のような慈しみの炎、縁薄き実父や妹への情愛の炎などがあったが、善治への思いは思慕の火炎であった。賤子は自分の方から積極的に近づいていったという。賤子は多忙の中ではあるが、善治のために翻訳の手伝いなどをして善治の活動に協力した。

 

賤子の心を燃やした巌本善治についても語らねばなるまい。

 

巌本善治は賤子より一歳年上で、兵庫県但馬国出身、同国の木村熊二牧師から下谷教会で受洗した。木村熊二は夫人の鐙子とともに明治女学校を創設したところであった。ところが鐙子がコレラに罹り思いがけなく急逝してしまった。明治二〇年、善治は校長を引き継ぐことになった。 冒頭にあるように二二年に、賤子は善治と晴れて結婚の式を挙げたのである。ところがそれ以前にすでに賤子は結核に冒されていた。花婿はそれを承知で妻として迎えた。嫁ぐ賤子も賤子なら迎える善治も善治である。共通の信念と愛だけが二人を結ぶ絆であった。周囲はこの華やかな結婚に喜び沸いた。時代を代表するフェリス・セミナリーと明治女学校の校長という時代の寵児たちの結婚である。そこここに羨望のため息が広がった。数年後になるが、フェリスにも明治女学校にも生徒として学んだ相馬黒光、この女性もまた《アンビシャス・ガール》と騒がれた超一級の巨人であるが、その著『黙移』の中で、校長巌本善治への憧れと夫人賤子への敬慕の思いを熱く語っている。

 

賤子は翌年、長女清子を出産する。当時不治の病と忌み嫌われた結核を患う中で、子を得たことは夫婦にとって無上の喜びであった。続いて翌年には長男荘民を産む。同時に賤子は夫の主宰する『女学雑誌』に次々に作品を発表していった。生死をさまよう病魔と育児の繁忙のただ中で、賤子は創作の火炎と化して全霊を打ち込んでいった。特に賤子の代名詞ともいえる『小公子』の翻訳が進められていった。その訳文には賤子が手探りで編み出していった言文一致の文体が使われていた。文学史上にも画期的な出来事であった。

二七年には次女民子を出産した。

 

一大事件が起こった。

 

学校は麹町区下六番町六番地(現在の千代田区六番町)にあった。粗末ながらも校舎、校長舎、寄宿舎、教員宿舎が建てられていたが、その一階のパン屋から火が出た。二九年二月四日未明のことであった。そのとき賤子は四番目の子を宿していたが、病は日に日に重くなり、すでに死を前にしていた。賤子は氷雨の跡が凍結して滑る道を、善治に背負われて一丁西の学習院教授石川角次郎宅へ避難した。生徒も全員無事であった。しかし、施設のほとんどが焼け落ちてしまった。

 

賤子は薄れていく意識の中で、四歳の時、身重の母と祖母の三人でかい潜った会津の戦火のただ中にいるような気がしていた。賤子とって、会津の火炎はどんなに消そうとしても消すことのできない恐ろしい原風景の一つであった。しかし、時おり漏れ聞こえてくる我が子たちの透きとおった声を耳にすると、悪夢から解かれ、深い安心感に満ちた笑顔が浮かぶのであった。 とはいえ、火災よる心身の負担は賤子の命をさらに縮めた。七日に容体が急変し、ついに十日月曜日午後一時半、息を引き取った。三二歳に満たない生涯であり、結婚して七年足らずであった。

 

臨終の前日、善治は一日中賤子の枕もとを離れなかった。振り返れば結婚以来、二人だけで静かに過ごした時は皆無であったといえる。善治の活動は多忙を極め、賤子の顔をまともに見る暇もなかったのだ。

 

白きヴェールをとりて/とくと我を見給えと、目を閉じたままの蒼白の顔が訴えている。

その顔は七年前と少しも変わらぬ花嫁賤子であった。善治の胸中はいかばかりであったろう。

時を忘れて妻の顔を見つめたであろうか。

 

 

 

遺言通り賤子とだけ刻まれている

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