人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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天の星のように―母エバから母マリヤまで 美しき姉妹たち
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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その6

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その6 

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

 

 

トマス、イライザ・ウイン夫妻はどんな迫害にもまた教会内の意見の対立にも耐え、決して初心を忘れることはなかった。キリストの福音を伝えるという一点に焦点を合わせ働きを進めていった。トマスは金沢だけでなく北陸の各地に宣教を広げ教会の元を築いていった。

イライザは教育と慈善活動に精を出した。その間、夫妻は契約書にある有給休暇をとることなく、日本滞在は20年に及んだ。一度だけトマスの眼底出血治療のため一時帰国したことがあったが。すぐに金沢に戻った。

 

1897年6月、夫妻は20年ぶりに一年間の休暇をとり、サンフランシスコ港に着き、大陸横断鉄道で懐かしのゲールズパークに帰った。休暇を過ごすとウイン夫妻は1898年9月に再び金沢に帰ってきたが、まもなく大阪に転任することになった。ミッションからの勧めであった。夫妻にとっては金沢を離れることは断腸の思いであったが、潔く決断し、大阪へ向かった。その地で8年間、夫妻は金沢と同じように誠心誠意働きに従事した。やがて1906年、日本基督教会宣教師として満州に渡った。今度は遠く中国大陸である。夫妻は祈りに祈って主の御心と確信して旅立った。満州では、大連、旅順、撫順を中心に伝道した。

 

1912年10月8日水曜日、その日夫妻は奉天で手術する一人の婦人を見舞う予定であった。イライザは早朝から朝食の準備にと台所に入った。トマスが隣室で祈っていると台所で異様な音がした。行ってみると、イライザ夫人が倒れていたのである。抱き起した時にはすでに息絶えていた。死因は脳溢血であった。時に59歳であった。葬儀は「大連教会」の教会葬として行われ、イライザを慕う500名の人たちが参列し、国葬級であったという。

 

トマス・ウイン師の嘆き、打撃はいかばかりであったろう。イライザはトマスにとっては最愛の妻だけではなく最高の同労者であった。周囲の者たちは、ウイン師は再び立ち上がれないのではないか、もはや満州にはとどまれないのではないかと心配した。しかし、ウイン師は主の召しに従った。その後12年もとどまり続け、諸教会に奉仕し、72歳で引退した。しばらく帰米したが再び来日し、かつて築いた「金沢教会」、「殿町教会」で説教奉仕をした。1931年(昭和6年)2月8日の主の日、「金沢教会」の説教壇に立つ直前に倒れ、天に帰って行った。79歳であった。20年も前に召されたイライザ夫人とともに、夫妻のご生涯は神の御前にも人の前にも実に光輝にみちたものであった。

 

ウイン夫妻の生涯をこんなに小さくおおざっぱに、しかも、参考図書を熟読する間もなく生かじりのままでまとめたことがいまさらながらに悔やまれ、申し訳ない気がして恥じ入るばかりである。お二人とも二十代半ばのうら若き日に日本に渡って以来、生まれ育った故郷にほとんど帰ることもなく、親兄弟、親族、旧友と会うこともなく、老いて病んで息絶える時まで日本で生きた。日本人以上に日本人だったのかもしれない。いや、この世の国籍などにはとらわれずに、神の国からの大使として、その重責に生きて死んだのだ。大使と言っても高位に胡坐をかくのではない。キリストのように「仕える人」、「愛する人」に徹したのだ。

 

イライザ夫人が、手術前の女性を見舞うその朝に召されたとは、いかにもイライザらしいといえる。いつもの生き方の真っただ中からそのまま御国へ駆けていったのだ。イライザ夫人は正に「北陸のマザー・テレサ」であった。イライザ夫人が孤児院を開いたきっかけは、雪降る早朝の町で、家々のゴミ箱をあさる孤児たちを見たからであったという。偉大な愛の人であった。小柄な女性であったウイン師は語る。また金沢の町ではいつも自転車に乗ってあちらこちらと用事に走り、その手が何かをしていないことはなかったという。

 

「ウイン館」資料室にはイライザの愛唱聖句が掲げられていた。『エホバを畏るゝことハ智慧の根本なり』。詩篇111篇10節のみことばである。

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その5

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その5

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

伝道の風が勢いを増すにつれ迫害の逆風も強烈であった。岩盤のように分厚く固い仏教王国地域である、その壁にどのようにして穴をこじあけ福音の風を吹きめるだろうか、ウイン夫妻ほかツルー婦人宣教師たちの戦いはまさに命懸けであった。「異人」、「毛唐」、「耶蘇」、「邪教」などと罵られ蔑まれ、罵詈雑言が浴びせられ、石つぶてが飛んできた。しかし中には、好奇心から集会に参加する人も現れ、好意を抱く人もいたのである。

 

ウイン夫妻の伝道は早くも実を結び、伝道開始後の翌年1880年4月には7名が洗礼を受けた。6月には2名、9月には4名、12月に2名が受洗し、翌年1881年に19名、1882年は11名83年15名、84年は12名と、5年間で72名に及んだ。この集まりは81年に「日本基督一致教会」の年会で審議され、「金沢教会」として正式に発足した。信者となった人たちの中で特筆すべきは80年に受洗した「長尾八之門(はちのもん)である。

 

長尾八之門はもともと加賀藩の2030石の中級武士であった。明治2年、556名の「浦上四番崩れ」のキリシタンたちが金沢に流されてきた。藩主の前田慶寧(よしやす)は彼らを卯辰山開墾に従事させ、八之門に監督を命じた。これが八之門とキリスト教との最初の出会いである。彼はキリシタンたちの極度の貧困と屈辱の中でも神を信じて揺るがない不動の信仰を目の当たりにして大いに感ずるところがあった。時を経て、ウイン宣教師の講義を毎晩のように聞く一人になり、コリント13章の愛の章で心動かされ、入信した。彼は土地を購入し建物を建てて提供した。81年には按手を受けて「金沢教会」の最初の長老となった。次男長尾巻も続いて受洗した。また三野季暢(きちょう)は加賀藩で洋才教育を受けたエリートであったがさらに英語を勉強しようとしてウイン宣教師から学ぶうちに信仰に入り受洗した。彼を見て家族5人が救われ、のちに「明治学院」に勤めた。

 

1881年9月、トマス・ウインととツルーの中等師範学校教師としての任期が切れた。しかしウイン夫妻は金沢に留まって伝道したかったので、県と外務省に許可を申請したところ滞在許可が下った。ツルー婦人宣教師は東京の「新栄女学校」に帰り、やがて「女子学院」を成立させた。彼女の功績は大きい。「女子学院」は今現在も女子名門校である。

 

ウイン夫妻は長尾八之門、三野季暢らの協力を得て県に学校設立を申請し82年に私立男子校「愛真学校」が開校した。さらに、85年にはイライザ夫人が発想し願っていた女子だけの学校「金沢女学校」が開校した。ここに」北陸における女子教育がスタートし、現在の「北陸学院」に発展した。その後、イライザは学校はメリー・ヘッセルなどに任せて、教会の婦人会を」積極的に指導した。

 

婦人会ならではの活動に、パンやお菓子を皆で焼く、ミシンの使い方を習う、毛糸の編み物を習う、西洋料理を作る、アイスクリームを作る、パッチ・ワークをする、バザーを実施する、衣類や食物を困窮者に届けるなどがあり、思えば現在、私たちの教会婦人会も同じようなことをしている。1890年の大飢饉の時に、イライザ夫人は率先して救済事業にあたり、アメリカからも寄付を募って困窮者を助けた。これは北陸初の「社会事業」であった。また、貧窮者の子どもたちを救済する「孤児院」を開設した。(今回で終わりにしたかったのですが、続きます)

 

 

 

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その4

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その4

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

トマス・ウイン宣教師

 

イライザ・ウイン宣教師

 

当時、日本宣教師団を掌握していたのはジェームズ・ヘボン博士である。ヘボン師は1959年、日本が開国したと同時に来日して伝道と医療に従事したアメリカの宣教師。ヘボン式ローマ字を考案し、聖書和訳、聖書辞典の編纂にも先頭に立った。夫人の「ヘボン塾」開設にも尽力し、日本の女子教育がスタートした。この女子教育の場が、キダー宣教師に受け継がれ、そこに若松賤子が入塾した。

 

話が少しそれるが、私は胸を躍らせている。ウイン宣教師夫妻の書物にキダーさんが登場するからである。この春に『会津若松の火炎・若松賤子の生涯』をまとめたが、幼い賤子を知的、霊的に育てたのがキダー宣教師なのだ。キダーさんは、トマス・ウインの伯父サムエル・ブラウンとともに日本に遣わされてきた日本宣教の女性第一号の宣教師である。

 

さて、ウイン夫妻はヘボン博士の斡旋によって金沢へ行くことになった。ヘボン師のところへ「石川県中学師範学校」から教師派遣申請が来ていた。ヘボン師を中心とした在日宣教師団は会議を開き、ウイン宣教師夫妻とM・ツルー婦人宣教師を北陸に派遣することに決定した。私はここでも懐かしい名前を発見して目を瞠っている。M・ツルーは、かつて「矢島楫子」を調べていた時に出会った女性である。ツル―こそ、矢島楫子をキリストに導いた人であり、ツルーの係わった女子の学校は曲折を経て「女子学院」に発展していく。楫子は初代学院長であり、またなによりもかの婦人矯風会を組織し会頭として長く活躍した女傑である。

 

またまた脱線したが、トマス・イライザ夫妻とツルー師一行は1879年9月23日に横浜を出発した。いよいよ日本最初の北陸伝道のスタートである。ところが当時は新幹線どころか鉄道すらない。金沢へ入るまでの道のりは困難を極めた。ウイン夫妻は一歳の赤ん坊を連れていた。

 

横浜から船で神戸、頭から鉄道で京都の大谷まで、そこから人力車で大津まで、大津から琵琶湖の北端の塩津までは蒸気船で行った。ところが船は暴風雨に巻き込まれ、ようやく塩津に着いたのは横浜を経ってから5日目である。塩津から人力車、徒歩、籠で敦賀に着いた。敦賀から金石まで汽船に乗った。ところが今度は台風に遭い、伝道用の聖書、トラクト、食料品、衣類などすべてを失った。土砂降りの中を下船し、三時間人力車に揺られて金沢に入ったが、横浜を出てから12日経っていた。最初からこの困難である、記さずにはいられなかった。私はこの道を、快適な新幹線にゆったりと座し、熱々のコーヒーをすすりながらわずか二時間半でクリヤーしたのである。いまさらながらではあるが申し訳なくて顔があげられない思いになった。

 

数日後、学校での授業が始まった。トマス・ウイン師もツルー師も教師として働き出した。県令と面会した時、ウイン師ははっきりと言った。「教師としてきたのだから忠実に職務は果たすが、自分はもともとキリスト教の宣教師であるから伝道したい。公然と伝道することに当局は干渉を加えるでしょうか」と。県令は「干渉はしない。少しも差し支えない」と明言した。ウイン師は大いに喜び、さっそく伝道計画を立て、実行することになった。こうして「長町講義所」での活動が始まった。一同は北陸で初めてのプロテスタント礼拝をささげた。聖日礼拝を中心に毎晩伝道集会が開かれた。イライザ夫人、ツルー婦人宣教師たちは子どもへの「安息日学校」を開いた。伝道の風が勢いよく吹き始めた。(つづく)

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その3

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その3 

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

 

キリスト教と金沢との関係は深い。キリシタン大名高山右近がしばらく(と言っても26年ほど)前田家の客将として仕えていたことは有名である。時代は戦国末期から江戸初期のことである。高山右近といえば、奇しくも今年2017年、ローマ法王庁から、信仰の模範者としての「福者」に認定され、マスコミでも取り上げられたが、盛大な列福式が行われた。さらに金沢とキリシタンとのかかわりは幕末にもあるが、今回は明治以降のプロテスタント信仰の伝道者にフォーカスした。

 

私たちは自他ともに老女と呼ばれるのを厭いはしないが、親しい仲間同士の旅であってもただの親睦会ですませたくない共通意識を持っている。ちょっと大げさですが、なにか自分たちの知識や生き方に示唆を与えてくれるようなテーマにチャレンジしたいのでる。平たく言えば好奇心と向学心を満たしてくれる、体と心のグルメの旅を目指している。

 

キリシタン迫害の足跡をたどる旅は昨年の上五島を含めて数回体験してきている。今回はぜひプロスタントの伝道の歴史を知りたいと願っていたところ、金沢通の友がすぐにウイン宣教師夫妻の働きを持ち出してくださった。現在の北陸学院の元を築いた夫妻である。そこで、学院の一画にある「ウイン館」を見学することにした。

 

 

私たちは「お宿やました」でゆっくりと豊かな朝食をいただいた後、宿のワゴン車で直接「ウイン館」のそばまで送っていただいた。「ウイン館」とは、明治24年にウイン夫妻が家族や宣教師家族の宿舎にするため、またミッションハウスとして、トマス自身が設計し監督した、アメリカがまだ独立する前によく見られた簡素な建物である。「コロニアル・スタイル」と呼ばれる。木造二階建て瓦葺、外壁は板を張ってペンキを塗っている。また前庭ではホルスタインを飼って牛乳を搾った。後にイライザ夫人が孤児院としても使った。

 

「ウイン館」は現在資料館として使われており、ウイン宣教師夫妻の資料がびっしりと展示されていた。私たちは職員の女性に迎えられ説明を受けながら時間をかけて見学した。金沢通の友人が北陸学院についても知識があって職員の方と話が弾み、椅子を勧められお茶までいただいてしまった。幸いと言おうか見学者はほかにはいなかった。販売している資料もあった。私は「信仰の証人 イライザ・ウイン伝」新書版で200ページほどの一冊を買った。

じっくり読みこんでまとめてみたいが、それには時間がかかる。まずは拾い読みして、紹介します。

 

 

 

北陸の地に初めてプロテスタントの福音の風を運んだのは、トマス・ウイン(1851年〜1931年・79歳)とイライザ夫人(1853年〜1912年・59歳)であった。

二人の家族はそれぞれ彼らが幼い時からイリノイ州ゲールズ・バーグという町に住みつき、二人は長老教会の日曜学校に通っていた。いわば幼なじみであった。トマスの父は牧師、イライザの父は実業家であった。二人はともにノックス・カレッジで学んだがこのころから将来は海外宣教師として伝道することに決めていた。その後トマスはユニオン神学校を卒業すると同時にイライザと結婚し、その年の秋10月、1877年に来日する。

 

トマスの伯父サムエル・ブラウンはすでに宣教師として来日していた。トマスの来日に当たってはこの伯父、母の兄にあたるが、の影響は大きなものがあった。来日するとトマス、イライザの二人は横浜山手にあるブラウンの家に居留し日本語を学んだ。トマスは翌年にはJ。バラ宣教師が開いていた「バラ塾」で英語と聖書を教えた。(つづく)

 

 

 

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その2

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その2

 

 

 

 

玉泉院丸庭園の広いお茶室でお抹茶のおもてなしを受け、その後縁側に腰を下ろしてお庭を拝見した。自分の呼吸が変わってくる。いつもとは時間の速度が違う感じがする。日ごろいかに浅いところで呼吸しているのかよくわかる。ゆっくりと吐き、ゆっくり大きく吸う、自然に深呼吸のような息遣いになっている。ふだんは何に合わせて呼吸しているのだろうか。通りを走る自動車の速度か、電車の速さか、人びとの足音か、ラジオのアナウンサーの話し声か、次から次へと頭をよぎるあのことこのことか〜〜〜。一服のお抹茶のひとときが心の隅々にまで馥郁たる初夏の緑風を吹き込んでくれたようだ。

 

午後4時。いよいよ今晩の宿泊先へ向かった。日本旅館でお宿「やました」という。湯涌温泉にある。今回は敢えて純日本旅館を選んだ。最初は当然のように市内のホテル群の中から決めようとしたが、ふと、ホテルのデメリットに気がついた。それは、団欒の場がないことである。シングルあるいはツインでも、一部屋に5人全員が集まってゆっくりと歓談できるスペースはない。それにひきかえ日本旅館なら十分に叶う。大きな座卓を囲んでお座布団に座ってお茶をいただきながらそれができる。もう一つは食事である。ホテルは外でとるか別の場所に移動しなければならない。朝食もビュッフェ形式でせわしい。

 

金沢通の友が、このお宿に泊まった経験もおありだ、あらかじめの食事の様子を訊いてくださった。個室の別室を用意するとのことであった。こじんまりとした旅館で、客室数はわずか10室だから移動も簡単である。それに本物の温泉がある。私たちはよい選択に導かれたようだ。

 

「やました」は出羽町から北鉄バスで南東へ約40分、金沢の奥座敷と呼ばれる湯涌温泉にあった。湯涌は加賀のお殿様が湯治場として使ったそうだ。バス終点からは宿の迎えのワゴン車に乗り換えた。ほんの数分であったが坂道を上がり、山肌に触れるようにして建つお宿「やました」の打ち水された玄関に降り立った。玄関わきに水琴窟がしつらえてあった。私たちはかわるがわる耳を当てた。「歓迎」とささやかれているようであった。

 

その夜のことは語るまでもない。ところで、ブログタイトルの「金沢に吹く伝道の風」はどこに?と思われてしまいそうだが、次回は今も生き生きといのちあふれる風の行方を追いかけることにする。(つづく)

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その1

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その1

 

 

 

 

 

親睦と学びを両輪にした旅列車は、5名の老女軍団を乗せるとゆるゆると金沢に向かった。5月の末である。学びと言っても今回は冒険や探検はないはず。そのぶん緊張も気負いもなく、まして一泊なので旅装もいたって簡単、全員キャスター付きのキャリーバッグは持たず、軽やかに北陸新幹線「かがやき」に乗り込んだ。

 

前回は2013年9月に団体16名で「金沢のキリシタン迫害の足跡を辿る」をテーマにした手製2泊3日の旅をした。時にまだ北陸新幹線は開通していなかった。その時は高山右近を中心に迫害の歴史を追いかけたが、右近はもちろん金沢城も兼六園も特別にお願いした懇意な専門家にガイドをお願いし、くまなく廻った。

 

今回はまったくの私的な旅である。と言っても金沢通の姉妹がガイドさん以上に詳しくていねいにさらに老女たちのスローなペースに合わせて付き添ってくださった。いわば極上の希少な旅なのである。学びは「ウイン宣教師夫妻の足跡を訪ねて」とした。夫妻は北陸に初めて福音を伝えたパイオニアである。私は特に夫人のイライザ・ウインに関心を寄せ期待を抱いた。

 

朝8時16分上野発「かがやき」521号は10時47分には金沢駅に着いてしまった。なんという早さだろうか。前回は越後湯沢で乗り換え、4時間半ほどかかったと思う。金沢での最初することは昼食なのだ。予約していただいている。着いてすぐ直行した。朝食は家ですませたが旅気分でそわそわし、食べた気がしなかった。駅から北鉄バスに乗って尾張町で下車した。金沢通の姉妹が地味だが珍しいお麩の専門店「不室屋」に案内してくださった。蔵を改造したシンプルなこじんまりとしたお部屋で、手の込んだ珍しいお麩のお料理を楽しんだ。

 

お腹の支度ができたのでいよいよ見学に向かう。金沢城を通り抜け、兼六園に入り、有名な徽軫灯籠(ことじとうろう)をみながら虹橋を渡った。観光客は思ったほどではなかったがさすがに虹橋の上でゆっくり記念撮影ができないのはしかたがない。途中、「玉泉院丸庭園」に入り、お抹茶でティータイムになった。(つづく)

 

 

 

 

 

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旅の風から 春休みの旅 つづき

 

旅の風から 春休みの旅  グアムへ つづき

 

 

 

 

 

 

 

小さな家族だけど全員の都合がよい日を選ぶとなると、意外に困難です。春休みで学校はお休みと言えどもお休みのようでもない。部活などでいつもと変わらず出かけていく。暇な人は私だけです。ようやく日取りが決まった時にはどこを探してももう満員でした。特に飛行機が取れませんでした。こちらの条件も厳しいのです、時差の少ないところで英語圏。孫たちは現地で英会話を実践したいとのことです。そこで、グアムになりました。行ったことはないのですが、あまりにも月並みではないかと、大いに気が乗るところまでは行きませんでしたが、家族だけだから気が楽というものだと、参加を決意しました。

 

行き先が常夏ですから衣類はかさばりません。それに、ホテルは連泊ですから途中でいくらでも洗濯ができます。私は国内旅行用の機内にも持ち込める小さなスーツケースにしました。それで十分でした。時差一時間、フライトはわずか三時間半。それでいてさすがに外国です、沖縄とは大いに気分が違いました。そして、今回ほど楽な旅はありませんでした。

 

 

 

 

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日々の風から 春休みの旅

 

月曜日から今日の金曜日まで

春休みなのでめったに行けない顔ぶれである孫たちと

家族旅行に行ってきました。

連れて行ってもらったというべきか。

さらに、孫たちといっしょはこれが最後かも〜〜〜。

そんな感傷にも浸りながら、初めから終わりまでリラックスした

家族ならではの旅になりました。ひとまずご報告です。

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その13 最終日

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その13 最終日

 

 

 

                           大釜で炊かれた鯛めし

 

夕食時のこと

二日目の夕食は前日に勝る大ごちそうでした。なんと伊勢海老のお刺身が加わったのです。調理を終えた伊勢海老の姿がお座敷の入り口に勇ましく飾られて、私たちを迎えてくれました。こんなお食事は生涯に一度でしょう。前日は旅のお世話役として奮闘されている副団長K兄の司会で20名全員が自己紹介をしました。二日目、最後のうたげでは名司会者として定評のあるN兄がほどよいスピードで「今回の旅で一番強く心に残っていること」を一人一人に振りました。もちろん旅は明日も続くのですが、この時点まででも話したいこと聞きたいことは山のようにあります。それを皆さんお一人ひとりが手際よくコンパクトにまとめて話されました。その新鮮な感想は、まるで生きのいいお刺身のようで、胃の府ではなく、心の奥深くにとどまりました。食事のメニューも皆さんの感想も記したいのは山々ですが、いつか後日に譲ります。

 

部屋友のこと

今回の2泊は学院創立時から今日まで25年間、変わらない友情でお交わりを続けているS姉と同室になりました。年齢も同い年。主にあって双子姉妹のようです。学院の大きな旅、イスラエル旅行、バッバ・ルターのドイツの旅もいっしょでした。いつも早朝の祈り、就寝前の祈りをともにしてきました。今回も同じスタイルです。プライベートな課題を出し合って祈りました。過去には同じデボーションテキストを使ったり、それそれで聖書個所を出し合ったりしましたが、今回は覚えている聖書個所をいっしょに暗唱しました。「主の祈り」、「使徒信条」は毎回ですが、それに「詩篇第1篇、23篇、103篇の一部、121篇」も加えました。親しき友と朝に夕に祈りあえることも、旅の大きな恵みです。

 

 

3日目最終日は帰路になります。教会見学は車窓から「桐教会」を眺めただけです。民宿「えび屋」前からバスに乗り込んで奈良尾港、そこからジェットホイルで長崎港、今度は一般のバスで長崎空港、そして羽田です。宿を8時に出発して羽田到着は夕方5時過ぎです。一昨日たどった道を逆に行くことになります。この旅はざっと往路一日、復路一日の道のりです。それだけ遠方なのです。めったに来られるところではありません。めったにどころか、確実に、二度とないでしょう。切ない思いがこみ上げてきます。

 

忘れがたき方々

三日目のバスガイドさんはかわいらしくたくましい女性でした。奈良尾港までのわずか90分、五島の海の飛び魚のように元気いっぱいにしゃべり続けてくださいました。忘れがたい女性です。「えび屋」の女将と次代の「女将」の2代の女性たちの姿も思い浮かびます。目鼻立ちのはっきりした五島肌の美女たちでした。お二人は道路まで出てきて、いつまでもいつまでも手を振りお辞儀をしておられました。ほとんど二度と客となることはないのに、精一杯、礼を尽くしてくださいました。

 

それにしても昨日一日中ともに歩いてくださった80歳の「巡礼ガイドM氏」に会えなくて、一抹の寂しさを感じました。氏のお人柄、そうでなく、風雪を経た信仰からにじみ出る渋い柔らかい温かい光が、私たち旅人をじわっと包み込んでくださっていたと、思えてならないのです。M氏は、迫害の凄惨な場面を決して声高に語りませんでした。この島全体に浸み込んでいる血やうめき声をことさらに掘り起こすようなことはしませんでした。そうした殉教者の悲しみや苦しみを、M氏が黙って一身に背負っているように見えました。M氏の血にはご両親、さらに隠れキリシタンであったであろうご先祖の方々のご苦労と祈りが流れていると想像しました。

 

信仰の証人

長崎空港で、チャプレンF師によって解団式が行われました。ひとまずここで解散という意味です。F師は、羽田の団結式の時に、「へブル書12章」を用いて、今回の旅の目的の一つは「信仰の証人」に会いに行くのだと言われました。その通りに、私も多くの歴史上の信仰の証人に会いました。書けませんでしたが、あの長崎西坂の丘で処刑された26聖人の一人は五島の出身者でした。「ヨハネ五島」と言い、彼を記念する像を2か所の教会で見ました。

 

しかし今回、出会った「信仰の証人」は過去の人ばかりではありませんでした。M氏を初め浜串教会の祈祷会の方々や江袋教会の鐘楼の下の老女性たちは「生きた信仰の証人」なのです。上五島の教会群は、隠れキリシタンゆかりの場所に建てられました。そのうちの29もの教会が今も信仰に生きているのです。私たちは、単に、止まった歴史、切り取った歴史、書き留められた歴史の「足跡を辿る旅」をしているのではなく、今も生きている教会とその証人に出会ったのだと思い当たりました。心が強く揺さぶられ、目の開かれる思いがしました。神のダイナミックなドラマは終わったのではなく、連続して今に至っているです。さらに、神は、進行する「神の大河ドラマ・信仰の証人」に、私たち一人ひとりをも巻き込んでおられるのだと強く教えられました。

 

『私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか』

                           へブル12・1

 

 

羽田へ帰る雲間から、夕日を浴びる富士山がはるか眼下にかすんで見えました。

 

0月末から書き始めました旅日記はひとまず終了です。

かなり根を詰めた感が残っております。ホッとした思いもあります。

思いがけなくおおくの方々がお訪ねくださって驚いています。

そして、心から感謝申し上げます。

 

これをもとに、ペーパーで「希望の風」を編集中です。

ネットを使わない友人、知人のためです。

 

12月はすでにアドベンド第2週目。

皆様の上にイエス・キリストの真理の光があふれますように。

 

 

 

 

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旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その12 江袋教会→仲知教会→「えび屋」で宿泊

旅の風から 上五島のカトリック教会群を巡る旅 その12 江袋教会→仲知教会→「えび屋」で宿泊

 

 

 

 

 

 

江袋教会 火災で再建される

上五島は十字架の形をしていると聞いたことがあります。それに見立てると残す二つの教会は縦の上へ上へと行きます。地図では北方向です。開通したばかりの「青砂ケ浦トンネル」997mを潜ります。このトンネルは島内で一番長いトンネルだそうです。32号線からその後、218号線に入ります。

 

9番目の教会は「江袋教会」

教会ははるかに東シナ海を見下ろす急斜面の中腹に海に向かって建っています。1882年(明治15年に)にパリ外国宣教会のブレル神父の指導で建設された、木造瓦葺き平屋建ての教会です。しかし惜しくも2007年に漏電によって全焼してしまいますが、それまでは五島で最古木造教会でした。火災後は、元の位置に復元することになり、焼け残った一部の建材を利用し、また全国からの支援を受けて2010年に完成しました。一目で新しい建物だとわかりました。一見、教会ではなく、日本家屋のようですが一歩堂内の入ると赤や黄色の美しいステンドグラスが輝いていて、やはりここは神をほめたたえる教会堂なのだと納得させられました。

 

急な階段を一歩ずつ上って左手に回ると海が大きく開け、教会の正面に出ました。と、数人の老女性たちが玄関わきの石に腰を下ろしていました。私たちの見学後に始まる祈祷会に出席するためでした。社交満点のM姉がすぐに話しかけました。女性たちは私たちよりもっと年上に見えましたので、階段はさぞきついだろうと思いました。みなさん一様に深く刻まれた皺深いお顔でしたが、こぼれるような生き生きした笑みにいっぺんに魅せられました。お顔の皺は荒い潮風のせいばかりでなく、絶えない笑い皺かとも思いました。女性たちは合図の鐘楼の鐘が鳴るのを待っているのだそうです。鐘の音に誘われて会堂に入っていくとは、なんと豊かな信仰生活でしょう。祈祷会が毎日なのか今日がちょうど祈りの日であったのかわかりませんが、いつもの時間にいつものように祈りをささげる生きた信仰がここにもあるのだと知り、主をあがめました。すぐに昨日の福見教会での祈祷会を思い出しました。

 

10番目は仲知教会・煉瓦造り・ステンドグラス(聖書場面)

 

218号線をさらに島の北端に向かって進むと、「仲知教会」です。よくぞこんなところまで教会を建てたものだと深く感動しますが、実際はこの先の北方にまだ教会があるのです。

 

現在の教会は三代目で、1978年(昭和53年)に建立されました。この地域に住む大部分がカトリック信者で、信者達の多額の献金と労働奉仕により造られました。仲知小・中学校の生徒も全員が信者。そのため学校行事は教会の行事を考慮することなしには組むことができないほどだそうです。なんとうらやましいことでしょう。

 

教会の外見は教会らしくなく、お役所のように見えますが、堂内は別世界でした。聖書の場面が描かれた14枚のステンドグラスがあふれんばかりにはめ込まれていました。イエス様が弟子たちと漁をする場面では、当時、信者の中心として建設に関わった住民も登場しているそうです。

 

教会を後にするとすでに5時近くになっていました。この日の見学はすべて終了です。ここからまっしぐらに南下するのです。北の果てから南の果てまでと言っても大げさではないほどです。もちろん最後に若松大橋を再び渡ります。そして、神部港に面する「えび屋」さんに帰るのです。今夜、もう一泊します。ドライバーさんに訊ねますと、約90分、ノンストップだそうです。折しも東シナ海には夕日が沈むところでした。

 

 

 

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