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きのうの風から 『若松賤子の生涯を覗く』

きのうの風から『若松賤子の生涯を覗く』

 

新しく、歴史に生きる一人のクリスチャン女性の生涯を追かけ始めています。

ダイジェスト的にまとめてみましたので、ひとまずアップします。

写真は、若松賤子ゆかりの場所です。洗礼を受けた横浜海岸教会と葬られた染井霊園の中の墓地です。こちらは豊島区駒込、JRは山手線巣鴨駅が便利です。主な参考図書は『説くと我を見みたまえ』(山口玲子著 新潮社)によりました。

 

 

 

 

『若松賤子の生涯を覗く』

 

平絽の白無垢に身を包みながら、頭には純白のヴェールをかぶる、当時としては意表をつく斬新な花嫁姿で夫に寄り添う島田嘉志子、幼名甲子(かし)、ペンネーム若松賤子は、夫になる巌本善治に送る一篇の英詩を懐中にして式に臨んだ。明治二二年真夏の七月一八日、式場は賤子が洗礼を受けた横浜海岸教会である。花嫁賤子は二五歳であった。

 

この白きヴェールをとりて/とくと我を見たまえ

しかと我がこころを見たまえ/わがこころの最も悪しき輝きを/

われは君のものならず/ 

 

英詩は延々と続く。賤子には日本語よりも英語の方が使いやすいのだ。特に自分の思想や信条を的確に表現するには英語が慣れていた。なにしろ六歳の時からギター宣教師と暮らしていたもの同然だったから。詩は長い間原文のまま置かれていたのを昭和になってから訳されたという。その訳文をであるが、一読するかぎりかなり物騒な内容である。まだ封建色の色濃い時代にあって、結婚の日に夫に贈る言葉としては異様である。形を変えた懐中の短刀ではないか。

 

全身全霊和洋折衷のかたまりのような装いと英詩は、賤子の二五年の前半生とわずか七年の短い結婚生活、合わせて三二年に満たない全生涯を鮮やかに物語る象徴といえる。賤子は夫に自分のどんな顔を見てもらいたかったのだろう。顔は心を表わす鏡である。ヴェールの下の花嫁の顔には賤子の心が赤裸々に映っていた。夫を慕いつつも、ありのままの自分をよく見てほしい、よく知ってほしいと訴えているのだ。

 

賤子は自由な精神を持っていた。時代の空高く飛んでいる女性であった。しかし立場や学問や才能をことさらに振りかざす高慢軽率な女性ではなかった。自作品のペンネームとして使った「若松賤子」にそれが現れている。若松は、あとで述べるが、出生地である会津若松を指す。「賤」は神のみ前に自分は賤しい女であるとのへりくだりであり、「私は賤子、神の身前には賤の女、それ以上ではない」との心情の吐露である。特異な装いの下には出生から嫁ぐ日までの波乱に富んだ二十五年がそのまま包まれていた。夫になる善治はそれをどこまで知り、理解していたのだろうか。この白きヴェールをとりて/とくと我を見たまえ/と挑戦しつつも、胸元に飛び込んでする妻に狂おしいほどの愛しさを覚えながら、善治はヴェールの下の燃える瞳をとくと見たに違いない。

 

賤子は現在の福島県会津若松に生まれた。父松川勝次郎は会津藩士であった。賤子が生まれたとき、父は京都守護職に任じられた最後の藩主松平容保(かたもり)とともに京都にいたという。時は元治元年(一八六四年)三月、明治に先立つこと四年の維新前夜である。

 

会津藩は維新の悲劇の闇を一身に背負った、いわば犠牲の小羊といえよう。会津と聞けばすぐに飯盛山での白虎隊の自決を思い出すだろう。敗者になる川に忠誠を尽くしつづけた結果である。

会津初代藩主保科正之は家康の孫にあたり、家光とは異母弟の間柄である。三代目から松平家を名乗り川の親藩となった。正之の作ったかの有名な『会津家訓十五箇条』の第一条に「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」と記したほど、川一辺倒の藩である。幕末の藩主松平容保はこの遺訓を守り、佐幕派の中心的存在として最後まで新政府軍(薩長土肥他連合軍・官軍)と戦った。戊辰戦争の一部の会津戦争と呼ばれる戦いである。

 

会津藩攻撃の火ぶたが切って落とされたのは賤子四歳の時であった。

一八六八年戊辰の年、元号が明治と改まる半月前の慶応四年八月二三日の朝、会津若松は官軍に急襲される。もとより藩はこの時のために綿密な手筈を整えていたが、官軍は早鐘が鳴る前に攻め入ってきた。先頭を切ったのは土佐の板垣退助が率いる一隊であったという。

 

賤子の家は祖父と父は出陣していて、留守宅を守る祖母と母との三人が、阿鼻叫喚の巷に飛び出した。

ついでながら、鶴ヶ城はありったけの武力で応戦、その中には後に新島襄の妻になる山本八重も女性の身でありながら銃を取って粉塵の戦いをした。賤子たちがようやく火炎の町を出たとき、身重だった母が出産した。ショックのために早産したのだろうか。女児はみやと名づけられた。母はこの時以来心身に重い病を負い、二年後に亡くなった。父の行方は分からなかった。この二年間の賤子の身の上については諸説があり、真相は神しか知らないとおもう。しかし確かに神だけはご存知であった。神は賤子のかたわらを歩いておられた。神の不思議な御手は強く伸ばされ、人には奇跡としか表現できない数奇な仕方で働いていた。

 

六歳になった賤子は横浜にいた。よりによって新時代を先取りする横浜である。濃厚な保守一色の会津と比べると対極の環境である。微塵も賤子の意志から出たことではない。賤子という種は神の風に乗って、あらかじめ用意されたまことによい地に落ちたのである。会津の火炎で焼かれていたかもしれないこの一粒の種は、神の地に蒔かれたために三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことになった。

 

賤子の父、会津藩士松川勝次郎は藩の隠密であったそうな。そのために名も島田姓を名乗り、いつも在所は不明であった。藩主容保とともに京の都にいたとか、降伏後は榎本武揚の箱館戦に加わったとか、会津藩の新しい領地、斗南へ移住したとかいくつかの説があるが真相は明らかではない。しかし、賤子は父の隠密時代に懇意になったと思われる横浜の商人山城屋の番頭、大川甚兵衛に貰われて横浜に連れてこられ、大川家の養女になった。父勝次郎の意志であったと思われる。

 

賤子はアメリカ人女性宣教師「キダーさんの学校」入れられた。メアリー・エディ・キダーは日本初の女性宣教師である。学校は、居留地三九番地ヘボン施療院の中にあった。ヘボンはヘボン式ローマ字、辞書の編纂、聖書の翻訳で知られる長老派の宣教師であった。横浜は「祖国の中の異国」と呼ばれ、文明開化の先駆けとなった地である。新しい文明を学び、身を立てようと志す人々が全国から集まってきていた。戊辰戦争に敗れた旧幕臣や佐幕派の家臣や子弟たちも多かった。

 

賤子は生来神経質なのか、またはそれまでの異常な生育史のためか、衣服の着脱や入浴などの基本的な生活習慣も身についてはおらず、しつけようとする養母にはなじまず、意に染まぬことは頑として口を閉ざして従わず、養母をおおいに困らせたそうである。学業態度も悪く、下女が付き添いで世話を焼いた。養父大川甚兵衛は山城屋の大番頭であったから、物質的には豊かで、賤子は甘やかされ、贅沢な衣類で身を飾り、目立つ生徒だった。

しばらくして養父の身の上に一大事が起こった。勤め先の山城屋が倒産、当主の和助は自害したという。賤子一家は横浜を去り東京下谷稲荷町に移転した。

 

空白の三年があって、明治七年、賤子は新しく寄宿舎制度整ったキダーの学校に再入学した。賤子にはもう付き添いはいなかった。変転激しいこの時期は賤子をすっかり成長させたようだ。賤子は単身でキダーの寄宿学校に戻った。その経緯には、会津以来、杳として行方の知れなかった父勝次郎との再会があり、没落貧窮の大川家の世話になれないと悟った父の英断であった。

 

キダーの手紙集として《フェリス女学院》に残されている文書には、学校の写真が同封され、次のような一文がある。『よく目立つビロードの衿を付けているのがカシ(賤子の本名は島田嘉志子)です。彼女は江戸から来ました。彼女はずっと前に私の生徒でした。寄宿学校が出来たとき戻ってきました』

新しい学校は横浜港を見下ろす山手の高台、千坪ほどの場所に建ち、校舎と寄宿舎があった。建築資金は主にキダーの出身地アメリカ改革派伝道協会本部から寄贈された。

 

明治八年六月一日に開校式が行われた。時に賤子は十一歳になっていた。はじめは「寄宿学校」と呼ばれていたが、明治九年には建築資金を寄贈した協会の総主事アイザック・フェリスの名を取って「フェリス・セミナリー」と命名された。日本最初の女子教育機関である。現在の「フェリス女学院」と改称されたのは戦後の昭和二五年のことである。

 

新しい寄宿学校は水をくみ上げる風車、タンクが備えられ、校舎の壁が赤一色で覆われ、窓枠は濃いグリーンであったので人々の注目を浴び、風車の学校、赤学校と親しまれた。ギダーは賤子が東京にいる間に結婚してミラー夫人になっていたが、夫人には特別に愛され期待される生徒であった。

 

明治十年、十三歳の賤子は横浜海岸教会でミラー師から洗礼を受けた。横浜海岸教会は日本初のプロテスタント教会である。フェリスからはすでに数名のクリスチャンが誕生していた。キダーの手紙には『スエコとカシコは熱心で忠実な主の働き人です。彼女たちは日曜学校を作りました』とある。スエコとは後に植村正久夫人になる山内季野(すえの)である。神の伸ばされた力ある御腕は会津の戦火の中から孤児同然の幼子を拾い上げ、新鮮なキリスト教教育の乳を与え、育て、魂の救いにあずからせるとともに、純粋な信仰者として、熱心な教育者として、文学者として仕立てあげた。神のドラマに心が震える。

 

賤子には彩な才能が潜んでいたが、それが次々に花開いていった。その芯柱になるのは神への信仰であった。十三歳の時に魂のうちに住まわれた神は終生変わりなく賤子のうちに燃え続け生き続けた。昭和三七(一九六二)年、生まれ故郷の生家跡、会津若松(福島県会津若松市宮町)の古川家の庭に建てられた文学碑に刻まれた一文がそれを証ししている。

 

『私の生涯は神の恵みを/最後まで心にとどめた/ということより外に/

 語るなにものもない/ 若松賤子』

 

この一句は私の内におごそかな音色を奏でつつ鳴り響いている。なんとつつましく、何と気高く、なんといさぎよい告白であろう。 賤子の生涯はわずか三二年、数え年七つの長女を頭に、三人の子と最愛の夫善治、焼失したばかりの明治女学校(夫が校長)、手がけている多くの文学活動などいっさいを心から主に託して神のみもとに帰って行ったのである。

 

 

寄宿学校で勉学中のクリスチャン賤子に戻る。

 

ここで生活するようになって賤子は初めて平和を知った。学校の保護と監督のもとで身の安全を守られる日々の中で、賤子は「家庭」を見出したのであった。ミラー夫人はいつも生徒たちを「大家族」と呼んだ。ミラー夫人こそ賤子にとって生みの母、育ての母に勝る「母」であった。 その後、母であるミラー夫人はフェリスを退職し、十年ぶりにアメリカに帰国、二年後に再び来日するのであるが、夫妻ともども東京築地で伝道に専念することになった。賤子にとって「母」のいないフェリスは寂しくまたむなしかった。校長もブース師に代わった。

 

学友たちはほとんどが結婚のために思い思いに学んでは去っていった。いつまでも行き場のない賤子は孤独であった。しかしブース師の力強い経営と教育のもとで賤子は元気付けられて再び勉学に励んだ。

そのころフェリスには正式な卒業制度はなかった。

「どうして私たちは官立学校のように免許状をもらえないのですか」

賤子を筆頭に学生たちの意見は聞き入れられ、こうしてフェリスは明治一五年六月二九日、最初の卒業式を挙行した。開校当初からのただ一人の生徒である賤子に卒業証書が授与された。賤子はたった一人のフェリスの一期生であった。賤子は来賓と在校生たちを前にして英語で演説をした。しかし一人の身内も賤子の晴れ姿を見る人はいなかった。 賤子はブース校長を初め来賓の祝辞を聞きながら、ここまで育てられた自分にはフェリスの理念実現のための責任があると痛感した。賤子は和文教師として採用されそのまま母校に残って教鞭をとることになった。時に花の一八歳であった。 

 

日に日に名声の高まっていくフェリス・セミナリーは賤子の資質を発揮させるにこれ以上はない環境であった。賤子は学内に生徒たちのための文学会「時習会」を創設した。今でいえば部活動であろう。会報も発行した。この会は月一回開かれ、参加者が自作の文章を朗読した。また、英詩暗誦、演説、音楽、会話などがあった。外部にも開放し、客を招くこともあった。賤子は女子教育と文学の二本の柱を働きの中心にした。

 

一九年には初めて『女学雑誌』へ投稿が始まった。

この『女学雑誌』こそ、賤子の才能を全開させ、文筆家として世に出るための備えられた花壇であった。さらに巌本善治との出会いは賤子の人生そのものを大きく変えることになった。

 

『女学雑誌』は明治一八年七月に創刊され、主宰者の巌本善治が大半の記事を書いてい

た。賤子は『女学雑誌』が総合的に婦人問題を扱うことに大きな関心を抱き、自分と同じ志であることに新鮮な喜びを感じた。あるとき善治がフェリスに見学にきたことで面識を得、『時習会』誌を進呈し、二人の親交が深まっていった。

 

賤子の心には今までに経験したことのない炎が燃え始めた。異性を慕う恋の炎である。

賤子は過去にもいくつかの火炎を潜り、味わってきた。四歳の時の会津戦争の戦火、キダー女史から受けた母のような慈しみの炎、縁薄き実父や妹への情愛の炎などがあったが、善治への思いは思慕の火炎であった。賤子は自分の方から積極的に近づいていったという。賤子は多忙の中ではあるが、善治のために翻訳の手伝いなどをして善治の活動に協力した。

 

賤子の心を燃やした巌本善治についても語らねばなるまい。

 

巌本善治は賤子より一歳年上で、兵庫県但馬国出身、同国の木村熊二牧師から下谷教会で受洗した。木村熊二は夫人の鐙子とともに明治女学校を創設したところであった。ところが鐙子がコレラに罹り思いがけなく急逝してしまった。明治二〇年、善治は校長を引き継ぐことになった。 冒頭にあるように二二年に、賤子は善治と晴れて結婚の式を挙げたのである。ところがそれ以前にすでに賤子は結核に冒されていた。花婿はそれを承知で妻として迎えた。嫁ぐ賤子も賤子なら迎える善治も善治である。共通の信念と愛だけが二人を結ぶ絆であった。周囲はこの華やかな結婚に喜び沸いた。時代を代表するフェリス・セミナリーと明治女学校の校長という時代の寵児たちの結婚である。そこここに羨望のため息が広がった。数年後になるが、フェリスにも明治女学校にも生徒として学んだ相馬黒光、この女性もまた《アンビシャス・ガール》と騒がれた超一級の巨人であるが、その著『黙移』の中で、校長巌本善治への憧れと夫人賤子への敬慕の思いを熱く語っている。

 

賤子は翌年、長女清子を出産する。当時不治の病と忌み嫌われた結核を患う中で、子を得たことは夫婦にとって無上の喜びであった。続いて翌年には長男荘民を産む。同時に賤子は夫の主宰する『女学雑誌』に次々に作品を発表していった。生死をさまよう病魔と育児の繁忙のただ中で、賤子は創作の火炎と化して全霊を打ち込んでいった。特に賤子の代名詞ともいえる『小公子』の翻訳が進められていった。その訳文には賤子が手探りで編み出していった言文一致の文体が使われていた。文学史上にも画期的な出来事であった。

二七年には次女民子を出産した。

 

一大事件が起こった。

 

学校は麹町区下六番町六番地(現在の千代田区六番町)にあった。粗末ながらも校舎、校長舎、寄宿舎、教員宿舎が建てられていたが、その一階のパン屋から火が出た。二九年二月四日未明のことであった。そのとき賤子は四番目の子を宿していたが、病は日に日に重くなり、すでに死を前にしていた。賤子は氷雨の跡が凍結して滑る道を、善治に背負われて一丁西の学習院教授石川角次郎宅へ避難した。生徒も全員無事であった。しかし、施設のほとんどが焼け落ちてしまった。

 

賤子は薄れていく意識の中で、四歳の時、身重の母と祖母の三人でかい潜った会津の戦火のただ中にいるような気がしていた。賤子とって、会津の火炎はどんなに消そうとしても消すことのできない恐ろしい原風景の一つであった。しかし、時おり漏れ聞こえてくる我が子たちの透きとおった声を耳にすると、悪夢から解かれ、深い安心感に満ちた笑顔が浮かぶのであった。 とはいえ、火災よる心身の負担は賤子の命をさらに縮めた。七日に容体が急変し、ついに十日月曜日午後一時半、息を引き取った。三二歳に満たない生涯であり、結婚して七年足らずであった。

 

臨終の前日、善治は一日中賤子の枕もとを離れなかった。振り返れば結婚以来、二人だけで静かに過ごした時は皆無であったといえる。善治の活動は多忙を極め、賤子の顔をまともに見る暇もなかったのだ。

 

白きヴェールをとりて/とくと我を見給えと、目を閉じたままの蒼白の顔が訴えている。

その顔は七年前と少しも変わらぬ花嫁賤子であった。善治の胸中はいかばかりであったろう。

時を忘れて妻の顔を見つめたであろうか。

 

 

 

遺言通り賤子とだけ刻まれている


2011年クリスマスによせて ルター家の聖夜    

銀座のツリー

 

2011年クリスマスによせて 

 

         ルター家の聖夜        

 

いずこの家にも/めでたき音ずれ/伝うるためとて/あめよりくだりぬ

神なるイエスこそ/罪とがきよむる/きずなき小羊/救いの君なれ
                                                    
讃美歌一〇一番 マルティン・ルター作詞

 

ルター家の居間から、賛美の声が聞こえてくる。子どもたちがルター夫妻を囲んでいる。時は一五三五年クリスマスの宵。入り口のそばにはリンゴとローソクで飾られた背の高いもみの木が置かれている。ルターが寄宿している学生たちと近くの森から抜いてきたものだ。ルターは子どもたち一人一人に笑顔を向けながら、言い聞かせるようにゆっくり話し始めた。

「今年は、みんなには、お金で買ったプレゼントはないんだよ。でもこころからのプレゼントがある。これから父さんと母さんが歌う歌だ。今年のプレゼントはこの歌だよ」

 ルターと妻のカタリーナは、子どもたちの前にすくっと立ち上がると、胸を張り、リズムを取りながら歌い出した。以後、この歌はクリスマスには必ず歌われ、時にはみんなが手をうなぎ合って輪になって歌ったという。

 

こころの臥所(ふしど)の/塵をば払いぬ/愛するイエス君/靜かにいねませ

馬槽のそばにて/マリヤが歌える/み歌にあわせて/我らも主をほめん

 

ルターとは、宗教改革の英雄マルティン・ルターのことである。妻の名はカタリーナ・フォン・ボラ。もっともルターはケーテと、愛を込めて呼んでいたが。彼らはヴィッテンベルグ城教会からほど近くに住んでいた。フリードリヒ賢明王が提供してくれたものだ。王は、改革の嵐の中からルターの身柄を守り続けた。ルターには神からの使者とも思える命の恩人である。ある時、命を狙われたルターは、変装してアイゼナハのワルトヴルグ城に逃げ込み、身を潜めていたこともあった。

 

歌い終わるとケーテが胸をぽんと叩きながらやさしく言った。 

「みんなの大好物、お肉のお団子入りのスープが大鍋いっぱいに、できてますよ!」

子どもたちは歓声をあげた。

その夜、ルター家のクリスマスは讃美歌とスープしかなかったが、神の愛とルター夫妻の愛が満ち満ちていた。そこには五人の子どもたちだけでなく、親戚から押しつけられた十人の子どもたちと、ルターを頼って地方から来ている貧乏な学生たちが何人も寄宿していた。多いときは三十人もいたという。ルターの人柄が偲ばれる。それはまた、妻カナリーナの器量に寄るところが大きいはずだ。


  二人の結婚は、ルターは四二歳の時、カタリーナは二六歳だったとか。

当時の常識から言えば、聖職者が結婚するのは型破りも甚だしく、異端児でなければできないことだった。もっともルターは八年前の一五一七年を契機に、ローマカトリックの世界にプロテストしていた。ルターはいのちを賭けて自分の信じる神と聖書と聖霊に固く立って、信念の道をひた走っていたのだ。

 

カタリーナは、没落貴族の娘だった。幼いとき母を亡くした。父は口減らしのため修道院に送ったという。当時はそうした方法がまかり通っていたのだろうか。修道女たちの生活は過酷を極めたようだ。

一五二三年、ルターは友人たちと十二人の修道女たちの脱走を手助けし、彼女たちを救出した。解放された女性たちを故郷へ帰したり、結婚相手を探して家庭を持たせたりした。 


  カタリーナはその中の一人だったが、ルターへの思慕を募らせていた。さすがの英雄も、結婚には悩んだらしい。修道僧としてのルターの人生辞書には、結婚という文字はどこにも見あたらなかった。しかし、ルターは強い決意をして結婚に踏み切った。一五二五年のことであった。この結婚には理解者もいたが、激しい非難と、嘲笑を浴びせる者たちもいた。 


  主婦カタリーナは、聖書の【箴言】にある賢い妻以上に働いた。農場と果樹園を借り、畑仕事、家畜の世話、大家族の世話をこなした。心臓の悪いルターのために、独学で医学を学び看病した。カタリーナはただの女性ではなかったのだ。ルターにふさわしい、神が選ばれた伴侶だったといえよう。


    ルターは公言してはばからなかった。

    このドイツをくれるといわれても、

私は、それよりも、やさしい妻がいる家庭を選ぶ。


  ルター家には次々と子どもが与えられた。結婚の翌年に長男ヨハネスが生まれた。二人は六人の子どもの親になった。しかし長女エリザベスを生後八ヶ月で亡くし、後年、十三歳のマグダレーナを天に送らねばならなかった。

 

宗教改革は、当時の世界、ヨーロッパをずたずたにする一大出来事であった。ルターはその立役者の筆頭である。どんなにか厳しく、どんなにか多忙であったろうか。ゆかりの地に立つルター像や、友人カルナッハ描く肖像画を見る限り、彼はいつも聖書を胸に抱き、天を凝視している。しかし、ルターは愛の深い、情熱の人でもあった。妻を愛し、子どもたちをかわいがり、隣人へも心を砕いた。


  時代の嵐がどんなに激しくても、ルター家のクリスマスのキャンドルや歌声を消すことはできなかったのだ。ルター家のクリスマスは、五〇〇年の歳月を跳び越えて、すぐお隣の家のことのように思える。ドアーを開けて歌声に和し、肉入りのお団子スープのお相伴に与りたい衝動を覚える。きっとケーテさんは、大きくドアーを開けて迎えてくれるだろう。

 

マッチ売りの少女が雪の降りしきる寒空の窓越しに見たお金持ちの家の居間にはだれがいたのだろう。ノックしても開けてはくれなかったであろう。もしかしたら、《クリスマス・キャロル》の冷酷な守銭奴スクルージのような老人がひとりぼっちでいたのかもしれない。

 

マリヤとヨセフが迎えた初めてのクリスマスは、家畜小屋だった。しかし孤独ではなかった。羊飼いたちがどやどやと入ってきた。羊飼いから聞いた町の人たちも次々にやってきた。  遠く東の国から博士たちも訪れた。もちろん家畜たちもいた。


  ルター家のように、マリヤとヨセフのように、我が家の聖夜を祝いたい。 

 



                  この秋に、宗教改革の足跡を辿る研修旅行に参加し、

ルターが活動した現場を巡りました。そのときの見聞をもとに綴りました。

 

 












きのうの風から 我が救いの証し




昨日の風から 我が救いの証し

 

私の所属する教会は今年創立60周年を迎えています。教会では昨年から記念行事を計画し準備してきました。そのうちの一つは、教会員全員が、礼拝の中で、救いの証しをすることです。4月からスタートしました。順番は年齢の順でも教会歴の順でもなく、牧師がランダムに決めています。

 

証しはあらかじめ原稿を作成し、それに基づいてお話しすることにしました。原稿は順次教会ニュースに掲載し、後日一冊にまとめたいと話し合っています。

 

今週の聖日礼拝は私の番がでした。救いの証しは、私が使命としている『あかし文章』の基本中の基本ですから、今までにもなんども書いてきましたし、口頭でも証ししてきました。

 

しかし、今回は、自分の教会の礼拝の中で、おなじみの兄弟姉妹を前にしてするのですから、ストックを使うのではなく、新しい気持ちで、主に感謝しながら書いてみようと導かれまして、新たにペンを握りました。

話すときは多少前置きやアドリブが入りましたが、以下のようになりました。

皆様にもご紹介し、神様がたった一人の魂を追いかけ、どんなに大きな愛で、赦し愛し守り続けてくださっているか知っていただき、主の御名があがめられるようにと願っています。

 

 

 イエス・キリストに救われて

 

私は洗礼を受けて、つまりイエス様に救われて54年になります。クリスチャン54年生です。教会は今年創立60周年ですから私は創立6年後にイエス・キリストの家族として誕生したことになります。私の先輩として今現在教会でお会いできる方は、Nさん、Tさん、Sさん、Mさんの4名です。

 

神様が私を教会に導かれたのは、妹を通してでした。

私には妹が3人おります。その妹たち3人ともそろっていつの間にか日曜学校に行っていたのです。妹たちが学校、学校と、日曜学校と言う声を耳にして、私は、内心、たいへんおもしろくありませんでした。私の知らない学校へ行くなんて許せないと腹を立てていました。それが根っこにありましたので、日曜学校がキリスト教の教会のことだとわかると、妹たちをからかったり、いじめたりしていました。私は、最初はイエス様を迫害する者だったのです。

 

中学3年生の夏休みの時でした。すぐ下の妹が「姉ちゃんも教会に行ってみたら」と言いました。たぶん、以前からそんな声かけがあったのだと思いますが、反発するかあるいは無視していたのでしょう。記憶にはないのです。

しかしその時は、妹の声が聞こえたのです。妹はさらに「姉ちゃんは中学生だから、大人の礼拝にいった方がいいよ」といいました。

その時でした。私の心の堅い大岩がごろっと動いたのです。行ってみてもいいかなと思いました。

 

こうして私は移転前の昔の教会へ行きました。家のすぐ近くでしたから一人でいきました。でも、たいへん緊張して出かけました。

 

礼拝が終わって帰ろうとすると「来週もまたいらっしゃいね」と、声をかけてくださった女性がいました。そのやさしい笑顔につうなずいてしいました。その方は今は天に帰られた故A姉妹です。

 

以後私は休むことなく通い続けました。しばらくするとF牧師先生が声をかけてこられました。

 「クリスマスに洗礼を受けませんか。ご両親と相談してください」。洗礼が何を意味するのか正確な知識があったわけではありません。

 「入学式のようなものです。学校も入ってから勉強してわかってくるのと同じです。何も心配はありません」と言われました。F牧師は威厳を感じさせる初老の温厚な紳士に見えました。早速両親に話しをすると「自分でいいと思ったらそうしなさい」というので、牧師先生に「両親は反対しませんでしたから、そうしたいと思います」と言いました。

 「ではこのクリスマスにしましょう」ということになりました。

 

受洗の日まで、特別な学びをしたわけではありません。唯一の支えは「入学式のようなものです」だけでした。しかし何の疑問も不安もありませんでした。あるのは未知の世界への好奇心と冒険心でした。信仰と呼べるものはなにもなかったと思います。

もう一つ、不純な動機もありました。私より先に教会へ行っていた妹たちを追い越せることでした。長女の私は妹たちにはかなり高圧的だったようです。。

私は妹たちに聞こえよがしに言った。「姉ちゃんはね、クリスマスに洗礼を受けるんだよ」。まだ小学生の妹たちは何のことやらわからずに 「ふーん」と言うばかりでした。

 

クリスマスの日、私は一張羅のセーラー服に白いリボンを結んで式に臨みました。頭に振りかけられた滴礼の冷たい水が首筋から背中に伝わりまました。冷たくて身震いしましたが、同時に目の覚めるような鮮烈で爽快な思いが体の真ん中を走りました。その水滴は私の魂の中心に命中したと思います。

「あなたは今日から神の子です。すべての罪は赦されました」

 先生の宣言を非常にうれしく感動して聞き、心から信じました。

 

その頃、私は自分自身に悩んでいました。自分の性格やしていることがいやでたまらず、時に激しい自己嫌悪をいだいていました。新しい自分になれたらなあと強く思っていたのです。ですから、いままでの自分がすべて赦されて新しく生まれかわり、しかも神の子になったといわれたのです。ほっとして、うれしくてなりませんでした。

 

新しく生まれ変わって清い神の子になったと言われて自分がとても偉い者になったようで得意でさえありました。これが未熟児のような私の誕生物語です。

これはわずか十代のことですか受洗後の事もお聞きください。

 

洗礼を受けて清い神の子に生まれ変わったと固く信じていましたが、しばらくして、私は、いつまで経ってもちっとも変わらない自分に気がついて、大きなショックを受けました。私は、アンデルセンの童話ではありませんが、醜いアヒルの子がある日突然白鳥になるように想像していたのです。ところがみたところ私はいつまで経っても醜いアヒルの子のままでした。

 

キリスト教に疑問を持ち始めました。神の子に生まれ変わったなんてうそじゃないか。いつになったら私は清い神の子になれるのだろう。性格も変わり、愛にあふれたやさしい人になれるのだろう。

 

そこから私の悩みが始まりました。神を求め真理を求める魂の旅が始まったのです。聖書を読み、キャンプにも行き、その他、聖会や大会などどこでも出かけていき、私の疑問に答えてくれるものを探しもとめました。

今から考えますと、これらが神様へ一歩一歩近づく道だったと思います。救われるってどういう事か、十字架の意味はなにかが少しづつわかっていきました、

 

実際生活の中から、私を神様に近づける、神様をわからせる出来事がいくつも重なりました。試練と呼ばれる患難困難を通してです。

二十代から三十代、四十代と、私は次々に襲いかかってくる苦難の中でもがいていました。初めての子を死産で失ったこと、家庭には問題が起こり、おまけにその最中に大きな交通事故に遭って、私はまるで煮えたぎったお鍋の中へ投げ込まれたような状態でした。自分も人も信じられず頼れず、泣きうめくだけでした。その中で一つのみ言葉を聞きました。それは私の葬儀に時にも読んでいただきたいと思っていますが、生涯を変えるみことばになりました。今も支えられている杖です。

 

『私は永遠の愛であなたを愛している。私はあなたに聖実を尽くし続けた』

エレミヤ書33章3節のお言葉でした。

みことばは私を長い悪夢から目覚めさせました。私のそばにぴったりと寄り添ってくださるイエス様がわかったのです。その時以来です、神様を疑うことはなくなり、平安が与えられました。

 

もう一つ私の信仰生活の中心に立つのは、義とされる事の意味がわかったことです。あるとき一つの信仰の文書を読んでいるときでした。

 

第一コリント5章21節のみことば『神は罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは私たちが彼にあって神の義となるためです』が激しく迫ってきました。それまでもたびたび耳にし、納得してみことばのはずでしたが、このときは目も心も魂も全部一度に開いて、体中が空っぽになり、自分が消えてなくなってしまったような気がしました。

 

自分を見ていた自分がまちがっていたとわかりました。イエス様だけを見ればいいのだ、イエス様が私の前に立ちはだかって、私の義となって、私を義としてくださるのだ。イエス様の十字架は私を義とするためだったのです。これは言い換えれば、罪赦されて新しく神の子にされたということです。

 

その喜びはたとえようもなく、まるで天にのぼるような気分になり、それが数日間も続きました。こうして、受洗以来の長い間の疑問がひとつずつ解決していきました。

 

もう終わりますが、私は生まれたこの教会、私の魂の家でこれからも暮らし続け、やがてここからイエス様のみもとに帰って行くでしょう。それを願います。そして、教会こそ我が家であり、皆様こそ私の大切な家族なのだと、最近は特に思いを強めています。                    おわり

 

 



研修会課題文『私と聖書の人々』によせて【 異国に散った星エステル】       

 

 異国に散った星 エステル       

 

日本クリスチャンペンクラブ初夏の研修会ではテーマにちなむ課題文を持ち寄り、時間をかけて評価し合いました。以下は私の作品です。

 


 聖書   旧約聖書 エステル記

 聖書箇所 私は、死ななければならないのなら死にます。
                 (4章14節)

 

 エステルとは、ペルシャ語で星を意味するという。

娘たちが教会学校から『エステル』の絵本をいただいてきた。年子の二人が相次いで就学したころだったとおもう。

 二人はすっかり気に入ってしまった。明けても暮れても、国語の教科書のようにくり返し音読していた。

 エステルのどこが二人のハートに響き、どこに捕えられたのだろう。

 
 当時、我が家庭は崩壊の嵐に直撃され、母娘三人の暮らしが始まったばかりであった。幼いとはいえ、彼女たちはそれなりに傷つき、心細い思いをしていたことだろう。エステルの境遇に深い共感を覚えたことは確かだ。

 

エステルはユダヤのバビロン捕囚民の子である。異国ペルシャで父母を失い孤児となった。従兄弟モルデカイに育てられたものの、うら寂しい日々を送ったことだろう。そのエステルが、なんと、王妃に選ばれてきらびやかな宮殿に住まうようになるのである。娘たちにはもうひとつのシンデレラ物語だった。   

エステルは心の夜空を照らす希望の星になったにちがいない。

もちろん、私にもそうであった。

 

時流れて、娘たちが直接聖書からエステルを読むようになったころ、子育てを終えた私は、第二の人生を祈り模索していた。

 足もとに見つけたのが《あかしの文章》だった。神様の置かれた捨て石だったとおもう。


 忽然と、書きたい思いが目覚めた。あるキリスト教雑誌の証し作品募集案内が目にとまった。

「エステルを書こう」即座に決めた。
『異国に散った星』と題して五十枚のエッセイを書いて応募した。

 

エステル記のクライマックスは、モルデカイがエステルに「あなたがこの王国にきたのはこのときのため」と迫ると、エステルが、「死ななければならないのなら死にます」と応じて、命を賭して王に直訴する場面であろう。


 エステルは、歴史の主である神様に助けられてユダヤ民族を救い、一躍光り輝くアルファー星となった。

が、エステルは遙かユダヤの地を恋い慕いながらも、異教の色濃い宮殿を去ることはなかったにちがいない。エステルは異国ペルシャの夜空に散った星といえる。

 

しかし神の物語はそれで終わらない。

数百年を経て、明けの明星と呼ばれるイエス・キリストは十字架上に一身を犠牲にし、全人類を滅亡の淵から救った。

そのきらめきの中に、エステルの星のかけらを見る思いがする。
                          おわり


 
 ★規定は原稿用紙3枚1200字ほど。 原稿には一行明けはありません。


                           


きのうの風から  今年のクリスマスエッセー 『さあ、ベツレヘムに行って』

クリスマスの夜
  今年のクリスマスエッセー 『さあ、ベツレヘムに行って』


クリスマスの時期になると、なにか一篇書きたくなります。クリスマスカードといっしょに送りたいと思うのです。できる年もありますが、毎年とはいきません。今年は羊飼いたちに目がとまり心が動きました。


 ルカの福音書2章15節
 『羊飼いたちは互いに話し合った。 さあ、ベツレヘムに行って、
主が私たちに知らせくださったこの出来事を見て来こようではないか』

あそこには 行きたくない
あそこに行くと ひどい目に遭う
あそこの人たちは、臭い、汚い 暗いとさげすみ あざ笑い
 ののしって、石を投げる人さえいる 
あそこには 行きたくない
あそこに行くと 悲しい目に遭うから

その夜のことは、今では世界中の人の知るところとなりました。イエス様がお生まれになった、あの夜のことです。あなたもご存じですね。特に、羊飼いたちが天使から御子のお誕生を告げ知らされるところは、いつ聞いても感動に満ちています。

ああ、できることなら、あのとき、あそこにいたかった。
天使のお告げを聞きたかった。
天使の歌声を聞きたかった。
羊飼いたちといっしょに家畜小屋へ駆けて行きたかった。
みどり子のイエス様を拝したかった。

なんとメルヘンチック、ロマンチック、ドラマチックでしょう。すべてのクリスマス物語がそう思えるように。
ところが、羊飼いたちがベツレヘムに行くのには、乗り越えねばならない厳しい山坂があったのです。心の山坂があったのです。
羊飼いたちはベツレヘムの町から離れた野原で羊の群れを飼っていました。それが彼らの生活を支える唯一の仕事でした。羊の群れは神殿の祭司から託されたものでした。羊たちは一匹、また一匹と神に捧げられるのでした。

羊飼いたちは祭司や町の人々のように律法の一つ一つをまちがいなく守ることはできませんでした。なにしろ野原が彼らの住まいなのですから。水で手足を清潔にすることもままなりませんでした。当然、律法の専門家たちは彼らを侮蔑したのです。臭い、汚い、暗いと声を荒げて。

羊飼いたちはじっと耐えていました。悔しくて悲しくて涙をこぼすこともありましたが、みんなで肩を寄せ合って我慢しました。
ひとつだけ、誇りにすることがありました。仕事です。神様に捧げる羊を育てていることでした。徹夜で出産を見守り、寒さや暑さからも守り、怪我ひとつさせずに育てるのです。声をかけ、膝に抱き、自分の上着を掛けてやるのです。その羊が愛する神様へ捧げられるのです。これほどやりがいのある仕事はないと思っていました。それを支えにして、喜んで、時に楽しんで、群れを養いました。

ベツレヘムの町には近寄らなくなりました。祭司のところにはリーダー格の二、三人が、まるで戦場に行くように緊張して出かけるのでした。
そんなわけですから、天使のお告げを聞いた時、みんな、しばらくは顔を見合せるばかりでした。口をつぐんだまま。

ベツレヘムの町に
救い主がお生まれになりました だって。
どうしてベツレヘムなのだろう。
ほかだったらいいのに。
一番行きたくない所じゃないか。

だれもがそう思いました。天使の軍勢が去ってもなお、星明かりだけの暗い空をじっと見つめていました。しかし、それは、ほんのしばらくでした。みんなの心にむくむくとまったく同じ一つの思いが生まれてきました。
「さあ、ベツレヘムに行って、主がお知らせくださった出来事を見て来よう」
彼らはいっせいに叫んだのです。
 
 時は真夜中です、夜道を行くのです。行きたくない町にいくのです。夜だからいじめる人はいないと安心はできません。夜だからこそ恐ろしい目に遭うかもしれないのです。でも、天使の知らせが彼らの心の闇を照らしていたのです。

飼い葉おけに寝ておられるみどり子こそ
待ちに待った救い主だそうだ。
救い主にお会いしなければ
救い主を拝さなければ

思いますに、
私たちにも行きたくないところがあります。会いたくない人がいます。遠回りしてでも避けてしまいたい、顔をそむけて素通りしてしまいたい、そんな深い心の闇があるのです。でも、そこに主がおられるとしたら、何をおいても、不都合な時間でも、心の葛藤があっても、行かなければならないでしょう。愛する主はベツレヘムにおられるのです。私が選んだところではなく、行きたくないベツレヘムにおられるのです。

『さあ、ベツレヘムに行って、主がお知らせくださった出来事を見て来ようではないか』


   羊飼いたちの勇気と信仰にならって、
   私のベツレヘムへ急ぎたいと思います。
      真夜中であっても、
      寒風肌刺す真冬であっても、
   主いますところに行きたいと思います。


十字架


昨日の風から クリスマスに想う その6 あふれるクリスマスミュージック

この時期、町中のいたるところから賛美歌やクリスマスミュージックが聞こえてきます。スーパーはもちろん、駅ビルも、小さなショップもみんな、きよしこの夜やジングルベルです。レパートリーも増えました。教会以外でこんなにもクリスマスの歌が、聖書の世界が、堂々と歌われるのは実に喜ばしいことです。もれ聞こえる賛美歌に惹かれて教会へ入っていった人たちは数知れません。そのまま教会にとどまり続けた人たちはおおぜいいます。
 以前に書いたエッセーを載せます。
歌が生まれるクリスマス  
 
賛美歌『きよしこの夜』を知らない人はいない。この歌の誕生物語もまた有名である。歌は、オーストリヤの北西、オーベンドルフの寒村にある小さな教会で生まれた。
 時は二〇〇年ほど前の雪深い夜のこと、予想外のことが起きてムーア先生はあわてていた。明日はクリスマス・イブだというのにオルガンが鳴らないのだ。もう、修理はまにあわない。ムーア先生は音楽教師のグルーバーを呼ぶと、昨夜作ったばかりの詩を広げた。霊想満ちる詩であった。グルーバーはギターを抱くと、まるで旧知の曲のように爪弾いた。
 こうして、不朽の名曲は沈黙のオルガンのかたわらで産声をあげた。
 ご降誕に相前後して、二千年前のユダヤには三つの賛美が生まれている。
 第一は言うまでもなくマリヤの賛歌(マグニフィカート)である。乙女マリヤは、天使ガブリエルの受胎告知に信仰の従順で応答した。
 が、単身逃げるようにしてナザレを旅立つ。ユダの山里を目指して。親類の老女、祭司ザカリヤの妻エリサベツに会うためであった。エリサベツはつい六ヶ月前、奇跡的に子を宿した。マリヤは救い主の母になるという未曾有の大役に不安とおそれを覚えていたのかもしれなかった。
 ところが祭司夫人は『私の主の母がこられるとは、なんということでしょう。胎内で子どもが喜んでおどりました』と感嘆の声をあげて若き田舎娘マリヤを抱きしめた。謙遜と柔和が匂いたつような歓迎ぶりにマリヤの張りつめた心がやわらかくなった。なによりも命を宿す女性の豊かさと美しさに胸がふるえた。
 ふいに歓喜が吹き上げて、マリヤは高らかに歌声をあげた。
   わがたましいは主をあがめ
   わが霊は、救い主なる神を喜びたたえます。
 こうして、不滅の賛美はエリサベツの笑みのかたわらで誕生した。
歌声は老祭司ザカリヤにも聞こえたであろう。老いた妻の懐妊が信じられなくて、神から口を閉ざされ、深い沈黙の中にいたのだ。
愛息が生まれると、たちまち唇は解け、ザカリヤはマリヤに劣らず歌いにうたった。後世、ドミニクスと呼ばれる二つ目のクリスマス賛歌である。
三つ目は、赤子イエスが産声をあげ、飼葉おけにねむるころ、ベツレヘム郊外の野原に野宿する羊飼いたちが聞いた、天使の歌声グローリヤである。世の底辺を這うように生きていた彼らは、星々のささやきにまさる天群のコーラスに歓喜した。彼らはそろってご降誕の現場に駆けつけた。
三つの賛歌はイエス様の子守歌になったにちがいない。


今年のクリスマスには、信仰の先人たちにならって新しい歌をうたいたい。
世の理不尽な沈黙やわが心の闇を裂く、新しい歌をうたいたい。 









昨日の風から クリスマスに想う その5 ベツレヘム通りの人々

新約聖書の2番目『ルカの福音書』には、イエス・キリストご降誕のいきさつが詳しく美しく書かれています。感動せずにはいられません。マリヤとヨセフが、住民登録のためにナザレから100キロあまりの旅をして、はるかベツレヘムに到着し、宿を探す場面は映像を見ているようにリアルです。古来小説にエッセーに劇に、絵画に音楽にと、あらゆるジャンルで作品が作られてきました私も、まねごとをして楽しんでいます。朗読劇を書いてみました。昨年3カ所ほどで使われました。読んでいただけたら幸いです


降誕劇  ベツレヘム通りの人々        

 (音楽が流れる中で、ナレーターが語り出す)
マリヤとヨセフはようやくベツレヘムの町にたどり着きました。ロバの背に揺られるマリヤも手綱を取るヨセフにも、疲労の色が濃くにじみ出ています。
 日が傾いて、黄昏の空は刻一刻と暗さを増し、早くも冷え冷えとした夜風が吹き始めました。
 二人は町の中央広場を抜け、役所の前を通り、メインストリートを上っていきます。両側は名を誇る旅館や店舗が建て込み、競い合うようにあかあかと灯をともしています。道は緩い上り坂。ロバが荒い息を吐いています。(音楽止める)

ヨセフ はやく宿を決めよう。長い旅だったね。さぞ疲れたろう。
マリヤ いいえ、あなたこそ私を気遣ってお疲れでしょう。
 
 ヨセフはぐるりと辺りを見回し、一番豪壮な建物に入って行きました。

ヨセフ 宿泊したいのですが、できるだけよい部屋をお願いします。
従業員 (慇懃に)お名前は?ただいま予約リストをお調べします。
ヨセフ 予約はしていませんが、泊めていただけないでしょうか。
従業員 (じろじろとヨセフを見ると急に態度を崩して、声高に)無理だね。うちをどこだと思っているのかね。ここは迎賓館だよ。国の偉い方や祭司長の皆様のお宿さ。おや、ガリラヤなまりだね。世間様を知らないね。
ヨセフ 私はナザレのヨセフと言いますが、ダビデ王の子孫で…
従業員 もうたくさんだよ。ダビデの子孫など掃いて捨てるほどいるってことくらいわかってるだろう。ま、よそを探すんだね。
数人の従業員たち口々に ダビデの子孫だってさ、アハハハハ

 ヨセフは憮然としてマリヤのそばに戻りました。

マリヤ こんな立派なところは私たちには不釣り合いですわ。
ヨセフ マリヤ。君のお腹にいる赤ちゃんはこの世のどんな王も比較できない、王の王、主の主だよ。全世界の救い主だよ。そのお方が泊まるところだもの、迎賓館どころか宮殿でもいいはずだ。
マリヤ そうですね、でもヨセフ、イエスはこの世の王として生まれるのではないでしょう。金や銀のきらめきを喜ぶでしょうか。私のような貧しい田舎娘を母に選んだお方ですよ。
ヨセフ おお、そうだった。私のような田舎大工を父に選んだお方だった。
天の神よ、おろかな我を赦したまえ。
 
ヨセフは天を仰いで祈ると、ふたたびロバの手綱を取りました。すこしずつ道
幅が狭くなり、両側の建物も低く、小さくなっていきます。

ヨセフ このあたりで探してみよう。
おや、マリヤ、苦しそうだが、もしや……
マリヤ ときどきお腹が張ってきます。お産の前触れだと聞かされています。でもまだ大丈夫です。
ヨセフ そりゃたいへんだ。待っておいで。こんどこそ宿を決めるからね。

 ヨセフは一件の建物に入っていきました。と、マリヤの耳に甲高い女性の声がき
こえてきました。

宿の女主人 無理ですよ。急に泊まらせろと言われても。あなたもよくわかってるでしょう、町は住民登録の人であふれているのですよ。いまごろ空いているところなんてありゃしませんよ。男の方一人なら相部屋もできますが、奥さんとご一緒じゃねえ。ごめんなさいよ。

 ヨセフは向かい側の一件にも入っていきました。

宿の亭主 無理、無理。超満員だよ。家族の部屋さえ使っている有様だよ。もう数日早かったら何とかなったのになあ。役所の手続きもいっこうにはかどらなくて滞在が長引いているのさ。みんないらいらしているんだ。

 ヨセフはさらに数箇所あたりましたが、全部断られてしまいました。

ヨセフ これは困ったことになった。マリヤ、具合はどうかね。もう少し先に行ってみよう。
マリヤ どんなところでもいいのですけれど…。きっとどこかイエスが生まれるのに一番ふさわしい場所がありますよ。神さまが用意してくださっていると信じます。
ヨセフ そうだとも。最高の場所があるよ。神に期待しよう。

 ヨセフは気を取り直してまた一軒の入り口に立ちました。辺りは家々の明かりも
まばらになり、通りには闇が漂っています。

主人  なに? 泊めてほしいだって? 道々断られて、ここまできたんだろう。当然だよ。今のこの町の事情を知っているだろう。
妻   おあいにくさま。うちは一見(いちげん)さんはとらないのよ。こう見えても迎賓館の別館ですからね。
主人  奥さんの出産が始まりそうだって。ますます泊められないね。
    (声を落として)でも、この先には宿はもう一軒もないよ…
妻   お産ですって。なんでまたこんな時に、間の悪いこと。この忙しいのにと
でもないことだわ。
(小さな声になって)わるいけど…泊めるわけにはいかないわ。
 

ヨセフは無言で出てくると、手綱をきつく握って歩き出しました。この先には宿はないとわかっていても引き返すわけには行きません。あたりはさらに暗くなり、道は凹凸が多くなり、ロバの一足一足にマリヤの体が大きく揺れました。
 さて、迎賓館別館では夫婦の話が続いています。

妻  (泣き声で)あなた、わたしたち、ひどいことをしたんじゃないかしら。出産間際の人を追い返してしまって。
主人 うーん。実を言うと、あの男の顔は気の毒で見ていられなかった。なんだか胸がズキンズキンしてたまらんよ。
妻  迎賓館別館だなんて、とんでもないうそをついてしまったわ。恥ずかしいわ。針で刺されたようにちくちくと胸が痛むわ。
主人 わたしはとっさに計算してしまった。お金が取れるような客じゃないってね。わたしはいつもいつも商売のことばかり考えてしまう。
妻  ああ、私って、冷たい女だわ。
主人 そう、わたしもだ。冷たい男だよ。
妻  わたしには愛がないのよ。思いやりがないんだわ。神さまに申し訳ない。
主人 そう、わたしも愛がない。神にお詫びをしなくてはいけない。
妻  あなた、あの二人、どこまで行ったでしょう。
夫  先に進んでいったようだけど、この道は崖下のヤコブの家でおしまいだ。ヤコブの家は町で一番貧乏だから、人など泊められないよ。一部屋で家族中が暮らしている。あとは家畜小屋だけだ。
妻  様子を見に行きましょうよ。
夫  次第によってはうちに泊まってもらおう。

 宿の夫婦はいそいで通りに出ました。そこへ数人の人たちが急ぎ足で近づいてきます。みんなヨセフを断った人たちでした。

男1 わたしは高飛車に追い出してしまったんだが、悪いことをしてしまった。心が責められてたまらなくなって、探しにきたんだ。
女1 私もけんもほろろに追い返したの。そしたら、急に胸が締め付けられるように苦しくなってしまった。ひどいことをしてしまったわ。あの人たちはどこでしょう。
男2 わしも心が騒いでたまらなくなった。神に赦しを乞いながら出てきた。
男3 旅人をもてなしなさいとは我らの神の大切な戒めではないか。知っていながら、情けのないことをしてしまった。
 
数人の男女は口々に反省し悔いながら、マリヤとヨセフを探して坂道を上ってい
きます。
 

さて、ベツレヘムの町から拒否され、どこにも泊まるところの無いマリヤと
ヨセフはどうしたでしょう。この答えは教会学校の生徒たちなら全員正解でしょ
うね。そうです。家畜小屋に泊まることができました。
町はずれに住む一番貧しい家族が、全員で歓迎し、こんなところですがと、申し
訳なさそうに言いながら案内してくれたのでした。

マリヤ ヨセフ、神さまはちゃーんとよい場所を用意してくださったのですね。
    暖かい人たちの心と、この静かさがイエスにはいちばんでしょう。
ヨセフ よかった、よかった。ほっとしたよ。でも、一時は不安になってしまった。このままじゃ、野宿しかない。それではイエスや君に申し訳ないと思ってね。
マリヤ わたしも不安でしたわ。ふっと、かすかに、神さまを疑ってしまいました。
ヨセフ わたしもだ。神に怒りを抱いてしまった。こんなに大きな使命を果たそうとしているのに、なぜ部屋ひとつくらい用意してくださらないのだろうと。
マリヤ 受胎を告知されたとき、『わたしは主のはしためです。おことば通りこの身になりますように』と明け渡したのに…、不信仰でした。
ヨセフ 『神にはなんでもできないことはない』と頭ではわかっていても、不本意なことがあると、すぐ不信仰になってしまう。私は罪深い人間だ。

 マリヤとヨセフは頭(こうべ)を垂れて祈り始めました。
 マリヤの出産がはじまりました。

そのころ、ベツレヘム通りの人々は家畜小屋の近くまで近づいていました。

(人々が口々に)
* 空を見てください。見たこともない大きな星が光っていますよ!
* ほんとだ。なんと大きな星だろう。明るくて太陽のようだ。
* あっ、星が動いている。下にむかって降りて来ている。
* 光がますます強くなって、まぶしいですね。
* あっ、家畜小屋の真上で止まった!。
* わかった。小屋の中にあの旅人たちがいるに違いない。
* きっとそうです。そうです。
* みなさん、あのふたりは特別な方々かもしれませんね。
* そう思います。神さまのお使いかもしれません。
 
そのとき、ずっとはるか上空では、小さな星々が申し合わせたようにいっせいにちかちかと揺れながら光りはじめました。その光のあいだから、こぼれるように天使たちの歌声が響いてきました。ベツレヘムの町は光と歌声のなかに包み込まれていきました。
家畜小屋のまわりでは、ベツレヘム通りの人々がきよい厳かな気持ちにあふれ、全員が手を組み合わせてお祈りをしていました。
 そして、家畜小屋の中では、生まれたばかりのイエス様を囲んで、マリヤとヨセフが感謝のお祈りをささげていました。
 
    賛美歌114番の1節と4節を全員で歌う。
 
            おわり






昨日の風から クリスマスを想う その2

アドベントが始まってクリスマス礼拝を迎えるまでの間、私の部屋に流れる音楽はクリスマスメロディー一色なります。メサイヤもこの時期に聞くといっそう感動します。
また、クリスマスの聖書箇所や、クリスマスにちなんだ書籍をまた広げます。このたびは、忘れかけていた一冊が目にとまりました。『クリスマスハンドブック』1991年にCS成長センターが出版したものです。そこに、私が書いたクリスマスのお話しがあります。幼稚科向けに依頼されたものです。今日はそれをアップします。


クリスマスのお話し
 いつ聞いても、何度聞いてもうれしくなるお話し、それはイエス様のお生まれになった日のことです。このお話しを聞く人に、神様は大きなお恵みをくださるでしょう。なぜって? イエス様は神様からのプレゼントなのですから。

天使の知らせ

「おはよう、マリヤ。神様からのお知らせをします」
 天使ガブリエルはうれしそうに言いました。
 マリヤはびっくりして、ちょっぴり怖くなりました。
「心配しなくてもいいのです。あなたは男の子を産みます。イエスという名前にしなさい。その子は世界の救い主になります」
マリヤは少し考えて、言いました。
「わたしはまだ結婚していないのですが」
「マリヤ、神様にはできないことはありませんよ」
 天使のことばを聞いて、マリヤの信仰が強くなりました。
「わたし、喜んでお母さんになります」
 マリヤはきっぱりと言いました。

飼葉おけのイエス様

「マリヤ、泊まるところが見つからない。困ったね」
 マリヤといいなずけのヨセフはベツレヘムにやってきました。ローマ皇帝の命令で、お役所に自分の名前を届けるためでした。マリヤは赤ちゃんが生まれそうになっていました。    ヨセフは心配でたまりません。宿屋はどこも満員で泊まれないのです。
「神様、マリヤと赤ちゃんのために休むところを与えてください」
ヨセフは祈りながら、また探して歩きました。
ある親切な人が言ってくれました。
「気の毒だね。家畜小屋でよければ使っていいよ」
 まもなく、マリヤは元気な赤ちゃんを産みました。でも、ベビーベッドはありません。赤ちゃんは飼葉おけに寝かされました。
「マリヤ、この子が約束の神の子なんだね」
二人はすやすやと眠る赤ちゃんの顔を、いつまでもいつまでも見つめました。

羊飼いの訪問

その夜は、いつもよりずっとたくさんの星が輝いていました。ベツレヘムの近くの野原で、羊飼いたちが野宿して、羊の番をしていました。
「こんなに静かで、こんなに美しい夜は初めてだ」
「そうだなあ、とても幸せな気分がするよ」
急に空が明るくなって、真昼のようになりました。
「これはなんだ!」
「怖いなあ」
天使の声が聞こえました。
「よい知らせです。今夜、救い主がお生まれになりました。目じるしは、飼葉おけに寝ている赤ちゃんです」
「聞いたか、救い主が生まれたんだって」
「確かに聞いたぞ。大事件だ。みんなで行こう」
空には天使の歌声がいっぱいに響きました。
「栄光が神のあるように、平和が地にあるように。ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ」
 羊飼いたちは飼葉おけのイエス様を見つけました。
「救い主に会えてよかった」
 羊飼いたちは町の人々にも知らせました。

博士たちの訪問

「あの星はどこまで動いていくのだろう」
「星が止ったところに救い主がおられるのだ」
イエス様がお生まれになって少したったころのこと。ユダヤの国のずっと向こうの東の方から、博士たちがやってきました。博士たちは星のあとについてきたのです。
「あっ、星が止ったぞ。救い主はあそこだ」
博士たちが入っていくと、マリヤとかわいらしい男の子がいました。
「おお、このお方こそ本当の救い主だ」
 博士たちは大切に持ってきた黄金、乳香、没薬をささげてイエス様を礼拝しました。これが2000年前のクリスマスです。小さいけれど喜びいっぱいのクリスマスでした。
 さあ、私たちもイエス様のお誕生をお祝いしましょう。イエスさまへのプレゼントも忘れずに、ね。

きのうの風から 時を知って散った佳人

前回の記事に細川ガラシャの辞世の歌を載せました。2年ほどに前彼女について一文を書きました。8月の最後の日に、夏を惜しみつつ、お読みいただければ幸いです。ブログの一回分としては少し長いですが、ご辛抱を。


細川ガラシャの志・散りぬべき時知りてこそ  

細川ガラシャの生涯には二つの巨大な出来事がある。
一つは、丹後半島の山中味土野(みどの)に幽閉されたこと、一つは、関ヶ原の前夜、大阪玉造にある細川家の屋敷内で自害したことである。
味土野幽閉は夫細川忠興の手によって行われた。忠興はなぜ最愛の妻を死地に追いやるように深山に幽閉したのか、その理由は明白である。

ガラシャ、実名玉子は、明智光秀の娘である。
天正十年(1582年)六月二日、光秀は主君織田信長に謀反を起こし、京都本能寺で弑逆した。細川家は逆臣の娘を抱えたことになった。こうした場合、荒々しい戦国のならいでは、玉子は即刻殺害されるか、離縁であろう。
ところで、細川家と明智家は人も知る盟友の間柄であった。光秀からは自分に荷担してくれるように再三催促があった。窮地に追い込まれた藤孝、忠興父子の苦悩は深かった。が、細川家は親友を捨てた。信長の命を弔うとして父子は剃髪して幽斎、三斎と名乗った。戦国大名の身のこなし方は非情である。
 
さて、玉子のことであるが、忠興は離縁と見せかけて、領内の山中味土野に幽閉したのである。忠興は気性の激しい武将で、残忍な振る舞いも多かったようであるが、妻玉子の命をこよなく惜しんだ。おそらく深く愛していたのであろう。玉子の美貌だけの故ではない。玉子は人格も魅力的であったようだ。その夫婦関係はかなり近代的だったと思われる。そして、息子忠興の心中を察する幽斎、藤孝も、人間理解の深い紳士ではなかったか。
 こうして玉子は死を免れ、わずかな従者とともに味土野に落ちのびたのである。
 
若いころから、ガラシャにはひとかたならぬ興味を抱いていた。外国語の名前を持つとはどういうことだろうと、単純な疑問が興味の初めだった。ガラシャとはグレイスつまり恵みの意味であり、彼女がイエス・キリストを信ずるキリシタンと知ったとき、太い綱でぐっと引き寄せられる気がした。と同時に、彼女の死に方に不審を抱いた。クリスチャンなら自殺は罪だと知っているはずなのに…、どうしてなのだろう。
永井路子の『朱の十字架』と三浦綾子の『ガラシャ夫人』がおおよその事情と背景になる情報を聞かせてくれた。

先年、思い立って隠棲の地、味土野に行ってみた。我ながらよく行ったものだと思う。アクセスが悪いのである。悪いどころではない、鉄道は丹後鉄道峰山までで、そこから現地へはタクシーしかないのである。峰山までは東京から新幹線で京都、山陰本線に乗り換えて福知山、近畿タンゴ鉄道で宮津、天橋立を通って峰山である。一日の旅では無理なので、ガラシャが嫁いだ細川のお城があった宮津という小さな町に宿泊した。

翌朝、宮津から峰山まで列車を使い、その後タクシーで山中に入った。
車一台がやっとの細い山道を40分上った。運転手氏によれば、昨今は半年に一人くらいしか訪れる人はいないという。
そこには跡地という目印の立て札が二、三ヶ所立っているだけ。道もそこで行き止まりになっていた。驚くべき深山であった。聞こえるのはうぐいすの声のみ。その時は風さえなかった。一面の新緑の中に溶けてしまいそうだった。

味土野に随行した者の中に清原マリヤというキリシタンの女性がいた。彼女はガラシャの精神生活に多大な影響を与えた。マリヤはガラシャの苦しみを温かく見守り、祈り続けながら、折に触れ、時に触れて神のことを話題にしたのではないか。ガラシャの心はすぐには開かれなかったが、山中での二年におよぶ孤独な生活は、神に到る、なくてならない道筋となったことは確かである。 

さて、天下人となった秀吉は、忠興にガラシャを戻すように命ずる。ガラシャは晴れて新築なった大阪玉造の細川屋敷に帰ることができた。
が、幽閉事件を通して地獄の底を見てしまったガラシャは、以前とは別人であった。一直線に神を求めた。秀吉のキリシタン禁制も、夫の立場も反対も信仰の炎を増すことはあっても消すことはできなかった。
やがてマリヤから洗礼を受け、ガラシャと名乗った。
三浦綾子氏のガラシャは、城中でかいがいしく伝道し慈善に励み、充実した信仰生活を送っている。

戦国の荒波はいよいよ猛く、まるでガラシャを標的にするように襲いかかってきた。さもあらん、世は信仰篤き者を見逃しはしない。時代は豊臣と徳川の二者択一を迫っていた。機を見るに敏な細川家は、今度はなんと家康を選んだ。
敵将石田三成は陰湿な手段をとった。
関ヶ原の前夜と言える16005月、忠興は家康の命で会津へ向かっていた。その留守宅に、石田方から夫人ガラシャを城中に差し出すように使者がきた。つまり人質である。わかっていたことであった。

出陣に際して忠興は、三成の命には決して従うことならずと申し渡した。それは死ねということであった。ガラシャも、人質は意ではなかった。生き延びても、いつか辱めを受けて棄教を迫られ、命も取られることは明白である。 信仰と夫の両方を立てる道は死しかないと判断した。ガラシャの決意を支えたのは強烈な信仰である。

ガラシャは忠興にきっぱりと言うのである
「デウスを信ずるものには肉体の死はありましても、霊魂の死はありませぬ」ガラシャは永遠のいのちを信じたのだ。

「御恩寵の日が来たと、わたしは今思っております。キリシタンの御禁制は日を追って厳しくなるとも和らげることはありますまい。私がキリシタンであることは細川家のために大きな障りとなることは明らかです。かといって、私にはキリシタンの御教えを棄てることはできませぬ」
永井路子は、ガラシャの死を恩寵によって与えられた恵みだと理由付けしている。
三浦綾子は、ガラシャが永遠のいのちを信じ、そこに希望のすべてを託して敢然として死んでいったと強調して、キリスト教の福音を明確に示している。      
 
ガラシャの辞世の歌は生き死にに対する決意を痛烈に物語っている。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ



伝道者の書の一節『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。生まれるのに時があり、死ぬのに時がある』を彷彿とさせる。
またパウロの声も聞こえてくる。
『私にとって生きるはキリスト、死ぬこともまた益です』
 
こうしてガラシャは積極的に死を選んだ。決して逃避や自殺ではなかった。死ぬことに志を見いだし、自分の全存在を賭けて死んでいった。 
三浦綾子は、死を間近にして『私にはまだ死ぬという大切な仕事がある』と言って、死に対する考え方に新しい領域を見せてくれたが、ガラシャの死もまた彼女にとっては最後の大きな仕事であった。

人の抱く志は十人十色である。しかしほとんどの場合土俵はこの世である。生きて志を果たしたいのである。的を死そのものに置く人は稀であろう。
ここに見えてくるのはイエス・キリストの十字架の死である。
神さまはガラシャの死をどのように判断されるであろうか。

日本クリスチャンペンクラブ発行 あかし新書27より

きのうの風から 創作童話 観覧車に乗る その3 終り

大観覧車

「あっ!」
「あっ!」
「ゆり子ちゃんよ、ママ!」
「ふう子ちゃーん」ゆり子の声です。
踏切の向こう側から車いすのゆり子がやってきます。
ふう子はママの手を振り切って飛び跳ねながら両手を高く上げて合図しました。
踏切のこちら側と向こう側の間に電車が入ってきて停車し、また走り出しました。
ふう子とママは乗ったかですって。もちろん乗りませんよ。
ふう子とゆり子にとって、踏切が上がるのがどんなに長かったでしょう。
ふう子は踏切を飛び越えて、車いすのそばに駆けよりました。
「ふう子ちゃん、ごめんなさい」ゆり子待っていたように言いました。
「ううん、もう、いいの。ウフフフ」ふう子は笑いました。
「ウフフフ」ゆり子は小さく笑いました。
「アハハハハ」ふう子がもっと大きな声で笑いました。
「アハハハハ」ゆり子も同じくらい大きな声で笑いました。
笑って、笑って、笑いごろげて、二人の体が大きく大きくゆさゆさと揺れました。風ができました。大きな大きな風になりました。

「うわっ、海が見える!」
「ほら、船も見えるわ!」
二人を乗せた観覧車がゆっくりと上昇しています。二人はピンク色の車に乗ったのです。
「ママが小さい!」
「ママが小さい!」
「真っ青な空!」 
「真っ青な海!」
「ほら、飛行機がきたわ」
「うわっ、大きいっ。飛行機のお腹が見えた」


ゆり子の家へ

踏切のそばでふう子ママとゆり子ママがお話ししています。
「先日はまことに申し訳ございませんでした。お電話ですませてしまって。お伺いしたかったのですが、ふう子ちゃんやゆり子のことを考えると、どうしたものかと迷いました」
「あれから、ふう子には何も言いませんでした。それとなく様子を見ていましたが、あの子、今日になって始めて話したのです」
「ふう子ちゃんは大人ですね。えらいわ。ゆり子ときたら、お恥ずかしい」
「ゆり子ちゃんの強さは大切ですわ。これからきっとお役に立つでしょう」
「ゆり子は謝ることができました。これは大きな成長です」
「そうですね。ふう子もゆるすことができました。大きな成長です」
ふう子ママとゆり子ママのお話しはつきないようです。
ふう子はそっとママの洋服を引っ張りました。
「ごめんなさい。お引き留めして。お出かけのようでしたね」ふう子ママはあわてて言いました。
「ええ、お宅へ」ゆり子ママが言いました。
「まあ、私たちこそお宅へ行くところだったのです。そうね、ふう子ちゃん」
「……」とっさにふう子は返事ができません。
ママったら、全く変だわ。ついていけないわ。
でも、ママのアイデアが一番。
「今日はね、サンドイッチがあるの、それと、バナナケーキ」
ふう子はバスケットを持ち上げてみせました。
「ねえ、ふう子ちゃん、さっきの観覧車のお話しましょうよ」
「楽しかったわねー」
二人はまたアハハハハと笑いころげました。

「そうそう、お二人にお話ししなきゃ。今日、主人が病院に行って、新しいお薬の説明を聞いてきます。次の診察の時、いただけるかも知れません」
ゆり子ママは目を輝かせて言いました。
「わたしに椅子を押させて。ゆり子ちゃん、いいわね」
ふう子はハンドルを握ると力を込めて、そっとそっと押し始めました。

                     この篇おわり


希望の風創作の小さな童話をご愛読くださり感謝します。学び会提出のためにせき立てられるようにして書いたものですが、ふう子とゆり子を主人公として、早くも3篇が生まれました。

初めはシリーズにするつもりはありませんでした。今、3篇になって、この先も二人の少女を追いかけてみたいと思うようになりました。彼女たちも、ちょうど私たちと同じように、様々な問題にぶつかって、苦しんだり、悲しんだり、失望したり、時にけんかをしたり、生きるのが苦しくなったりしながら、生きています。

その姿を捕らえて、絵に描くように、写真に撮るように、文字を使って表現したいと思います。私自身がだんだんと彼女たちをかわいく思うようになってきています。愛情が芽生え、増していっています。続編ができましたら、また読んでください。

なお、前作はカテゴリーのきのうの風を開くと読めます。


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