人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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天の星のように―母エバから母マリヤまで 美しき姉妹たち
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旅の風から 紅葉の中へ 軽井沢雲場池 

旅の風から 紅葉の中へ 軽井沢雲場の池

 

 

 

誘われて、渡りに舟とばかり北陸新幹線に飛び乗り、紅葉真っ盛りの軽井沢へ駆けつけました。軽井沢へは東京から一時間と少し。新幹線の威力でしょう。下車すると待機していた友人の車に移動し、いたるところ鮮やかに葉を染めた幾種類もの樹々の間を走り廻りました。今回はどうしても観ておきたい場所があり、そこへ案内してもらいました。

 

1990年代から約20年間、それまでは関係のなかった軽井沢の地が私の生活圏内に勢いよく入ってきました。御茶ノ水の学び舎が毎年その地でサマースクーリングを開催しました。また、同時進行で所属した「あかし文章」の書き仲間の合宿が同じ施設で持たれました。まだ新幹線のない時期もありましたが、毎年一回だけでなく、二回も三回も行くようになりました。そのたびごとにエピソードがあって、私の小さな人生史の中にかなりの分量で足跡を残しており、今では貴重な思い出、無形の財産になっています。

 

 

 

 

 

 

 

近年は、いっしょだった友も恩師も、ぼつぼつと永遠の御国へ旅立ちはじめ、思い出はますます濃密に結晶し、宝物のように光り、輝きを増しています。光が視線に入れば涙がこぼれ胸がうずくのです。「私には懐古趣味はないわ」と友に言い切ったものの、もしかしてこれが本物の懐古趣味かもしれません。理屈はさておき、思い出の象徴ともいえる雲場池の紅葉を訪ねてきました。もう一か所、恩師たち同窓の友たちと懇親会を開いたホテルのラウンジでお茶してきました。軽井沢でも奥まった地域なので森閑と静まり返り、ラウンジには人影もなく、椅子の配置も当時のままです。時が止まったようでした。あの時の一隅から、一人一人の姿が浮かび上がり、談笑する声まで聞こえてくるようでした。しばらくは我を忘れ、切ない思いが高まりました。浦島太郎の様な気分にもなりました。

 

 

 

 

 

紅葉に囲まれた池巡りをしているうちに、自分を取り戻し、感謝が噴き出しました。私の人生にあんなにも豊かな喜びに満ちあふれた一時期を築いてくださった神への感謝です。さらに、歳月を経て、かつての地を訪れ、恵みを思い起こすことのできる、今現在へ感謝です。

 

『まことに私の生きている限り、恵みといつくしみとが私を追ってくるでしょう。

私はとこしえに主の家に住まいましょう』詩篇23篇

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旅の風から 新緑の森にたぬき出没

 

 

 

 

近年十年余り、八ヶ岳南麓に移住した知人宅を訪れる特権に与かっている。春も夏も秋もそして冬もいい。いつでも来てと言われるとすぐその気になるが、頻繁に行けるものではない。年に一、二度がせいぜいである。今年は桜を観にぜひ行きたいと思っていたが逃してしまった。そこで新緑こそと思い、急きょ出かけた。すでに緑一色であった。

 

知人も年々年を重ね、運転も遠出は無理。それでもサービスしてくれて、当日は白州方面へ走り、甲州街道を少し辿った。かつての面影が残っていて風情ある道だった。翌日は八ヶ岳を見ながら清里方面へ走った。ちょうど数日来ぐずついていたお天気が回復し、いつもの山々が勇ましい姿を見せてくれた。まだ深々と雪帽子をかぶった富士山、残雪を縦じま模様にした南アルプスの山波、そして八ヶ岳連峰が重なり合って聳えていた。

 

午後まだまだ日が明るい頃、家の西側の窓から森を眺めていたら、すぐ近くになんとたぬき悠々と歩いていた。知人もびっくり。狐はよく見かけるけどたぬきは初めてとか。私たちに気が付いたのか振り返ってじっとこちらを見るのだ。目が合ってしまった。丸い目であった。こちらの目も彼に劣らず大きく丸かったに違いない。すぐにのっそりと奥に去った。私たちは思わず笑い転げた。しかし、もし、外でじかに出会ったらどうしただろう。まず恐ろしい。恐ろしさのあまり逃げただろうか、追いかける習性があったらどうするのか。あちらが逃げてくれれば一番いいけれど。とにかく今回は窓越しだったので助かった。こんなことは都会では想像もできないことである。

 

たぬき事件は今回のトピックである。いいお土産話ができた。次回はいつ来られるだろうかと早くも胸算用しながら「あずさ」号に乗った。ところがこれが新型の「あずさ」。すばらしい車両だった。お土産話がもう一つ増えました。

 

 

 

 

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旅の風から 富士裾野 聖心会修道院の黙想の家へ

旅の風から 富士裾野 聖心会修道院の黙想の家へ

 

 

 

 

親しい知人と二人で「黙想の家」に一泊してきました。ここはカトリックの施設で寄宿制の女子の学院、修道院とそれに黙想の家が併設されています。黙想の家は3階建て、収容人数は20名ほどでコンパクトです。プロテスタントでは知る人ぞ知るの隠れ家ですが、宗派を超えて使わせていただけるようです。私たちもその恩恵にあずかりました。

 

この日、宿泊者は私たち二人だけでした。黙想の家ですから、目的はただ一つ、神様の前に静かな時間を持つことです。部屋は個室です。清潔でシンプルで、ここにいるだけで心が清々しくなるような雰囲気が充満しています。全館がそうです。静寂が満ち満ちていました。

 

ひごろ、がさつな者なので、あえてこうした環境に身を置き、日がな一日神様の前に静まり、みことばを味わい、黙想し、祈り、魂の底の底まで、キリストにある平安と静寂に満たされたいと願ってやってきました。

 

もともと富士の裾野に広がる広大な農園がささげられて今日この施設があるそうです。一面のお茶の畑の中に建物が点在しています。目の前に富士山がドンと聳えていました。二月は富士山がよく見える数少ない時期だそうです。真っ白な雄姿にみとれました。朝、太陽が昇る頃は、その陽を浴びて全山ピンク色に映えると聞いて、寒さに震えながらも目の当たりにし、荘厳な自然の美に浸り尽くしました。黙想の中で導かれた「黙って主を待ち望む」信仰姿勢に徹したいと強く願い祈りつつ、下山しました。

 

黙想の家で開かれた聖書  詩篇62篇

 

『私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。

私の救いは髪から来る。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。

私は決して、ゆるがされない』詩篇62・1〜2

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その6

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その6 

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

 

 

トマス、イライザ・ウイン夫妻はどんな迫害にもまた教会内の意見の対立にも耐え、決して初心を忘れることはなかった。キリストの福音を伝えるという一点に焦点を合わせ働きを進めていった。トマスは金沢だけでなく北陸の各地に宣教を広げ教会の元を築いていった。

イライザは教育と慈善活動に精を出した。その間、夫妻は契約書にある有給休暇をとることなく、日本滞在は20年に及んだ。一度だけトマスの眼底出血治療のため一時帰国したことがあったが。すぐに金沢に戻った。

 

1897年6月、夫妻は20年ぶりに一年間の休暇をとり、サンフランシスコ港に着き、大陸横断鉄道で懐かしのゲールズパークに帰った。休暇を過ごすとウイン夫妻は1898年9月に再び金沢に帰ってきたが、まもなく大阪に転任することになった。ミッションからの勧めであった。夫妻にとっては金沢を離れることは断腸の思いであったが、潔く決断し、大阪へ向かった。その地で8年間、夫妻は金沢と同じように誠心誠意働きに従事した。やがて1906年、日本基督教会宣教師として満州に渡った。今度は遠く中国大陸である。夫妻は祈りに祈って主の御心と確信して旅立った。満州では、大連、旅順、撫順を中心に伝道した。

 

1912年10月8日水曜日、その日夫妻は奉天で手術する一人の婦人を見舞う予定であった。イライザは早朝から朝食の準備にと台所に入った。トマスが隣室で祈っていると台所で異様な音がした。行ってみると、イライザ夫人が倒れていたのである。抱き起した時にはすでに息絶えていた。死因は脳溢血であった。時に59歳であった。葬儀は「大連教会」の教会葬として行われ、イライザを慕う500名の人たちが参列し、国葬級であったという。

 

トマス・ウイン師の嘆き、打撃はいかばかりであったろう。イライザはトマスにとっては最愛の妻だけではなく最高の同労者であった。周囲の者たちは、ウイン師は再び立ち上がれないのではないか、もはや満州にはとどまれないのではないかと心配した。しかし、ウイン師は主の召しに従った。その後12年もとどまり続け、諸教会に奉仕し、72歳で引退した。しばらく帰米したが再び来日し、かつて築いた「金沢教会」、「殿町教会」で説教奉仕をした。1931年(昭和6年)2月8日の主の日、「金沢教会」の説教壇に立つ直前に倒れ、天に帰って行った。79歳であった。20年も前に召されたイライザ夫人とともに、夫妻のご生涯は神の御前にも人の前にも実に光輝にみちたものであった。

 

ウイン夫妻の生涯をこんなに小さくおおざっぱに、しかも、参考図書を熟読する間もなく生かじりのままでまとめたことがいまさらながらに悔やまれ、申し訳ない気がして恥じ入るばかりである。お二人とも二十代半ばのうら若き日に日本に渡って以来、生まれ育った故郷にほとんど帰ることもなく、親兄弟、親族、旧友と会うこともなく、老いて病んで息絶える時まで日本で生きた。日本人以上に日本人だったのかもしれない。いや、この世の国籍などにはとらわれずに、神の国からの大使として、その重責に生きて死んだのだ。大使と言っても高位に胡坐をかくのではない。キリストのように「仕える人」、「愛する人」に徹したのだ。

 

イライザ夫人が、手術前の女性を見舞うその朝に召されたとは、いかにもイライザらしいといえる。いつもの生き方の真っただ中からそのまま御国へ駆けていったのだ。イライザ夫人は正に「北陸のマザー・テレサ」であった。イライザ夫人が孤児院を開いたきっかけは、雪降る早朝の町で、家々のゴミ箱をあさる孤児たちを見たからであったという。偉大な愛の人であった。小柄な女性であったウイン師は語る。また金沢の町ではいつも自転車に乗ってあちらこちらと用事に走り、その手が何かをしていないことはなかったという。

 

「ウイン館」資料室にはイライザの愛唱聖句が掲げられていた。『エホバを畏るゝことハ智慧の根本なり』。詩篇111篇10節のみことばである。

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その5

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その5

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

伝道の風が勢いを増すにつれ迫害の逆風も強烈であった。岩盤のように分厚く固い仏教王国地域である、その壁にどのようにして穴をこじあけ福音の風を吹きめるだろうか、ウイン夫妻ほかツルー婦人宣教師たちの戦いはまさに命懸けであった。「異人」、「毛唐」、「耶蘇」、「邪教」などと罵られ蔑まれ、罵詈雑言が浴びせられ、石つぶてが飛んできた。しかし中には、好奇心から集会に参加する人も現れ、好意を抱く人もいたのである。

 

ウイン夫妻の伝道は早くも実を結び、伝道開始後の翌年1880年4月には7名が洗礼を受けた。6月には2名、9月には4名、12月に2名が受洗し、翌年1881年に19名、1882年は11名83年15名、84年は12名と、5年間で72名に及んだ。この集まりは81年に「日本基督一致教会」の年会で審議され、「金沢教会」として正式に発足した。信者となった人たちの中で特筆すべきは80年に受洗した「長尾八之門(はちのもん)である。

 

長尾八之門はもともと加賀藩の2030石の中級武士であった。明治2年、556名の「浦上四番崩れ」のキリシタンたちが金沢に流されてきた。藩主の前田慶寧(よしやす)は彼らを卯辰山開墾に従事させ、八之門に監督を命じた。これが八之門とキリスト教との最初の出会いである。彼はキリシタンたちの極度の貧困と屈辱の中でも神を信じて揺るがない不動の信仰を目の当たりにして大いに感ずるところがあった。時を経て、ウイン宣教師の講義を毎晩のように聞く一人になり、コリント13章の愛の章で心動かされ、入信した。彼は土地を購入し建物を建てて提供した。81年には按手を受けて「金沢教会」の最初の長老となった。次男長尾巻も続いて受洗した。また三野季暢(きちょう)は加賀藩で洋才教育を受けたエリートであったがさらに英語を勉強しようとしてウイン宣教師から学ぶうちに信仰に入り受洗した。彼を見て家族5人が救われ、のちに「明治学院」に勤めた。

 

1881年9月、トマス・ウインととツルーの中等師範学校教師としての任期が切れた。しかしウイン夫妻は金沢に留まって伝道したかったので、県と外務省に許可を申請したところ滞在許可が下った。ツルー婦人宣教師は東京の「新栄女学校」に帰り、やがて「女子学院」を成立させた。彼女の功績は大きい。「女子学院」は今現在も女子名門校である。

 

ウイン夫妻は長尾八之門、三野季暢らの協力を得て県に学校設立を申請し82年に私立男子校「愛真学校」が開校した。さらに、85年にはイライザ夫人が発想し願っていた女子だけの学校「金沢女学校」が開校した。ここに」北陸における女子教育がスタートし、現在の「北陸学院」に発展した。その後、イライザは学校はメリー・ヘッセルなどに任せて、教会の婦人会を」積極的に指導した。

 

婦人会ならではの活動に、パンやお菓子を皆で焼く、ミシンの使い方を習う、毛糸の編み物を習う、西洋料理を作る、アイスクリームを作る、パッチ・ワークをする、バザーを実施する、衣類や食物を困窮者に届けるなどがあり、思えば現在、私たちの教会婦人会も同じようなことをしている。1890年の大飢饉の時に、イライザ夫人は率先して救済事業にあたり、アメリカからも寄付を募って困窮者を助けた。これは北陸初の「社会事業」であった。また、貧窮者の子どもたちを救済する「孤児院」を開設した。(今回で終わりにしたかったのですが、続きます)

 

 

 

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その4

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その4

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

トマス・ウイン宣教師

 

イライザ・ウイン宣教師

 

当時、日本宣教師団を掌握していたのはジェームズ・ヘボン博士である。ヘボン師は1959年、日本が開国したと同時に来日して伝道と医療に従事したアメリカの宣教師。ヘボン式ローマ字を考案し、聖書和訳、聖書辞典の編纂にも先頭に立った。夫人の「ヘボン塾」開設にも尽力し、日本の女子教育がスタートした。この女子教育の場が、キダー宣教師に受け継がれ、そこに若松賤子が入塾した。

 

話が少しそれるが、私は胸を躍らせている。ウイン宣教師夫妻の書物にキダーさんが登場するからである。この春に『会津若松の火炎・若松賤子の生涯』をまとめたが、幼い賤子を知的、霊的に育てたのがキダー宣教師なのだ。キダーさんは、トマス・ウインの伯父サムエル・ブラウンとともに日本に遣わされてきた日本宣教の女性第一号の宣教師である。

 

さて、ウイン夫妻はヘボン博士の斡旋によって金沢へ行くことになった。ヘボン師のところへ「石川県中学師範学校」から教師派遣申請が来ていた。ヘボン師を中心とした在日宣教師団は会議を開き、ウイン宣教師夫妻とM・ツルー婦人宣教師を北陸に派遣することに決定した。私はここでも懐かしい名前を発見して目を瞠っている。M・ツルーは、かつて「矢島楫子」を調べていた時に出会った女性である。ツル―こそ、矢島楫子をキリストに導いた人であり、ツルーの係わった女子の学校は曲折を経て「女子学院」に発展していく。楫子は初代学院長であり、またなによりもかの婦人矯風会を組織し会頭として長く活躍した女傑である。

 

またまた脱線したが、トマス・イライザ夫妻とツルー師一行は1879年9月23日に横浜を出発した。いよいよ日本最初の北陸伝道のスタートである。ところが当時は新幹線どころか鉄道すらない。金沢へ入るまでの道のりは困難を極めた。ウイン夫妻は一歳の赤ん坊を連れていた。

 

横浜から船で神戸、頭から鉄道で京都の大谷まで、そこから人力車で大津まで、大津から琵琶湖の北端の塩津までは蒸気船で行った。ところが船は暴風雨に巻き込まれ、ようやく塩津に着いたのは横浜を経ってから5日目である。塩津から人力車、徒歩、籠で敦賀に着いた。敦賀から金石まで汽船に乗った。ところが今度は台風に遭い、伝道用の聖書、トラクト、食料品、衣類などすべてを失った。土砂降りの中を下船し、三時間人力車に揺られて金沢に入ったが、横浜を出てから12日経っていた。最初からこの困難である、記さずにはいられなかった。私はこの道を、快適な新幹線にゆったりと座し、熱々のコーヒーをすすりながらわずか二時間半でクリヤーしたのである。いまさらながらではあるが申し訳なくて顔があげられない思いになった。

 

数日後、学校での授業が始まった。トマス・ウイン師もツルー師も教師として働き出した。県令と面会した時、ウイン師ははっきりと言った。「教師としてきたのだから忠実に職務は果たすが、自分はもともとキリスト教の宣教師であるから伝道したい。公然と伝道することに当局は干渉を加えるでしょうか」と。県令は「干渉はしない。少しも差し支えない」と明言した。ウイン師は大いに喜び、さっそく伝道計画を立て、実行することになった。こうして「長町講義所」での活動が始まった。一同は北陸で初めてのプロテスタント礼拝をささげた。聖日礼拝を中心に毎晩伝道集会が開かれた。イライザ夫人、ツルー婦人宣教師たちは子どもへの「安息日学校」を開いた。伝道の風が勢いよく吹き始めた。(つづく)

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その3

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その3 

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

 

キリスト教と金沢との関係は深い。キリシタン大名高山右近がしばらく(と言っても26年ほど)前田家の客将として仕えていたことは有名である。時代は戦国末期から江戸初期のことである。高山右近といえば、奇しくも今年2017年、ローマ法王庁から、信仰の模範者としての「福者」に認定され、マスコミでも取り上げられたが、盛大な列福式が行われた。さらに金沢とキリシタンとのかかわりは幕末にもあるが、今回は明治以降のプロテスタント信仰の伝道者にフォーカスした。

 

私たちは自他ともに老女と呼ばれるのを厭いはしないが、親しい仲間同士の旅であってもただの親睦会ですませたくない共通意識を持っている。ちょっと大げさですが、なにか自分たちの知識や生き方に示唆を与えてくれるようなテーマにチャレンジしたいのでる。平たく言えば好奇心と向学心を満たしてくれる、体と心のグルメの旅を目指している。

 

キリシタン迫害の足跡をたどる旅は昨年の上五島を含めて数回体験してきている。今回はぜひプロスタントの伝道の歴史を知りたいと願っていたところ、金沢通の友がすぐにウイン宣教師夫妻の働きを持ち出してくださった。現在の北陸学院の元を築いた夫妻である。そこで、学院の一画にある「ウイン館」を見学することにした。

 

 

私たちは「お宿やました」でゆっくりと豊かな朝食をいただいた後、宿のワゴン車で直接「ウイン館」のそばまで送っていただいた。「ウイン館」とは、明治24年にウイン夫妻が家族や宣教師家族の宿舎にするため、またミッションハウスとして、トマス自身が設計し監督した、アメリカがまだ独立する前によく見られた簡素な建物である。「コロニアル・スタイル」と呼ばれる。木造二階建て瓦葺、外壁は板を張ってペンキを塗っている。また前庭ではホルスタインを飼って牛乳を搾った。後にイライザ夫人が孤児院としても使った。

 

「ウイン館」は現在資料館として使われており、ウイン宣教師夫妻の資料がびっしりと展示されていた。私たちは職員の女性に迎えられ説明を受けながら時間をかけて見学した。金沢通の友人が北陸学院についても知識があって職員の方と話が弾み、椅子を勧められお茶までいただいてしまった。幸いと言おうか見学者はほかにはいなかった。販売している資料もあった。私は「信仰の証人 イライザ・ウイン伝」新書版で200ページほどの一冊を買った。

じっくり読みこんでまとめてみたいが、それには時間がかかる。まずは拾い読みして、紹介します。

 

 

 

北陸の地に初めてプロテスタントの福音の風を運んだのは、トマス・ウイン(1851年〜1931年・79歳)とイライザ夫人(1853年〜1912年・59歳)であった。

二人の家族はそれぞれ彼らが幼い時からイリノイ州ゲールズ・バーグという町に住みつき、二人は長老教会の日曜学校に通っていた。いわば幼なじみであった。トマスの父は牧師、イライザの父は実業家であった。二人はともにノックス・カレッジで学んだがこのころから将来は海外宣教師として伝道することに決めていた。その後トマスはユニオン神学校を卒業すると同時にイライザと結婚し、その年の秋10月、1877年に来日する。

 

トマスの伯父サムエル・ブラウンはすでに宣教師として来日していた。トマスの来日に当たってはこの伯父、母の兄にあたるが、の影響は大きなものがあった。来日するとトマス、イライザの二人は横浜山手にあるブラウンの家に居留し日本語を学んだ。トマスは翌年にはJ。バラ宣教師が開いていた「バラ塾」で英語と聖書を教えた。(つづく)

 

 

 

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その2

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その2

 

 

 

 

玉泉院丸庭園の広いお茶室でお抹茶のおもてなしを受け、その後縁側に腰を下ろしてお庭を拝見した。自分の呼吸が変わってくる。いつもとは時間の速度が違う感じがする。日ごろいかに浅いところで呼吸しているのかよくわかる。ゆっくりと吐き、ゆっくり大きく吸う、自然に深呼吸のような息遣いになっている。ふだんは何に合わせて呼吸しているのだろうか。通りを走る自動車の速度か、電車の速さか、人びとの足音か、ラジオのアナウンサーの話し声か、次から次へと頭をよぎるあのことこのことか〜〜〜。一服のお抹茶のひとときが心の隅々にまで馥郁たる初夏の緑風を吹き込んでくれたようだ。

 

午後4時。いよいよ今晩の宿泊先へ向かった。日本旅館でお宿「やました」という。湯涌温泉にある。今回は敢えて純日本旅館を選んだ。最初は当然のように市内のホテル群の中から決めようとしたが、ふと、ホテルのデメリットに気がついた。それは、団欒の場がないことである。シングルあるいはツインでも、一部屋に5人全員が集まってゆっくりと歓談できるスペースはない。それにひきかえ日本旅館なら十分に叶う。大きな座卓を囲んでお座布団に座ってお茶をいただきながらそれができる。もう一つは食事である。ホテルは外でとるか別の場所に移動しなければならない。朝食もビュッフェ形式でせわしい。

 

金沢通の友が、このお宿に泊まった経験もおありだ、あらかじめの食事の様子を訊いてくださった。個室の別室を用意するとのことであった。こじんまりとした旅館で、客室数はわずか10室だから移動も簡単である。それに本物の温泉がある。私たちはよい選択に導かれたようだ。

 

「やました」は出羽町から北鉄バスで南東へ約40分、金沢の奥座敷と呼ばれる湯涌温泉にあった。湯涌は加賀のお殿様が湯治場として使ったそうだ。バス終点からは宿の迎えのワゴン車に乗り換えた。ほんの数分であったが坂道を上がり、山肌に触れるようにして建つお宿「やました」の打ち水された玄関に降り立った。玄関わきに水琴窟がしつらえてあった。私たちはかわるがわる耳を当てた。「歓迎」とささやかれているようであった。

 

その夜のことは語るまでもない。ところで、ブログタイトルの「金沢に吹く伝道の風」はどこに?と思われてしまいそうだが、次回は今も生き生きといのちあふれる風の行方を追いかけることにする。(つづく)

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その1

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その1

 

 

 

 

 

親睦と学びを両輪にした旅列車は、5名の老女軍団を乗せるとゆるゆると金沢に向かった。5月の末である。学びと言っても今回は冒険や探検はないはず。そのぶん緊張も気負いもなく、まして一泊なので旅装もいたって簡単、全員キャスター付きのキャリーバッグは持たず、軽やかに北陸新幹線「かがやき」に乗り込んだ。

 

前回は2013年9月に団体16名で「金沢のキリシタン迫害の足跡を辿る」をテーマにした手製2泊3日の旅をした。時にまだ北陸新幹線は開通していなかった。その時は高山右近を中心に迫害の歴史を追いかけたが、右近はもちろん金沢城も兼六園も特別にお願いした懇意な専門家にガイドをお願いし、くまなく廻った。

 

今回はまったくの私的な旅である。と言っても金沢通の姉妹がガイドさん以上に詳しくていねいにさらに老女たちのスローなペースに合わせて付き添ってくださった。いわば極上の希少な旅なのである。学びは「ウイン宣教師夫妻の足跡を訪ねて」とした。夫妻は北陸に初めて福音を伝えたパイオニアである。私は特に夫人のイライザ・ウインに関心を寄せ期待を抱いた。

 

朝8時16分上野発「かがやき」521号は10時47分には金沢駅に着いてしまった。なんという早さだろうか。前回は越後湯沢で乗り換え、4時間半ほどかかったと思う。金沢での最初することは昼食なのだ。予約していただいている。着いてすぐ直行した。朝食は家ですませたが旅気分でそわそわし、食べた気がしなかった。駅から北鉄バスに乗って尾張町で下車した。金沢通の姉妹が地味だが珍しいお麩の専門店「不室屋」に案内してくださった。蔵を改造したシンプルなこじんまりとしたお部屋で、手の込んだ珍しいお麩のお料理を楽しんだ。

 

お腹の支度ができたのでいよいよ見学に向かう。金沢城を通り抜け、兼六園に入り、有名な徽軫灯籠(ことじとうろう)をみながら虹橋を渡った。観光客は思ったほどではなかったがさすがに虹橋の上でゆっくり記念撮影ができないのはしかたがない。途中、「玉泉院丸庭園」に入り、お抹茶でティータイムになった。(つづく)

 

 

 

 

 

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旅の風から 春休みの旅 つづき

 

旅の風から 春休みの旅  グアムへ つづき

 

 

 

 

 

 

 

小さな家族だけど全員の都合がよい日を選ぶとなると、意外に困難です。春休みで学校はお休みと言えどもお休みのようでもない。部活などでいつもと変わらず出かけていく。暇な人は私だけです。ようやく日取りが決まった時にはどこを探してももう満員でした。特に飛行機が取れませんでした。こちらの条件も厳しいのです、時差の少ないところで英語圏。孫たちは現地で英会話を実践したいとのことです。そこで、グアムになりました。行ったことはないのですが、あまりにも月並みではないかと、大いに気が乗るところまでは行きませんでしたが、家族だけだから気が楽というものだと、参加を決意しました。

 

行き先が常夏ですから衣類はかさばりません。それに、ホテルは連泊ですから途中でいくらでも洗濯ができます。私は国内旅行用の機内にも持ち込める小さなスーツケースにしました。それで十分でした。時差一時間、フライトはわずか三時間半。それでいてさすがに外国です、沖縄とは大いに気分が違いました。そして、今回ほど楽な旅はありませんでした。

 

 

 

 

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