人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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聖書の風から 赦されることへの一考

新大久保

  


6
月も後半に入って、梅雨のまっただ中です。こんなに空の顔色を気にし、ご機嫌をうかがう時期はないでしょう。人間を小さく感じさせる味のある時節といえましょう。

 

今日は今月第三の主の日です。今朝も主を近くに感じながら礼拝へと急ぎます。皆様方の主の日が祝福に満ちたものでありますように。

 

私のもう一つのブログ『聖書の緑風』は、その名の通りダイレクトに聖書や信仰書からいただいた恵みを記しています。コメントは受け付けないように設定していますが、訪問者が多いのには驚きます。時たましかアップできないのですが、それでも訪ね人が絶えません。みことばのもたらす影響力の大きさに改めて感慨を深くしています。

 

最近の一つをここに転載します。

 

 

ロイド・ジョーンズ氏から聴く『一日一言』より(渡部謙一訳 いのちのことば社)

 

赦しの精神


テキスト要旨

自分のもろもろの罪は神によって赦されていると考えていても、他の誰かを赦そうとしていないなとしたら、それは思い違いをしているのであって、決して赦されてはいないのである。自分がキリストの血によって赦されていることを知っているなら、他の人々を赦さずにはいられない。キリストを本当に自分の《救い主》として知るなら、心砕かれ、かたくななままではいられなくなる。主もそれを明らかにしておられる。『……人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません』(マタイ61415

このことは絶対的で避けられない。真の赦しは人を砕く。赦さざるを得なくなる。私たちの心の中に赦しが見みいだされない限り決して私たちの祈りは純粋なもの、真実なもの、有用なものでありえない。

 

ロイド氏は鋭く胸を突いてきます。私たちは心底自分を罪深いと思うし、その罪を赦されたいと祈り求めます。そして、悔い改めれば赦される(第一ヨハネ1章9節)とのみことばによって全く罪赦されてきよくされたと信じ、感謝する者です。しかし主は一方で、ロイド氏の説くごとく、人の罪を赦さないなら、赦されないと言われます。主の祈りにも明記されています。では、私たちの罪は、十字架の贖いを信じて、告白しても、人を赦さない限り赦されないのでしょうか。これは福音の真理を平面的並列的に考えているのでしょうか。立体的にとらえるべき事柄なのでしょうか。

 

ある出来事によって不快な思いにさせられたり、危害を加えられたり、傷つけられたりすると、怒りや憎しみが渦巻き、あるいはいつまでもわだかまり、すっきりしないことが多くあります。時には顔も見たくない、口も利きたくない、近づきたくない人もいます。それは赦していないという証拠でしょう。そうした場合、私もまた主に赦されていないということなのでしょうか。もちろん、人を憎んだり怒ったりするは罪であるとは承知していますからその罪の赦しも祈り求めます。しかし、苦い感情は一朝一夕には消えません。その事実を忘れることはできません。いつまでも残り、また時々思い出してはかつてのにがにがしい思いが湧き上がってきます。それは、赦していないことなのでしょうか。と同時に、私は赦されていないのでしょうか。

 

再び主の祈りを思い出します。

『我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ』

 

罪の赦しを乞う祈りの前提には、他者を赦す自分がいなければならないのです。他者を赦したという捧げ持物を携えて、祈りの祭壇に行くことです。そのように理解しました。実践し、真に主に赦され、喜んで交わりに入れてくださる、そうした者になりたいと祈ります。

 

 

 

 

 

 

 
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聖書の風から ヨセフの生涯を思う その3

出エジプト記はヤコブの一族総勢70名がヨセフのいるエジプトへ下った記事から始まっている。その5節に『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。とある。いつもはさっと素通りする箇所なのに、今回は釘付けになった。なんどもなんども読み返した。記事は淡々と事実を述べている。その通りに当然のことなのだ。だが、当たり前のこととして見逃しにできなかった。なんと重い厳粛な事実だろう。胸の中をいいようのないもの悲しい風が吹いていく。歴史の風というのだろうか。『ヨセフもーーーみな死んだ』そうなのだ。

 

創世記では、ヨセフの波乱万丈の生涯にどれほどはげしく心揺さぶられ、どれほど熱い涙を流しただろうか。場面の一つ一つに喜怒哀楽の感情をかき立てられ、ヨセフを守り通した主を賛美し、ヨセフの生涯に付き添ったような追体験を味わった。

だが、あの麗しの『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。

歴史は次の時代へと移っていくのだ。時の経過はある意味で機械的であり、正確である。時を止めることは出来ない。その流れに逆らうことはできない。無情を感じる。虚しさを覚える。しかしこの事実の前にだれが立ち得ようか。感傷などなにほどのものか。

 

じっと静かに思い巡らしているとみことばが迫ってくる。

『草は枯れ、花は萎む。しかし私たちの神のことばは永遠に立つ』

記事の背後に,歴史を動かす巨大な神様の力を感じる。威をただしひれ伏すのみである。すべての思いを清め、正す、主へと思いが向かって行く。

 

8節には『さて、ヨセフを知らない新しい王がエジプトに起こった』とある。ここはいままでにも心に留まり、自分の人生史のいくつかの場面から、新しい人の群れ、あたらしい指導者に会って、良きにつけ悪しきにつけ教えられることがたくさんあった。ヨセフの偉業を知らない人たち、知っていても抹殺しようとする新勢力に怒りを覚えたり、あきらめたりした。『ヨセフを知らない王』の被害に苦しんだこともある。

 

しかし、『ヨセフを知らない王』が悪虐の限りを尽くし、暴政を振うそのただ中に、神様の剣は歴史を切り裂き、偉業がはじまったのだ。出エジプトのドラマである。神様は時が良くても悪くてもみ業を進められる。むしろ一見、絶望して呻くだけの時にこそ、神様は立ち上がる。ノアの時もそうだった。聖書の事例に信仰の目を留めなければと思う。昨今は、

 

どこもかしこも世代交代の時期だと言える。この世だけでなく、キリスト教界も、である。自分自身だって盛んな時期は過ぎたのだ。しかし、進退が周辺に影響を与えるような者でないから気楽ではあるが、変わり目の悲劇喜劇を目撃しなければならない。観客席に座る者にも辛いときがあるのだ。うろたえたり心騒ぐことがある。

 

『ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ』。

『ヨセフを知らない王がーー起こった』

 

 神様の愛と救いのみ業を見つめつつ、『みな、死んだ』の一人になる時まで、

『草は枯れ、花は萎む。しかし私たちの神のことばは永遠に立つ』を確信し、そこから不動の信仰をいただいて、今日一日を生き抜きたい。今日一日を、である。

 

 
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聖書の風から ヨセフの生涯を思う その2
 

奴隷、囚人と、この上ない悲劇のヒーローだったヨセフは、不可能を可能にする神様のご計画の中で、エジプトの救世主のような地位に上り詰めた。しかしそれは単に黄金の王座に坐していればいいというのではなく、ヨセフは知恵を尽くし力を尽くして命がけで働かねばならなかったとおもう。でも、もう奴隷でも囚人でもなく王からも国民からも信頼される宰相になったのだ。その名声はエジプト一国におさまらず近隣諸国にも鳴り響いたことであろう。今や英雄ヨセフである。そして、33年ぶりに父に会い、一族郎党に至るまで新しい地エジプトで養うようになった。

めでたし、めでたしである。しかし聖書はそれだけでは終わらない。

 

創世記の終章50章を読むと、めでたし一色ではすまされない人間模様が見えてくる。考えさせられることが多い。人の心の奥底に潜む闇が見える。ヨセフをいじめた兄弟たちはいつまでたっても罪の呵責から解放されない。いつか仕返しされるのではないかと恐れ続けている。ヨセフの愛がわからない。ヨセフはそのことにも泣く。自分の心を切り開き、はらわたを取り出して見せてあげたいくらいだったろう。愛が伝わらない切なさには泣かずにはいられない。人というものは赦されているのになお疑い、受け入れられないのだろうか。その心理の奥にあるものはなんだろう。

 

イエス様の十字架の犠牲による赦しを思う。十字架は切り開かれた神様のお心であり、はらわたであろう。その証拠を見せながら赦しを宣言されたのだ。ただ感謝して受け入れればいいのだ。しかし、その恵みを目の当たりにしながらも疑ったりあるいは無視してしまう。自分を変えることができない、いつまでも自分流の生き方に固執する。苦しまなくてもいいのに苦しんでいる。あるいは受け入れれば楽になるのに心の扉を開こうとしない。イエス様は泣いておられるだろう。

 

自分の来し方を振り返って見る。加害者になったこともあれば被害者になったこともあろう。加害者の場面はあまりないように思うが、それは気が付かないだけかも知れない。被害を受けたことは覚えている。これも身勝手と言えるかも知れない。

イエス様のあがないのみ業によって、いつまでも罪の呵責に苦しみ怯えることからは解放されてしまったが、今日も罪人である自己をしっかり認識し、絶えず悔い改めをし続けることを忘れてはならないと思う。

 

一方、過去の被害をいつまでもほじくり返し、被害妄想的になってはならない。その事実とそのときに係わった人たちへの悪感情を薄めていかねばならない。記憶の鮮度を落としていかねばならない。できれば記憶喪失してもいいくらいに。それこそイエス様の赦しのみ業にかかわることだ。イエス様を泣かせてはならない。

ヨセフの生涯は実に鮮明に、数千年の歳月を超えて語りかけてくる。

 

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聖書の風から ヨセフの生涯を思う その1

裸
旧約聖書『創世記』のクライマックスはなんといっても、アンカーを務めるヨセフの物語であろう。ヨセフが登場してくると、途中で止められなくなる。そして、必ず涙を流してしまう。何回読んでもそうである。いくつかの同じ箇所で泣くことが多い。多くの人が同じ経験をしていると思う。

 



今回、今までの他に、もう一箇所泣いたところがあった。

『ヨセフは車を整え、父イスラエル(ヤコブのこと)を迎えるためにゴシェンへ上った。そして父に会うなり、父の首に抱きつき、その首にすがって泣き続けた』

4629節。

 

ヨセフは17歳のとき兄弟たちの手で隊商に売り飛ばされエジプトへ連れて行かれた。父ヤコブの11番目の息子として溺愛され、袖付きの長服を着ていたヨセフは一転、奴隷の身に突き落とされた。腹違いとはいえ弟を売るなどと、とんでもないことだが、その原因は父の偏愛にあった。愛される弟を妬んだのである。世に妬みほど恐ろしいものはない。ヨセフは異国の地であらん限りの辛酸をなめつくし、この世の地獄を味わった。なんとむごいことよと同情の涙があふれ流れる。

 

しかしヨセフは境遇に負けて悪の道へ進むことはなかった。その時その時を誠実に生きた。無力なヨセフにたった一つ残されたのは神様への信仰であった。それは父祖アブラハム以来、家に伝わる信仰だったと思う。父ヤコブも完全無欠な人ではなかったが、家庭の中に大河のように流れ続ける信仰の力を、幼いときから肌で知っていたのだろう。それが逆境の中で効力を発揮した。どんなときも自分に注がれる神の愛を鋭く知り、神の臨在の前に生きた。確かに神の祝福はヨセフの上にとどまり続けた。

 

パロの難解な夢を説き明かしたことから、無実の罪で囚人とされていたヨセフは、一躍エジプトの宰相に躍り上がった。シンデレラ的、あるいはエステル的逆転劇である。思わず立ち上がって拍手したくなる。しかし紙芝居のような薄っぺらなサクセスストーリーではない。宰相ヨセフの双肩には、国家を饑餓から救う重責がのしかかっていた。一つ間違えばたちどころに地位も命もないことは自明のことだったろう。恐ろしい緊張の中で、ヨセフは一つ一つ救済事業を進めていった。神様が知恵と勇気を授けてくださった。

 

7年間の豊作のあとにやってきた凶作はエジプトだけでなく、当時の世界中をも饑餓のどん底に突き落とした。カナンの地も免れることはできなかった。ついに父ヤコブは食料があると聞こえてきたエジプトへ息子たちを買い出しに遣わすのだ。10人の兄弟たちはまるで物乞いのように、権力者ヨセフの前にひれ伏した。それが、自分の弟ヨセフであるなどとは露ほども知らない。神様のシナリオの巧みさには息もつけないほどだ。ヨセフは一目で兄たちとわかったが、すぐさま名乗ることはできない。忍び泣くヨセフの心情が熱く胸に迫ってくる。あと5年は続く飢饉から生き延びるために、パロは、ヨセフの一族郎党をエジプトに住まわせることにした。こうして、ヤコブを筆頭に総勢70名が遠路エジプトに移住していった。

 

冒頭の聖句は、父ヤコブとヨセフの再会の時を記したものだ。当時ヨセフは50歳であったろう。父の顔を見るのは実に33年ぶりになる。おそらくヨセフはエジプトの宰相、並ぶ者なき高官だから、エジプト流の装束に身を包み、大いに威厳を備えていたであろうが、父を見るなりいきなり首に抱きついたのである。ヨセフは17歳の少年に戻っていた。ヤコブも110歳の老人ではなく、かつての慈愛に満ちた頼もしい父親に戻っていた。歳月の溝はあっという間にかき消え、ヨセフは「アッバ、父よ」と叫んだことだろう。そして、首にすがって泣き続けたのだ。泣き続けたとは、時間の経過を表わしている。いつまでもいつまでも泣いたのである。その涙は33年の悪夢を押し流してくれたことだろう。

 

父にすがりついて泣き続けるヨセフの姿とその胸中を想像して、泣かずにはいられなかった。辛かった日々を思い出したろう、苦しかった日が浮かんできただろう。その間一日として、父と故郷カナンを忘れることはなかったであろう。再会などはとっくにあきらめていたかも知れない。しかし、現実のことになった。しばらくは夢うつつに思われたろう。事実を確かめるために、泣きながらなんどもなんども父の顔を見ただろう。そして、ヤコブもまた同じ思いだったろう。

 

私の思いは走りに走った。ヤコブとヨセフの再会が、天に帰ったイエス様と父なる神様に思えた。イエス様は、あのベツレヘムの家畜小屋に生まれ、十字架の苦難を忍び通した。その間奇しくも33年間。イエス様は、父なる神様の首にしがみついて『アッバ 父よ』とむせび泣いたのではないだろうか。もちろん全くの想像である。次元の低い貧しき想像である。笑われてしまうかも知れない。

 

そして、自分が天に帰ってイエス様(神様)にお会いしたとき、はやりその首に抱きついていつまでもいつまでも泣き続けるのではないだろうかと、ふと、思ってしまった。これも的の外れた想像であろう。でも私は泣きたい、主のみふところの中で心ゆくまで泣き続けたい。

 

 
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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その19
 

詩篇119篇は22の段落から成っています。今回はその16番目です。

 

第16段 アイン

 

 119:121 私は公正と義とを行いました。

  私をしいたげる者どもに私をゆだねないでください。

 なにか問題が起ったとき、感情は激し、義憤が高まり、自分の言い分を前面に出したくなるが、神様が見ておられることを思い、努めて自分を制し、神様のおしえに則って正しく振る舞ったと、詩人は言う。人生を信仰の戦場と意識するキリスト者の多くは、神様の御前に詩人と同じことが言えると思う。だからこそ、襲いかかる難問の餌食にしないでくださいと祈らざるを得ないのだ。

 

 119:122 あなたのしもべの幸いの保証人となってください。

  高ぶる者どもが私をしいたげないようにしてください。

 神様御自身が前面に乗り出して保証人になって欲しいのである。損になっても善をなそう努力するのだから、神を知らない悪者の自由にさせないでくださいと、詩人はなおいっそう強く嘆願の祈りをささげずにはいられないのだ。

 

  119:123 私の目は、あなたの救いと、

あなたの義のことばとを慕って絶え入るばかりです。

 神様に近づいていくと、願い事への祈りはもちろんだが、それが次第に質的に変化してくる。神様への信頼に加えて神様への情愛が高まってくる。それは人間同志の間に燃える愛に似ている。人格的交わりへの高まりと言えるのではないか。端的に言えば、主よ、あなたを愛します、なのである。

 

 119:124 あなたの恵みによって あなたのしもべをあしらってください。私にあなたのおきてを教えてください。

 神様が私を扱ってくださる理由は、こちら側の善ではない。私が神様に対してよくしたから神様がご褒美をくださるのではない。ただただ一方的な恩寵である。恵みである。恵みによってあしらわれるとき、不安はない。詩人は主のみ衣にすがりつくように恵みによる扱いを求めている。そしてさらにみこころを教えてくださいと願っている。

 

 119:125 私はあなたのしもべです。私に悟りを授けてください。

そうすれば私は、あなたのさとしを知るでしょう。

 私がどんなに足りなくても、弱く醜くても、心はどこにも向いていない、心底からあなたのしもべですと言い切れる確信と純真さは失ってはならないと思う。これはまごころからの信仰の告白ではないだろうか。そして主人であるお方へ大胆に真理を求めていくことで、自分もさらに深い真理を会得することが出来るのだろう。

 

 119:126 今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのおしえを破りました。

 この節から詩人の心が立ち上がったように思う。なにか大事件が起きたのだろうか。主が決着をつけてくださらなければどうにもならないと切迫した思いに駆り立てられている。

 何よりも彼らは公然と神に背き、自分の義を通すために神様の教えを足蹴にしているのだ。神様の領分を侵しているのだから、神様に解決していただくしかない、詩人は断固として主に迫っている。

 

 119:127 それゆえ、私は、金よりも、純金よりも、あなたの仰せを愛します。

 神様の教えを破り、神様に敵対している者たちを見るにつけ、自分だけは何にも勝って主の言われることを守りたい。どんなに価値のある物にも勝って、慕い、愛したいと、詩人は奮い立って強く自分に言い聞かせ、また主のみまえに告白している。

 

 119:128 それゆえ私は、すべてのことについて、あなたの戒めを正しいとします。私は偽りの道をことごとく憎みます。

 前節に続けて、詩人は、それゆえに、と繰り返しながらたたみかける。生きていく途上のあらゆる場面で主の教えを正しいとし、決して悪や偽善に惑わされまい、罪に負けまいと敢然として胸を張るけなげな詩人の姿が見えてくる。

 

 

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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その18
 

 

しばらく中断していましたが、また思い立って続けます。119篇は22の段落に別れています。今回は15段です。やっとここまで来ました。とにかく終わりまで頑張ります。

 

第15段 サーメク

 

119:113 私は二心の者どもを憎みます。

  しかし、あなたのみおしえを愛します。

二心の者とは、二枚舌をつかったり、状況や出会う人によって態度を変える卑怯な悪人のことを言うのだろう。単純な者はいいようにたぶらかされ翻弄されてしまう。しかし、そんな悪辣な者のことであっても、ひどい仕打ちにあって、傷つき悩まされても、神様の前で《憎みます》と大きな声ではなかなか言えない。 

新約の時代に生きる私たちはイエス様の『あなたの敵を愛し……』を前にしているので、たとえ悪人のことであっても祈りの中で《憎みます》とは言えない。しかしその二重人格的偽善の罠にかかって、裏切られたり傷つけられたりすれば、人知れず憎んだり恨んだり、時に罵りたくなるものだ。感情を抑えるのに苦労する。まして《愛します…》、《赦します》などと言えるものではない。いっそこの詩人のように憎みますといった方が正直かもしれない。主は心の内の隅々までとっくにお見通しなのだから。

詩人はまことに素直に、二心の悪人は憎むけれど、主は愛すると言う。透き通った声が聞こえてきて爽やかになる。

 

 119:114 あなたは私の隠れ場、私の盾。

  私は、あなたのみことばを待ち望みます。

前節で、二心の者どもを憎むと祈った詩人は、おそらく彼(彼ら)から耐え難い暴挙を受けたのであろう。もちろん直接に暴行を受けたわけではないかもしれないが、暴言、あるいは否定、無視され、騙されたのだろう。そんな現場にいたくないのだ、身を隠して、逃げてしまいたいのだ。しかし状況によってじっと身を晒さねばならないこともある。行くも退くもできないとき、詩人は主のもとに隠れ場のあることを知っている。主のみふところに駆け込んで、主に盾になっていただけば、実際には苦境の矢面に立たされようと、凛としていられるのである。詩人は主の助けを待ち望み、それを確信し、祈り続けているのだ。

 

119:115 悪を行う者どもよ。私から離れて行け。

  私は、わが神の仰せを守る。

詩人は大胆に主に刃向かって悪を行う者を追い払う。祈っている内に、詩人は強められていったのだ。まごころからの祈りには主の臨在がともなう。主がおられることがわかると、魂は俄然、息を吹き返したように立ち上がることができる。たとえ我は弱く惨めであっても、弱さの内に働く御霊の勢いによって強くされるのだ。断固として悪者に立ち向かい、たとえ千人を敵に回しても、敢然と主に従うことができる信仰が与えられるのだ。

 

 119:116 みことばのとおりに私をささえ、私を生かしてください。

  私の望みのことで私をはずかしめないようにしてください。

 詩人は主の隠場に身を委ねながら、主に安心して哀願している。同じことを繰り返す幼子のように、主の支えと、生かしてくださること、希望が失望に終わらないことを、願い続けている。

 

 119:117 私をささえてください。そうすれば私は救われ、

  いつもあなたのおきてに目を留めることができましょう。

悪者を追い払い、敵が消え失せて、勝利したとしても、主の支えがなかったらほんとうの救いではない。単なる救出は一時的だ。臨在の主のそばで主に従うとき、まことの救いと平安と喜びをいただけるのだ。詩人はそれを願っている。

 

 119:118 あなたは、あなたのおきてから迷い出る者をみな卑しめられます。

  彼らの欺きは、偽りごとだからです。

詩人は、主は公平でどんな悪も見逃さないお方であると知っている。主の戒めを軽んじ、その愛を軽率に扱う者を主も喜ばず、主の祝福にあずかることはない。どんなに体裁を繕っても主を欺くことはできない。

 

 119:119 あなたは、地上のすべての悪者を金かすのように、取り除かれます。

  それゆえ私は、あなたのさとしを愛します。

前節に続いて、主が背く者や悪を行う者をほってはおかず、溶解炉で不純物を取り除くように、捨て去ることを確信している。それは思うだけで実に痛快である。詩人は、胸を張って正義を貫く主を愛しますと告白している。心が燃え、喜びがあふれている。

 

 119:120 私の肉は、あなたへの恐れで、震えています。

  私はあなたのさばきを恐れています。

 神様が決して悪を見逃さない、大いなるさばきの方であると知るのは胸のすく思いがするが、ふと、自分の罪汚れを見るとき、手放しでは喜べない。主の正義の前に恐れが生まれる。それは身震いするほど強いものである。もし、自分がさばかれたらと思うと居ても立ってもいられない。純な詩人はそうした恐れを率直に主に申し上げている。しかし主は微笑みながら詩人の訴えを聴き、おそらく直ちに平安で満たすことだろう。

 

 

 

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聖書の風から 新しく生まれること
 

久しぶりにこのカテゴリーを使います。おそらく三日坊主になる気がしますが、新年には新年らしく、新しい決意や、過去の決意の再開などが似つかわしいと思うからです。

 

 今朝開いた信仰書の一ページを紹介します。

 新約聖書の中に記されている新しいことに着いての記述です。

 新生(第一ペテロ13

『イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました』

 新しいいのち(ローマ623

『罪からくる報酬は死です。しかし神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです』

 新しい人(エペソ424

『真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした』

 (コロサイ310

『新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです』

新しい心(エペソ423

『また、あなたがたが心の霊において新しくされ』

新しい戒め(ヨハネ1334

『あなたがたに新しいいましめを与えましょう。互いに愛し合いなさい』

新しい生ける道(ヘブル1020

『イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい道を設けてくださったのです』

新創造(第二コリント517

『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』

 (ガラテヤ615

『割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です』

新しい天と地(第二ペテロ313

『しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます』

(黙示録211

『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない』

 

 聖書は新しいことへの言及で満ち満ちています。そもそもイエス・キリストによる救いは、古き罪人から罪赦された新しい人への新創造のみ業から始まるのです。

『人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない』と説かれたイエス様のおことばを思い出します。

  

 今でも50数年前のことが思い出されます。自分というものを意識すするようになった十代の初めごろのことです。自分の欠点にたいへん苦しめられ、何とかして改善しようと努力したり切望して、もがきました。でもどうにもなりませんでした。

 

教会に導かれてイエス様を受け入れ、しばらくして洗礼をいただいたとき、牧師先生が「あなたのすべての罪は赦されました。今日からあなたは清い神の子になったのです」と言われたました。このときほどうれしかったことはありません。

 

これで昨日までのいやな自分でなくなる、新しい自分になれる、私は神の子なのだと、それはそれは単純に信じました。もっとも、しばらくしていっこうに聖人君子になれない自分、それどころかますます罪深い自分を再発見して悄然としたのでしたが。

 

しかし、長い歳月を経て振り返ってみるとき、聖人君子には今でもほど遠いのですが、心の持ち方や価値観、生き方等の人生への対処法が全く変えられているのをはっきりと知ることができます。

もし、イエス様に救われていなかったら、イエス・キリストを知らなかったら、私の人生は間違いなくどうしようもない闇で覆われていたと断言できます。こう言える私がいるのは、新しくされた証拠です。さらに、永遠のいのちを与えられており、やがて地上から天の御国へ移されることを思うと、胸が痛いほど熱くうれしくなります。



いつの間にか証しになってしまいました。こんな積もりで書き始めたのではないのです。でも、こう言わせてくださった主に感謝します。ハレルヤ。

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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その17
 

第14段 ヌーン

 

119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

暗いところを歩くとき、上からの光りもいいが、足下が明るいのはなんと言っても確かな安心を与えてくれる。また、行く手に灯火が見えるのもうれしいが、一歩一歩の近いところが明るいのは心強い。最近は家の中や室内にもフットライトと称してコンセントに差し込める小さなランプがある。

詩人は神様のみことばこそ心と人生のフットライトだという。かつて、今のように夜道に街灯のない時代は、提灯で足下を確かめながら歩いた。今日も、人生の小道にみことばのフットライトをともして、安心と希望を持って進んでいきたいものだ。

 

 119:106 私は誓い、そして果たしてきました。

  あなたの義のさばきを守ることを。

 詩人は今までの人生を振り返ってしみじみという。貴い救いに与り、神とともに歩み初めた時からみことばを愛し従おうと決心し、そのように精一杯してきたと。誓ったとおりできず、御心を痛め悲しませることもあったけれど、とにかく、みことばから離れることなく、その道を継続してきた事実は動かしがたいものであり、自分の人生は丸ごとそれ一色であったと。みことばのみを人生の杖とし剣としてことはまことに価値ある生き方ではないか。

 

 119:107 私はひどく悩んでいます。

  主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。

 また、また、詩人の行く手に灯火を消してしまいそうないじわるい強風が吹いてきたようだ。悩みの闇に取り巻かれている。みことばを喜び蜜のようだと楽しんで味わい、義とさばきを守ってきたのに。だが、みことばに完全には従い得ない罪深い自分と、試練の逆風には弱い自分がいる。いのちと希望にあふれたみことばの約束を信じ、生かされていることを感謝して、突き進んでいきたいと、彼は主の御前に己を投げ出して懇願している。

 

 119:108 どうか、私の口の進んでささげるささげ物を受け入れてください。主よ。

  あなたのさばきを私に教えてください。

 口のささげ物とは祈りであろうか、さんびであろうか。悩みの日にこそ深い祈りや賛美がまごころから生まれるものだ。魂は引き上げられ、さらにみことばへの渇きが生じ、みことばの奥義を慕い求めずにはいられない。

 

 119:109 私は、いつもいのちがけでいなければなりません。

  しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。

 いつもいのちがけ、とは特別なときだけでなく、一見して、平凡で平穏な日々でもということだ。信仰者としてこの世を生きようとすると、どんな小さなところにも罪を犯させようとする悪の力や誘惑の手は伸びてくる。油断したらあっさりとサタンの罠に陥ってしまう。だからこそいつも目を覚ましていなさいと、イエス様は愛の警告をなさった。どんなときも緊張感を忘れないで、みことばを求め、主を愛しますと告白し続けることが大切だと思う。

 

 119:110 悪者は私に対してわなを設けました。

  しかし私は、あなたの戒めから迷い出ませんでした。

 いつもいのちがけで目を覚ましていると、悪が巧みに近づいてきて罠を設けるのがわかる。罠のありかがわかればむざむざと足を取られはしない。みことばの光があれば、揺れたり迷ったりすることはない。

 

 119:111 私は、あなたのさとしを永遠のゆずりとして受け継ぎました。

  これこそ、私の心の喜びです。

 信仰は一生の宝、子孫に残す最高の遺産である。それは主を喜ぶ者に無条件に与えられる財産である。

 119:112 私は、あなたのおきてを行うことに、心を傾けます。いつまでも、終わりまでも。

 詩人はみことばを足のともしびとし、永遠の嗣業との確信に立って悩み多き人生の旅を

続けていく。心は強められて、主とともに行くことだけを願っている。それは短期間のことではない。いつまでも、終わりまでもである。この終わりはこの世に生きることの終わりという意味であろうが、とわに、永遠にの意があるのはいうまでもない。

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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その16
碓氷川

 

 第13段 メーム 

 

詩篇119篇は176の小さな節で構成されている。それが規則正しく8節ずつに区切られ、22のグループに分かれている。この箇所で半分が過ぎた。ずっと詩人とともに旅をしてきたような気がする。しかし時とすると、詩人と自分が一体となり、詩人の祈りが私自身の祈りになったこともある。ここまで来て、一息ついてみるとこの旅は長い歳月をかけた旅であったように思える。人生の旅の詩(うた)と言ってもいいのではないか。

 

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。

これが一日中、私の思いとなっています。

 

 第一篇にある『主の教えを喜びとし、昼も夜もこれを口ずさむ』を思い出す。さらに申命記6章にあるモーセの遺言とも言うべき命令を思い出す。『私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。…あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい』

しかし、詩人は命令してではなく、みおしえを愛するがゆえに、一日中、思っているという。ここには、みおしえというよりも、神への人格的な愛を見ることができる。詩人は神様を慕っているのである。だれよりも親しいお方として、恋しいお方として、焦がれているのである。この神様は新約の今の時代ではイエス・キリストである。

 

 119:98 あなたの仰せは、私を私の敵よりも賢くします。

それはとこしえに、私のものだからです。

神のことばにはいのちと力がある。みことばに立つとき、内側から大きな力が生まれてくる。『神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう』ローマ8章からパウロの太い声が聞こえてくる。

 

 119:99 私は私のすべての師よりも悟りがあります。

それはあなたのさとしが私の思いだからです。

神のみことばを全身におびるとき、敵だけでなく、時として教えを乞うた先生よりも深い知恵を与えられることがあると、詩人は主のさとしの深さを実感しているのだ。

 

 119:100 私は老人よりもわきまえがあります。

それは、私があなたの戒めを守っているからです。

年を取っただけでは若者に勝てない。神を知らない老人は、老いの刃に心身を攻撃され、若いときより弱く劣ってしまうことがある。詩人は決して傲慢になっているのはない。神のことばの強さと正しさを盾にしているからこんな大胆な発言になるのだ。

 

 119:101 私はあらゆる悪の道から私の足を引き止めました。

  あなたのことばを守るためです。

神のことばに本気で従うとき、罪にも悪に誘惑にも引き連られることはない。みことばは悪と隔絶させる強固な防御壁になる。

 

 119:102 私はあなたの定めから離れませんでした。

それは、あなたが私を教えられたからです。

みことばによって勝利を経験すると、ますます離れることができなくなる。教えの貴さが身にしみるからだ。またみことばの威力を知るからだ。

 

 119:103 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。

蜜よりも私の口に甘いのです。

上あごに甘いとはおもしろい表現ではないか。しかしこれは口に甘いという意味と考えていいだろう。その甘さは蜂蜜よりも甘いという。熟読玩味、味読と言う言葉もあるから、みことばは心や魂や感情や意志などに働くだけでなく、五感で体感もできると言うことだ。

蜂蜜のことだが、確かに蜂蜜の甘さは、果物の甘さや、白砂糖の甘さよりずっと濃厚で風味がある。もっとも当時は今のように精製された砂糖はなかったであろう。蜂蜜も巣から直接集めた、いわば原液だったに違いない。詩人は甘いという言葉に、みことばのおいしさを託したのであろうが、蜂蜜は単に甘いだけでなく、体を元気にする働きがあるのも知られている。サムエル記にある、ダビデの親友ヨナタンの蜂蜜事件を思い出す。

 

119:104 私には、あなたの戒めがあるので、わきまえがあります。

それゆえ、私は偽りの道をことごとく憎みます。

詩人はみことばの力を体験しているので、すこぶる自信を持っている。みことばの光りに照らせば、物事への識別力、判断力が与えられ、理非曲直がわかると言い切れるのだ。これも一見傲慢に聞こえそうだが、あなたの戒めがあるので、を見落としてはならない。こうして詩人は罪を離れ、罪を嫌い、罪を憎み、主の喜ばれる歩みができる。 

 

 詩人とともにさらに詩(うた)の旅を続けたい。この詩(うた)は祈りである。祈りは主にささげる愛である。愛と祈りの詩(うた)を歌いながら人生の旅を続けていきたい。

 

 

 

 

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聖書の風から 詩篇を愛して 我が祈りとしての詩篇119篇 その15
薔薇
ロゴス氏より拝借


詩篇119篇を1節、1節と散策していたらまだ半分しか歩いていないのにすでに1年になろうとしている。
ずっと思索していたのではない。脇道にそれてあたふたしていた。幸いみことばの光に導かれて戻り道を見いだた。最後まで歩みきらねばと小さな意を堅くした。 



第12段 ラーメド

 

119:89 主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています。

 神様は天地の造られる前から存在しておられた。天地創造はその御口から出る一つ一つのみことばだけによる単独事業であった。『初めにことばがあった。ことばは神であった』を思い出す。さらに、イエス様が『この天地は滅び去ります。しかしわたしのことばはけっして滅びることはありません』といわれたことばを思い出す。詩人は祈りの中でその真理を知らされ、確信となり告白となったのであろう。

 

 119:90 あなたの真実は代々に至ります。

  あなたが地を据えたので、地は堅く立っています。

 人は変わる、愛も情けも真実も。時に口先だけの上手を言う。うかうかと喜んではいられない。そこには巧みな落とし穴が仕掛けられている。悲しいことだ。しかし主は変わらない。その真実は受けるに値しない者にまで惜しみなく注がれる。主は安心して寄りかかれる大黒柱だ。主は盤石の土台。その上に人生という家を建てたい。詩人はその家を手に入れ、その家に住んでいるのだろう。動かざる地の上に立っていると実感したからこそ、こう言えるのだろう。

 

 119:91 それらはきょうも、あなたの定めにしたがって堅く立っています。

  すべては、あなたのしもべだからです。

 思えば思うほど創造のみわざは壮大で完全で調和と統一の見事なバランスの上に立つ。

一つとして無駄はない。神にとって不必要なものは何一つないとの真理を発見したとき、自分のような者はいてもいなくてもいいのではないかと、失望の淵に沈んでいた人が俄然生きる勇気を得たと、聞いたことがある。森羅万象は神の栄光をあらわすために造られた。

『天は神の栄光をあらわし、大空はその御手の業を示す』朗々と歌いあげる声に和して神をほめたたえたい。

 

 119:92 もしあなたのみおしえが私の喜びでなかったら、

  私は自分の悩みの中で滅んでいたでしょう。

 苦難に襲われて出口のない穴の中でもがいているようなとき、みことばは太い命綱のように頼もしい。それがなかったら心はすさむばかり、絶望は大きくなりるばかりだ。希望の光をたよりに前進するための唯一の手がかりはみことばを握り、みことばとともに歩むことではないだろうか。詩人はその経験を思い出し、改めて主をほめ、喜んでいる。

 

 119:93 私はあなたの戒めを決して忘れません。

  それによって、あなたは私を生かしてくださったからです。

 みことばに助けられ、新しい歩みに導かれた経験は人生の得がたい宝であろう。人生うまくいき、笑いが止まらないような順境の時にあっても、決して忘れられるものではない。また忘れてはならないのだ。生かされているのだ。赦され、愛されているのだとわかるとき、みことばは蜜よりも蜂蜜のしたたりよりもおいしい。

 

 119:94 私はあなたのもの。どうか私をお救いください。

  私は、あなたの戒めを、求めています。

 私はあなたのものとは、最高の愛の告白である。最高の信頼表現である。主のおそば近くににじり寄って、そう申し上げ、いっそうの助けを求めたい。ますます主を求める思いが増し、焼け付くようだ。

 

 119:95 悪者どもは、私を滅ぼそうと、私を待ち伏せています。

  しかし私はあなたのさとしを聞き取ります。

 ちょっと心をゆるめると、すぐに足下をすくわれる。悪の力はあなどれない。絶えずみことばの武具をつけて身構えていなければならない。しかしそれは絶えざる緊張と恐怖ではない。主のみことばには平安があり喜びが力があるのだから。

 

 119:96 私は、すべての全きものにも、終わりのあることを見ました。

  しかし、あなたの仰せは、すばらしく広いのです。

 

すべての全きものにも終わりがあるとの発見は、長い人生経験からでる正解だろう。それを本気で言えるものになりたい。そして《あなたの仰せは、すばらしく広い》と、心も体も一心に主を見つめ、御手の業である大空に両手を挙げて、主を讃えたい。

人生の途上で、こうした賛美が出来るとき、また新しい力で、次なる坂に向かっていける。

主を待ち望むものは新しい力を得るとあるから。

 

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