人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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旅の風から 宮古島の旅その5 見たこと聞いたことその4 終り

旅の風から 宮古島の旅その5 見たこと聞いたことその4  終り

 

 

 

 

 

 

最後の一日をどう過ごそうかと相談の末、宮古島にある有名な3つの大橋の残りの2つを制覇しようと決まりました。一つは北の池間大橋、もう一つは反対方向の真南に架かる来間大橋です。ホテルは直線で見るとちょうど島のまんなか、パイナガマビーチのあたりです。バスでの移動は不可ですからまた観光タクシーを使うほかはありません。予算もありますが、二度と来ないだろうから、思い切ってタクシーで走ろうとそれも即決しました。

 

フロントへ駆け込みました。ふと、思い出して、昨日のドライバーさんにお願いしたいと思い、ちょうどタクシー会社と運転手さんのお名前を憶えていたので、できればその方にと頼みました。ダメもとで。ところがです。なんと、実現したのです。彼氏はちょうど、観光船がホテルのそばの平良港に寄港する日なので、波止場にいたのです。船の乗客でタクシーを使う人たちを待っていたそうですが、予約ではなかったようで、すぐに来てくださいました。2時間で、北と南の両方に行けるということで、私たちは大喜び、感謝しつつ、車に乗り込みました。慣れた?車、慣れたドライバーさんに案内していただけるのです。大きな安心感がありました。彼は池間大橋の架かる池間島の方でした。島の風習など、道々語ってくださいました。とても書ききれませんし、旅から一か月も経つと忘れていることが多いのに驚きます。

 

宮古島と言えば台風の通過道、どのように被害対策をしているのか訊きました。家を見てくださいと。そういえば、平屋あるいは二階家ですが、まるでコンクリートの塊のように四角な白い家が並んでいました。どの家も同じようでした。あれでは暴風に体当たりされてもびくともしないはずです。みな無防備ではないのです。最大限、その地に適した方法で防備しているのだと大いに納得しました。それでも、この秋、関東では台風15号、19号のために想定外の被害に遭いました。それはもう不可抗力というものでしょう。

 

池間大橋は1425mで1992年に開通した、3つの橋の中で最初の橋だそうです。前日の伊良部大橋に比べれば3分の一ですが、南国の明るいブルーの海を見下ろす気分はたとえようもありません。池間島はちょうど年に一度の祭りがおこなわれているそうで、そのあたりに近づいてくれました。琉球王朝時代からの伝統行事「ミャークヅツ」という祭りで、旧暦9月に3日間行われるそうです。島には元(ムトゥ)という血縁集団が形成されていて、その一員に認められるのは55歳以上の男性で、大変名誉なことのようです。運転手さんは「成人式」と言いましたが、若者ではなく、成熟した中年男性の様でした。祭りと言ってもいわゆる神社のような建物はなく、島独特の四角いコンクリートの建造物がいくつか並んでいました。その中で何か儀式があるらしいのです。ここでなければ聞けない歴史と生活の一部を知って、これが旅の風なのだと心に深く吸い込みました。

 

また橋を渡って宮古島に戻り、一路南の来間島目指しました。ホテルの前を素通りして南進です。ほどなく来間大橋を渡りました。1690m、1995年3月に開通したそうです。

島の入り口にお土産物の車や小さな小屋があるだけ。運転手さんは島内を巡ることはしませんでした。観光スポットがないのかもしれません。すぐ近くの展望台へ上りました。ここからの景観もまた海、海、海、空、空、空ばかりですが、都会ではいくら歩いても乗っても見られない絶景です。100年分は見た思いがし、もう、生涯、どこの海も見なくてもいい、これで十分と、心から満足し喜びに浸りました。

 

二日間、わずか2時間ずつでしたが、お世話になった運転手さんと、思わず握手のお別れをして、愛車に乗り込む彼をさらに手を振って見送りました。はかない出会いとはいえ、これからも宮古島の旅を思い出すたびに、彼は必ずセットで現れるに違いないのです。前日のバスの運転手さんとともに、この島に生き、島を支える強力な活力の一翼を見た気がして、人間の存在を貴くまぶしく思ったことです。神様はご自身の息を吹き込まれ、それで人は生きるものになったとの創造の原点を思います。

 

午後はホテルの近くの「パイナガマビーチ」の白砂に足の乗せ、二人で無言のままじっと沖を見つめました。いや、海も空も凝視はしていませんでした。頭も心も体さえも空っぽになって、時間も無視して静かなひと時を過ごしました。あるかなしかの海風に溶け込んでしまいそうで、たぶん、様々なストレスがかき消えていったと思います。日頃、過重な働きをしている友人には、まさにいのちの洗濯の時だったのではと思ったことです。友人はこんなにりラックした旅をしたことはないと、大満足の様でした。旅とは何か、漂泊の旅人芭蕉はどのように考えていたのか、旅の達人に思いを馳せました。

 

 あれから一か月、現実の暦は早くも12月をしきりに指さし、

何かを訴えています。

 旅物語はここでひとまず終了。

これからもきっと思い出すことが多いと思います。

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旅の風から 宮古島の旅その4 見たこと聞いたことその3

旅の風から 宮古島の旅その4 見たこと聞いたことその3 

 

 

 

 

 

 

翌日朝9時に、ホテルのフロントに観光タクシーの運転手さんが来られました。2時間の観光をお願いしてありました。まず3540mの伊良部大橋を渡りたい、伊良部島の北端の白鳥岬にも行きたいと、観光案内書を開きながらお願いしました。運転手さんは心得たもので、島全体を海岸に沿って周り、名所のビーチ数か所で下車し、浜を歩いたり海に入ったりして、2時間でホテルまでたどり着けるようにプランを立ててくださいました。お天気は上々、気温は28度。蒸し暑さはなく、夏の帽子で十分な気候でした。

 

伊良部島は、生活圏は宮古島の西岸と向き合う、東部の一地域だけでそこは路線バスが通っていますが、島内一周などはないそうです。車窓から見る限り、海岸線の景勝地を除いてはどこもサトウキビ畑だけ、ひどくそっけなく荒涼としています。昨今は野菜や果物も作られるようになったそうですが、一昔前は、お米をはじめ食料などすべての生活用品は沖縄から買い求めたそうです。田んぼなどは全く見かけません。

 

サトウキビは沖縄が琉球であった時代は強制的に栽培させられました。薩摩藩の琉球の扱いは苛酷で、島民はまるで奴隷であったと、昨今読んでいる幕末時代の本にあります。サトウキビの一本一本まで監視され、違反すると極刑に処せられたのです。かつての悲惨な歴史を知ってか知らずか、海は明るく凪ぎ、観光客は波打ち際ではしゃいでいます。私は黒糖の塊をほおばりながらも、口に残る苦み渋みにこの島の過去の呻きを感じました。

 

伊良部島の子どものように下地島が繋がっていますが、橋はありません。どこかに境界はあるのでしょうが。西側に飛行場がありました。途中に、似つかわしくない建設中の立派な集合住宅群が見えてきました。ひどく違和感を覚え訊きますと、自衛隊500人が新たに駐屯するために建てられているそうです。国はそんなことをせっせとしているのだと、急に現実の厳しい場面を見せられ、重いものを感じました。

 

さすがプロの運転手さんだけあって時間内にすべてを案内してくださいました。いや、30分ほどオーバーしていましたが、サービスですと笑顔で走っていきました。お人柄か、島民の心か、温かいものが伝わってきました。

 

午後は、相棒の要求で、温泉施設に行くことになりました。そここそ、バスで往復しようと、フロントで時刻表をもらい、往復を確かめて出かけました。宮古島の南の海に面している場所でした。ところがこの往復に、泣きだしたいようなことがありました。温泉施設に一番近いバス停で下車したとき、運転手さんに帰りのバスのことを聞きますと、自分がまた来ることになっているとのこと。乗客は私たちだけだったので、道々ついつい話しかけ、また彼も質問以外のことをたくさん話してくれましたので、帰りもこの方なら安心と、必ず乗りますからお願いしますと言って、温泉へ行きました。ところがです、泣きたいとこの一つが起こりました。施設はすぐそばにあるものと思って下車したのですが、とんでもないことでした。路線バスは生活バスらしく、観光客の温泉施設直行ではなかったのです。方向は間違っていないはずなのに行けども行けどもありません。尋ねようにも人影もありません。人家もありません。これが夜だったらと、ぞっとしました。

 

ほんの数分で着くと思っていたのに、小一時間は歩いたでしょうか、短気な私は怒りさえこみ上げましたがやっと堪えて、ようやく小さな施設につきました。案内書ではかなり豪華な施設のように出ていましたが、感覚がづれていたのでした。またあのバス停まで戻る事を考えると温泉も上の空、友人は悠々と楽しんでいましたが。

 

友人を促して早め早めに帰り支度です。思いついて、施設のフロントで、バス停までタクシーをお願いしました。わたしは二度と歩けない、歩けるものではないと固く心に決めました。それに夕方が迫っていました。さっき降りたバス停の反対側にバス停がありました。ホッとして、しばらくバスを待つことにしました。薄暗い道路の片隅で、私たちはじっと立ち尽くしました。ホントにバスは来るのだろうかと、それさえ疑うような心細い心境になりました。

 

やがて、バスがやってきました。みれば行きの懐かしい運転手さんの顔が見えました。彼はここが終点で、バスはぐるりと向きを変えるが、もう乗りなさいと言ってくださり、私たちはバスに駆け上りました。結局最後まで二人だけでした。バスは中心街に入って道路も広くなり、車も多くなり、都会感覚を味わってホッとしました。

 

ところがまた困ったことになりました。このバスは、出発したときの平良港に行くのではなく、中心街で終わりとのこと。そんなところで降ろされては、ホテルまでタクシーを探さねばなりません。私たちの困り果てた様子を見た運転手さんが、いったんこのバスは車庫へ戻るが、改めて平良港発で、もう一回仕事がある、このバスに乗ったままで待っていてくれれば、車庫で手続きをして、ホテルのそばの平良港に行くからと言ってくださったのです。

 

信じられないようなこの幸運に、私たちはひたすら感謝して、運転手さんのご厚意に甘えました。うれし泣きの涙がにじみました。朝の観光タクシー運転手さんと言い、このバスの運転手さんといい、気持ちのいい方々を備えてくださったと、主のあわれみに感謝しました。

 

道々彼が語ったことをまとめます。50代ごろの方とお見受けしました。

若いころは九州の熊本で働いていたが島に帰ってきた。昼はバスの運転手をしているが、夜は、代行と言って、レンタカーを借りた観光客が飲食して運転できないときの代わりをする。組織があって登録しておくとたいていしごとがある。夜遅くまで働く。朝は、牛の面倒を見る。(牛とはびっくりしたのですが)種牛を育てている。今5頭いるが、一年半ほど育てて売る。まとまったお金が入る。この種牛は、神戸に行けば神戸牛になり、三重に行けば松坂牛になるそうです。珍しい話に驚いてしまいました。働けるうちにどんどん働いておきたい。夢は?と訊きますと、マンションのオーナーになることだと即座にはっきり言いました。しかし今、太りすぎで医者から注意され、減量に励んでいるとのことでした。夢を目指して3つもの仕事に精一杯励んでいる彼に、人間としての尊厳を見、旅の貴重な出会いに心が熱くなりました。

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旅の風から 宮古島の旅その3 見たこと聞いたことその2 

旅の風から 宮古島の旅その3 見たこと聞いたことその2 

 

 

 

 

 

 

宮古空港の観光案内所に寄ると、分厚いパンフレットを何冊も渡され、それだけで、ああ、ここは観光地なんだと実感させられ、それなら話のタネにと、観光スポット、カメラスポットに目を走らせました。ホテルのフロントでも同じような案内書を何冊も渡され、混乱しそうでした。

 

今回の旅で、一つだけして行ってみたい場所がありました。友人が言うには、最近、宮古島と西の伊良部島を結んで伊良部大橋ができたので、ぜひそれを渡ってみたいとのこと。それを聞いたとき私の心が大きく動き、行く気になったのです。真っ青な海の真ん中を3450mもの橋が架かっているとのことです。ちょっと想像しただけでもワクワクしてきました。

 

歩けるのだろうか、行きは歩いても帰りまでは歩けない、じゃ、バスがあるかしらと、すぐにフロントに駆けつけました。ところが、ところが、島の交通事情がありありと分かってきたのです。橋はもちろん歩けない。バスは?。あるにはあるが、帰りは適当な時間にはないと。結局、わかったことは、バスは島民の生活圏、病院や学校、役所だけを廻るだけで観光のことは全く考えていないのでした。それなら?。観光タクシーがかなり充実して、一時間、2時間、3時間のコースがあって、行きたいところを廻っていただくこと、これしかないのでした。個人旅行はそうしたものかもしれません。覚悟を決めて、さっそく翌日の朝、9時から2時間、伊良部大橋を渡って伊良部島の有名スポットを廻っていただくことにしました。ホテルからホテルまでということで。

 

そのあとは、観光案内書を片手に、ホテルの近くを歩き、南国の夕暮れを楽しみ、道路沿いの食堂に入って夕食となりました。半分心配しながら客となったのですが、どうしてどうしてさすが四方海の小島です。お魚のおいしかったこと!特にお鮨が。それも安かったこと!すっかりうれしくなり、島の印象も大きくアップしました。

 

ホテルの窓越しには平良港(ひらら)が見えます。少し沖合に大きな観光船が停泊していました。聞くところによると、昨今、こうしたクルーズの観光船が立ち寄り、朝、乗客を降ろして、夜遅く、島内に散ったお客が帰るの待って出港するそうです。そもそもその下船した乗客たちが島中を巡って観光あるいは買い物をするのです。週に3回ほど寄港するそうで、町はにわかにこの人々のニーズに合わせ、あるいは商売するために様変わりをしているとのこと。大型の店舗や食堂などが新しく作られていました。中国人、台湾人が多いそうです。

 

これは、観光タクシーのドライバーさんが語ってくれたものです。島は観光ブームでホテルやマンションが大規模に建ち始めています。昨日まで見る影もなかったサトウキビ畑が、一夜にして億を超える高値で売られているそうです。運転手さんはちょっとうらやましそうでした。

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旅の風から 宮古島の旅その2 見たこと聞いたこと その1 

旅の風から 宮古島の旅その2 見たこと聞いたこと  その1

 

 

宮古島が近ごろ観光ブームでマスコミに頻繁に取り上げられていることを、帰ってきてから聞きました。私たちは流行の地に旅したわけです。友人と私はもっぱら海を見て静かに過ごそうと、それだけを目的に行ったのです。私はひま人ですが、現役の友人は現場から遠く離れ、心身が空っぽになるほど海と空を眺めていたいとのことでしたので、それなら私も同じ、そこで意気投合し、立ち上がりました。

 

友人がネットから飛行機とホテルを予約しただけで全くの個人旅行です。島についての知識も持たず、無計画でした。同じ日本だから、何があっても言葉は通じる、スマホも使える、訊きたいことはホテルのフロントで教えてもらえるだろうと、安心がありました。

 

しかしです、最初から気になったことがありました。予約したはいいけど、飛行機の便のナンバーや発着時刻の状況などを知らせる紙一枚ないのです。ペーパーを見る事が出来ないのです。友人にメールすると、スマホから画面が送られてくるのみ、家の者にも画面で知らせるのみ。私としては何とも不安が漂います。そうした時代になったのだと自分にしっかり言い聞かせて、関係書類一枚もなく羽田に向かったのです。

 

空港内でも、友人はスマホを機械にかざしながら進んで行き、荷物を預けるのもすべて、スマホひとつです。ますます心細くなってしまいます。念願のペーパーのチケットを手にしたのはどの段階だったか、そこでようやくホッとしました。

 

計画を立てる時に私は、あまりにも早い早朝の出発と、深夜の到着は避けてほしい、二度とない旅だろうから宿泊場所もできるだけ小ぎれいなところをと注文しました。若い友人はエコな旅に慣れているので当惑したようでした。空港でゆっくりモーニングをいただき、熱いコーヒーをすすり、直行便は取れなかったのですが、10時ごろ飛び立ち、沖縄の那覇で乗り換えて、3時にはホテルにチェックインできました。機内から少し冠雪した富士山を見下ろし、日に輝く雲海の中をところどころ通過し、大きな島、小さな島を楽しみながら宮古空港に降り立ちました。気温は東京とは10度も違い、日差しは真夏並み。さすがに南国でした。

 

 

 

 

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旅の風から 南国の潮風 宮古島へ 

旅の風から 南国の潮風 宮古島へ 

 

 降ってきたような旅、とはいえ、多少確信犯でもあるのですが、

立て続けに襲い掛かってきた台風はまだ知らない夏の終わりに、年

若い友人とプランを立て、行ってきました。

 沖縄の那覇で乗り換えて、

東京から2000キロを4時間ほどかけて宮古空港に降り立ちました。

真夏の観光シーズンを過ぎたせいか、恐ろしいほど人影はなく、

空も海もひたすら大きく、時間も伸び伸びと緩んで感じられ、

ちぢこまっていた身も心も柔らかく広がって、

同じ日本とは思えない異文化に浸りきりました。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見聞録はまだまとめていませんので

折がありましたら、アップしたいと思います。

 

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旅の風から いずこも同じ梅雨寒の空

いずこも同じ梅雨寒の空

SLに出会う

 

旅とは言えない外出である。新幹線や特急に乗ればこれはもうれっきとした旅であろう。たまに車に乗せてもらうこともあるが。最近はいわゆる観光旅行のチャンスがない。自分から計画を立てて友を誘うこともしていないし、誘われることもなくなった。高齢の故であろう。と言っても、旅心が消えたわけではない。旅の風はそよいでいる。弱風になったかもしれないが。ときどき折りたたんだ旅の翼がむずむずすることがある。その時は、いつでも歓迎してくれる2か所へかわるがわるに飛んでいく。今回は上州路である。

 

ツバメの巣に出会う

 

今回はお天気具合もチェックしない。先方と私の都合の良い日を最優先した。これがなかなか合わない。こちらは旅気分でもあちらは活動のさなかが多い。梅雨空を承知で出かけた。ごく軽装である。ふだんのバックと薄い手提げ袋一つである。リュックばやりであるが、背中がうっとうしい気がした。手に持つのもつらいものがあるが、そのくらいは我慢しなければならない。バスに乗り電車に乗り換え、新幹線ホームに行く。たどり着くと言いたいくらいそれだけでもハードになってくる。まして一人旅。勘違いも多くなるから、切符とホームの表示を食い入るように何度でも見て確認する。老いてしまったものだ。

 

幸い、大雨はなかったが、いずこも同じ梅雨空である。そして梅雨寒である。今年の梅雨は気温が低い。どことなく冷えを感ずる。妙義の山の頂上はけぶり、浅間は見えなかった。

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旅の風から 新緑降る中へ

旅の風から 新緑降る中へ

 

 

 

 

 

5月も早や下旬に入る。あの歴史的10連休も終わって、日本中が日常に戻ったので、高齢者が街歩きしてもお邪魔にはなるまい。そんな意味づけをして、中央本線あずさ号に乗った。春に秋にと訪問する親しき友人宅にお邪魔することになった。目当ては新緑である。桜もいいけどその時は行けなかった。次は新緑である。生まれたばかりのあの柔らかな若葉の真ん中にいたいと、その一念である。山々が接近する甲斐路は巨大なグリーンボックスだ。

 

友人宅の周辺の林や庭の樹木はさしずめ新緑の箱である。そこに入ると、緑は上から降ってくる気がする。風に吹かれて樹の花や小さな葉が霰か雹のように降ってくる。樹も花も草も地から上へと向かうが、上から、空から、天から、神様のみもとから、地上に向かって降り注がれるのだ。と実感である。思わず知らず主への感謝と賛美があふれる。

 

 

 

庭の一隅にしつらえた木の椅子に座し、お茶を啜った。とたんに耳が開いたのか、鳥たちのさえずりが不規則に聞こえてくる。鶯の声だけは聴き分けられる。愛好家なら鳴き声で鳥の名をすぐに並べるだろう。かなりの種類の鳥たちが乱舞している。この光景を忘れてはならないと、目を見開いて凝視し、頭にも力を入れて記憶に努めてみた。緑少ない自宅に戻っても、しばらくは楽しめるだろう

 

 

 

 

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旅の風から 紅葉の中へ 軽井沢雲場池 

旅の風から 紅葉の中へ 軽井沢雲場の池

 

 

 

誘われて、渡りに舟とばかり北陸新幹線に飛び乗り、紅葉真っ盛りの軽井沢へ駆けつけました。軽井沢へは東京から一時間と少し。新幹線の威力でしょう。下車すると待機していた友人の車に移動し、いたるところ鮮やかに葉を染めた幾種類もの樹々の間を走り廻りました。今回はどうしても観ておきたい場所があり、そこへ案内してもらいました。

 

1990年代から約20年間、それまでは関係のなかった軽井沢の地が私の生活圏内に勢いよく入ってきました。御茶ノ水の学び舎が毎年その地でサマースクーリングを開催しました。また、同時進行で所属した「あかし文章」の書き仲間の合宿が同じ施設で持たれました。まだ新幹線のない時期もありましたが、毎年一回だけでなく、二回も三回も行くようになりました。そのたびごとにエピソードがあって、私の小さな人生史の中にかなりの分量で足跡を残しており、今では貴重な思い出、無形の財産になっています。

 

 

 

 

 

 

 

近年は、いっしょだった友も恩師も、ぼつぼつと永遠の御国へ旅立ちはじめ、思い出はますます濃密に結晶し、宝物のように光り、輝きを増しています。光が視線に入れば涙がこぼれ胸がうずくのです。「私には懐古趣味はないわ」と友に言い切ったものの、もしかしてこれが本物の懐古趣味かもしれません。理屈はさておき、思い出の象徴ともいえる雲場池の紅葉を訪ねてきました。もう一か所、恩師たち同窓の友たちと懇親会を開いたホテルのラウンジでお茶してきました。軽井沢でも奥まった地域なので森閑と静まり返り、ラウンジには人影もなく、椅子の配置も当時のままです。時が止まったようでした。あの時の一隅から、一人一人の姿が浮かび上がり、談笑する声まで聞こえてくるようでした。しばらくは我を忘れ、切ない思いが高まりました。浦島太郎の様な気分にもなりました。

 

 

 

 

 

紅葉に囲まれた池巡りをしているうちに、自分を取り戻し、感謝が噴き出しました。私の人生にあんなにも豊かな喜びに満ちあふれた一時期を築いてくださった神への感謝です。さらに、歳月を経て、かつての地を訪れ、恵みを思い起こすことのできる、今現在へ感謝です。

 

『まことに私の生きている限り、恵みといつくしみとが私を追ってくるでしょう。

私はとこしえに主の家に住まいましょう』詩篇23篇

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旅の風から 新緑の森にたぬき出没

 

 

 

 

近年十年余り、八ヶ岳南麓に移住した知人宅を訪れる特権に与かっている。春も夏も秋もそして冬もいい。いつでも来てと言われるとすぐその気になるが、頻繁に行けるものではない。年に一、二度がせいぜいである。今年は桜を観にぜひ行きたいと思っていたが逃してしまった。そこで新緑こそと思い、急きょ出かけた。すでに緑一色であった。

 

知人も年々年を重ね、運転も遠出は無理。それでもサービスしてくれて、当日は白州方面へ走り、甲州街道を少し辿った。かつての面影が残っていて風情ある道だった。翌日は八ヶ岳を見ながら清里方面へ走った。ちょうど数日来ぐずついていたお天気が回復し、いつもの山々が勇ましい姿を見せてくれた。まだ深々と雪帽子をかぶった富士山、残雪を縦じま模様にした南アルプスの山波、そして八ヶ岳連峰が重なり合って聳えていた。

 

午後まだまだ日が明るい頃、家の西側の窓から森を眺めていたら、すぐ近くになんとたぬき悠々と歩いていた。知人もびっくり。狐はよく見かけるけどたぬきは初めてとか。私たちに気が付いたのか振り返ってじっとこちらを見るのだ。目が合ってしまった。丸い目であった。こちらの目も彼に劣らず大きく丸かったに違いない。すぐにのっそりと奥に去った。私たちは思わず笑い転げた。しかし、もし、外でじかに出会ったらどうしただろう。まず恐ろしい。恐ろしさのあまり逃げただろうか、追いかける習性があったらどうするのか。あちらが逃げてくれれば一番いいけれど。とにかく今回は窓越しだったので助かった。こんなことは都会では想像もできないことである。

 

たぬき事件は今回のトピックである。いいお土産話ができた。次回はいつ来られるだろうかと早くも胸算用しながら「あずさ」号に乗った。ところがこれが新型の「あずさ」。すばらしい車両だった。お土産話がもう一つ増えました。

 

 

 

 

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旅の風から 富士裾野 聖心会修道院の黙想の家へ

旅の風から 富士裾野 聖心会修道院の黙想の家へ

 

 

 

 

親しい知人と二人で「黙想の家」に一泊してきました。ここはカトリックの施設で寄宿制の女子の学院、修道院とそれに黙想の家が併設されています。黙想の家は3階建て、収容人数は20名ほどでコンパクトです。プロテスタントでは知る人ぞ知るの隠れ家ですが、宗派を超えて使わせていただけるようです。私たちもその恩恵にあずかりました。

 

この日、宿泊者は私たち二人だけでした。黙想の家ですから、目的はただ一つ、神様の前に静かな時間を持つことです。部屋は個室です。清潔でシンプルで、ここにいるだけで心が清々しくなるような雰囲気が充満しています。全館がそうです。静寂が満ち満ちていました。

 

ひごろ、がさつな者なので、あえてこうした環境に身を置き、日がな一日神様の前に静まり、みことばを味わい、黙想し、祈り、魂の底の底まで、キリストにある平安と静寂に満たされたいと願ってやってきました。

 

もともと富士の裾野に広がる広大な農園がささげられて今日この施設があるそうです。一面のお茶の畑の中に建物が点在しています。目の前に富士山がドンと聳えていました。二月は富士山がよく見える数少ない時期だそうです。真っ白な雄姿にみとれました。朝、太陽が昇る頃は、その陽を浴びて全山ピンク色に映えると聞いて、寒さに震えながらも目の当たりにし、荘厳な自然の美に浸り尽くしました。黙想の中で導かれた「黙って主を待ち望む」信仰姿勢に徹したいと強く願い祈りつつ、下山しました。

 

黙想の家で開かれた聖書  詩篇62篇

 

『私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。

私の救いは髪から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。

私は決して、ゆるがされない』詩篇62・1〜2

 

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