きのうの風から 我が救いの証し

  • 2009.06.10 Wednesday
  • 13:59



昨日の風から 我が救いの証し

 

私の所属する教会は今年創立60周年を迎えています。教会では昨年から記念行事を計画し準備してきました。そのうちの一つは、教会員全員が、礼拝の中で、救いの証しをすることです。4月からスタートしました。順番は年齢の順でも教会歴の順でもなく、牧師がランダムに決めています。

 

証しはあらかじめ原稿を作成し、それに基づいてお話しすることにしました。原稿は順次教会ニュースに掲載し、後日一冊にまとめたいと話し合っています。

 

今週の聖日礼拝は私の番がでした。救いの証しは、私が使命としている『あかし文章』の基本中の基本ですから、今までにもなんども書いてきましたし、口頭でも証ししてきました。

 

しかし、今回は、自分の教会の礼拝の中で、おなじみの兄弟姉妹を前にしてするのですから、ストックを使うのではなく、新しい気持ちで、主に感謝しながら書いてみようと導かれまして、新たにペンを握りました。

話すときは多少前置きやアドリブが入りましたが、以下のようになりました。

皆様にもご紹介し、神様がたった一人の魂を追いかけ、どんなに大きな愛で、赦し愛し守り続けてくださっているか知っていただき、主の御名があがめられるようにと願っています。

 

 

 イエス・キリストに救われて

 

私は洗礼を受けて、つまりイエス様に救われて54年になります。クリスチャン54年生です。教会は今年創立60周年ですから私は創立6年後にイエス・キリストの家族として誕生したことになります。私の先輩として今現在教会でお会いできる方は、Nさん、Tさん、Sさん、Mさんの4名です。

 

神様が私を教会に導かれたのは、妹を通してでした。

私には妹が3人おります。その妹たち3人ともそろっていつの間にか日曜学校に行っていたのです。妹たちが学校、学校と、日曜学校と言う声を耳にして、私は、内心、たいへんおもしろくありませんでした。私の知らない学校へ行くなんて許せないと腹を立てていました。それが根っこにありましたので、日曜学校がキリスト教の教会のことだとわかると、妹たちをからかったり、いじめたりしていました。私は、最初はイエス様を迫害する者だったのです。

 

中学3年生の夏休みの時でした。すぐ下の妹が「姉ちゃんも教会に行ってみたら」と言いました。たぶん、以前からそんな声かけがあったのだと思いますが、反発するかあるいは無視していたのでしょう。記憶にはないのです。

しかしその時は、妹の声が聞こえたのです。妹はさらに「姉ちゃんは中学生だから、大人の礼拝にいった方がいいよ」といいました。

その時でした。私の心の堅い大岩がごろっと動いたのです。行ってみてもいいかなと思いました。

 

こうして私は移転前の昔の教会へ行きました。家のすぐ近くでしたから一人でいきました。でも、たいへん緊張して出かけました。

 

礼拝が終わって帰ろうとすると「来週もまたいらっしゃいね」と、声をかけてくださった女性がいました。そのやさしい笑顔につうなずいてしいました。その方は今は天に帰られた故A姉妹です。

 

以後私は休むことなく通い続けました。しばらくするとF牧師先生が声をかけてこられました。

 「クリスマスに洗礼を受けませんか。ご両親と相談してください」。洗礼が何を意味するのか正確な知識があったわけではありません。

 「入学式のようなものです。学校も入ってから勉強してわかってくるのと同じです。何も心配はありません」と言われました。F牧師は威厳を感じさせる初老の温厚な紳士に見えました。早速両親に話しをすると「自分でいいと思ったらそうしなさい」というので、牧師先生に「両親は反対しませんでしたから、そうしたいと思います」と言いました。

 「ではこのクリスマスにしましょう」ということになりました。

 

受洗の日まで、特別な学びをしたわけではありません。唯一の支えは「入学式のようなものです」だけでした。しかし何の疑問も不安もありませんでした。あるのは未知の世界への好奇心と冒険心でした。信仰と呼べるものはなにもなかったと思います。

もう一つ、不純な動機もありました。私より先に教会へ行っていた妹たちを追い越せることでした。長女の私は妹たちにはかなり高圧的だったようです。。

私は妹たちに聞こえよがしに言った。「姉ちゃんはね、クリスマスに洗礼を受けるんだよ」。まだ小学生の妹たちは何のことやらわからずに 「ふーん」と言うばかりでした。

 

クリスマスの日、私は一張羅のセーラー服に白いリボンを結んで式に臨みました。頭に振りかけられた滴礼の冷たい水が首筋から背中に伝わりまました。冷たくて身震いしましたが、同時に目の覚めるような鮮烈で爽快な思いが体の真ん中を走りました。その水滴は私の魂の中心に命中したと思います。

「あなたは今日から神の子です。すべての罪は赦されました」

 先生の宣言を非常にうれしく感動して聞き、心から信じました。

 

その頃、私は自分自身に悩んでいました。自分の性格やしていることがいやでたまらず、時に激しい自己嫌悪をいだいていました。新しい自分になれたらなあと強く思っていたのです。ですから、いままでの自分がすべて赦されて新しく生まれかわり、しかも神の子になったといわれたのです。ほっとして、うれしくてなりませんでした。

 

新しく生まれ変わって清い神の子になったと言われて自分がとても偉い者になったようで得意でさえありました。これが未熟児のような私の誕生物語です。

これはわずか十代のことですか受洗後の事もお聞きください。

 

洗礼を受けて清い神の子に生まれ変わったと固く信じていましたが、しばらくして、私は、いつまで経ってもちっとも変わらない自分に気がついて、大きなショックを受けました。私は、アンデルセンの童話ではありませんが、醜いアヒルの子がある日突然白鳥になるように想像していたのです。ところがみたところ私はいつまで経っても醜いアヒルの子のままでした。

 

キリスト教に疑問を持ち始めました。神の子に生まれ変わったなんてうそじゃないか。いつになったら私は清い神の子になれるのだろう。性格も変わり、愛にあふれたやさしい人になれるのだろう。

 

そこから私の悩みが始まりました。神を求め真理を求める魂の旅が始まったのです。聖書を読み、キャンプにも行き、その他、聖会や大会などどこでも出かけていき、私の疑問に答えてくれるものを探しもとめました。

今から考えますと、これらが神様へ一歩一歩近づく道だったと思います。救われるってどういう事か、十字架の意味はなにかが少しづつわかっていきました、

 

実際生活の中から、私を神様に近づける、神様をわからせる出来事がいくつも重なりました。試練と呼ばれる患難困難を通してです。

二十代から三十代、四十代と、私は次々に襲いかかってくる苦難の中でもがいていました。初めての子を死産で失ったこと、家庭には問題が起こり、おまけにその最中に大きな交通事故に遭って、私はまるで煮えたぎったお鍋の中へ投げ込まれたような状態でした。自分も人も信じられず頼れず、泣きうめくだけでした。その中で一つのみ言葉を聞きました。それは私の葬儀に時にも読んでいただきたいと思っていますが、生涯を変えるみことばになりました。今も支えられている杖です。

 

『私は永遠の愛であなたを愛している。私はあなたに聖実を尽くし続けた』

エレミヤ書33章3節のお言葉でした。

みことばは私を長い悪夢から目覚めさせました。私のそばにぴったりと寄り添ってくださるイエス様がわかったのです。その時以来です、神様を疑うことはなくなり、平安が与えられました。

 

もう一つ私の信仰生活の中心に立つのは、義とされる事の意味がわかったことです。あるとき一つの信仰の文書を読んでいるときでした。

 

第一コリント5章21節のみことば『神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは私たちが彼にあって神の義となるためです』が激しく迫ってきました。それまでもたびたび耳にし、納得してみことばのはずでしたが、このときは目も心も魂も全部一度に開いて、体中が空っぽになり、自分が消えてなくなってしまったような気がしました。

 

自分を見ていた自分がまちがっていたとわかりました。イエス様だけを見ればいいのだ、イエス様が私の前に立ちはだかって、私の義となって、私を義としてくださるのだ。イエス様の十字架は私を義とするためだったのです。これは言い換えれば、罪赦されて新しく神の子にされたということです。

 

その喜びはたとえようもなく、まるで天にのぼるような気分になり、それが数日間も続きました。こうして、受洗以来の長い間の疑問がひとつずつ解決していきました。

 

もう終わりますが、私は生まれたこの教会、私の魂の家でこれからも暮らし続け、やがてここからイエス様のみもとに帰って行くでしょう。それを願います。そして、教会こそ我が家であり、皆様こそ私の大切な家族なのだと、最近は特に思いを強めています。                    おわり

 

 


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  • 2020.05.31 Sunday
  • 13:59
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    コメント
    感動しました。
    今、この時に伺えたこと感謝します。
    ありがとうございます。

    <私の生まれたこの教会・・・
    このような私を育ててくれ、励ましてくれるイエスさまの建てられた教会に私も生涯暮らし続けたいと思っています。
    • チャキ
    • 2009/06/10 9:11 PM
    なんと言っても教会は信仰生活のベースです。基本であり、土台でしょうね。でも、ここに根を下ろすのも並大抵ではありません。忍耐あるのみ。楽しくうれしいことばかりではありませんよね。
    • チャキさんへ
    • 2009/06/11 8:42 AM
    教会員全員の証集を出すこと。

    私の頭に浮かんでは消える望みです。
    大きな教会なら働き人が沢山いて、原稿も沢山集まるでしょう。とても無理だな。と。

    欲することを横一列に並べてしまうと、不満と焦りがつのります。
    縦一列にしたら、陰になって見えなくなりました。

    先ずは一つずつ。許された時間の中で、行くほかありません。
    • 美雨
    • 2009/06/11 12:52 PM
    岩動き 清水一滴 魂透す
     
     命求めて 半世紀越ゆ
    • ミュー・ラ
    • 2009/06/11 3:20 PM
    あかし集を作ることはたいへんなことです。ペンクラブなら原稿が集まりますが、なかなかどうして、まずそこが高い高いハードルです。次のハードルに行けないうちにダウンです。でも、志を与え、実現に至らせるのは主ですから、あきらめないでください。
    • 美雨さまへ
    • 2009/06/11 4:53 PM
    すてきな一首をありがとうございます。私もひねろうかしら。何が飛び出すやら。
    • ミュー・ラさんへ
    • 2009/06/11 4:55 PM
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