人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の快風から 春は往く 孫も行く

日々の快風から 春は往く 孫も行く

 

 

春は出会いと別れの季節と言われるけれど、私にもひとつの別れがあった。私には新しい出会いはないから、別れが身に沁みる。生まれた時から一緒だった孫が、就職して職場近くへ越していった。自立独立である。待ち望んでいた喜びなのだが、同じ屋根の下にいないことが何ともさびしい。

 

自分の子どもたちとも別れがあったのだ。一人は大学は寮生活だったから、夜具をはじめ生活用品一式を持たせた。あの時、18歳で家を出てから今に至るまで同居することはない。もう一人は海外へ留学したから、大きな別れだった。二人とも私の元から去ってしまったがしみじみ寂しいと思ったことはないと今、思う。寂しさなどに浸ってはいられない緊張があり心配が先立った。親とはそんなものかもしれない。

 

孫だからさびしいのだろうか。思えば彼との距離はどんどん大きくなっていく。職場の移動も転勤もあるだろうから私の生きている限り再びこの家に住まうことは無いに違いない。もちろん時々帰る日はあるだろうが、長期に住まうことはない。

 

彼が家を去ってまだ半月、しかも住まいは同じ都内、手の届くところにいるのだが、何んとも心に空いた大きな穴を埋める手だてはない。おばばのこんな心境は娘にも誰にも言えない。降りしきる雨の音がいつもよりずっと大きく聞こえる。

 

 

 

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日々の新風より 機関誌発行を終えて

日々の新風より 機関誌発行を終えて

 

私の係わる組織では数年、年に2回小さな機関誌を発行している。冊子にはせずにA4版両面刷りで今回は18ページになった。あらかじめ会員に寄稿の案内をする。一か月ほどの期間を置く。一応の締め切りは11月20日とし、分量は1500字を目安にした。送られてくる原稿をひとつひとつ機関誌のフォームに流し込む。

 

小さなトラブルが頻発するが、なんとか形が出来たのが12月初めだった。紙面の調整を経て、どうしても空いてしまうスペースを埋めて、校正版ができた。数名の奉仕者にデータを送り、見ていただく。訂正箇所のメモが来る。すぐ訂正、修正する。編集作業を分担しているS兄とクラウドで最後のやり取りをして最終版とした。

 

印刷は家庭用のプリンター。カラー刷りにするので費用を考えてプロにはお願いしない。部数も多量ではないので。プリンターが無事に最後まで稼働してくれるのを祈りつつ、時々ベンチタイムを入れつつ、一日中、働いてもらった。2日ほどで刷り上がった。

 

荷造りして送付を担当してくださるH姉に送ったのが4日、日曜の早朝。翌日5日午後、届いたと報があった。今ごろH姉は一部ずつ封筒に入れて郵便局へ走っているころだろう。会員に配達され、反響が寄せられるのが待ち遠しい。それが何よりの喜びであり感謝である。3年になるコロナ禍でも、原稿を書くメンバーたちの熱い思いと、ITの活躍が大きく貢献してくれて、「あかし文章」の活動が滞ることなく進んでいることに、ただ、感謝するばかりである。

 

機関誌の特集は「光に向かって」である。二重、三重の層を成して複雑な闇で覆われる世界に、「私は世の光です」と声を大にして降誕されたまことの救い主イエス様を、少しでも紹介し広めたい。機関誌は今、大きな使命を背にして、世に出て行こうとしている。おおいに羽ばたいてもらいたい。「恐れることはない、小さな群れよ」と優しく呼びかけてくださる主の聖名があがめられますようにと祈ります。

 

 

 

 

 

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日々の新風より 親友の苦闘苦悩

日々の新風より 親友の苦闘苦悩

 

私の年代になるとさすがに親たちの介護で苦闘している人はいない。自分自身が介護される立場になってきている。ところが、配偶者の介護のために戦っている人は多い。その上にきょうだいのケアーが起きてくる。

 

我が親友は最近厳しさを増してきたご主人のケアーとご実家に一人暮らしをしている姉上のケアーが重なってきた。姉上は昔気質の考えが強く公的支援を強く拒否する。家に介護者を入れない、デイサービスも断固として受け入れない。親友は自宅から実家まで通ってお世話してきたが、とうとう夜も一人にしておけなくなり、自分の家を閉めてご主人共々実家に泊まり込んでいる。二重生活である。

 

ところが次第にご主人も目が離せなくなった。奇異行動が目立つようになったという。危険が付いて回る。月に何度が幾種類もの病院に同行する。その間、姉上のケアーは親友の娘さんに仕事を休んできてもらっている。

 

コロナが下火になったので声を掛けてようやく会うことができた。少しでも現場から離れて気分転換してもらいたいと願ったのだ。親友はいそいそとやってきた。好物の天ぷらそばを楽しみ、チョコレートケーキに目を細めた。生来、物事にこだわらない懐の深い人である。その上、私などにはまねのできない忍耐深さと優しさを備えている。だからこそこんな悪状況に耐えられるのだろう。話をしても事実を淡々と語るだけで、愚痴めいたことは出てこない。悪口もないのだ。昔らかそういう人だった。その姿勢から多くを教えられるのだ。

 

しかし、しばらく会わないうちに持ち前のふっくらしたお顔に老いの弱さが滲み、一回り小さくなったようにお見受けした。ふと胸が詰まった。私にできることは祈ることだけ。今まで以上に主の最善を祈ろうと決意した。

 

 

 

 

 

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日々の新風より 英雄とはだれのこと?

日々の新風より 英雄とはだれのこと?

 

 

今やコロナ禍以上にいっときも頭から離れないのはウクライナの戦況である。おそらく世界中の目が瞬きも忘れて、刻々と送られてくるニュースを見つめていることだろう。伝達手段がここまで発達してくると、ほとんどリアルタイムで知ることができる。そこには本当の事実ばかりでなくフェイクも紛れ込んでいるらしいが。

 

学校で教えられ教科書で知ってきた世界史、日本史の英雄たちを思い出している。古代ローマのユリウス・カエサル、近世ではナポレオン・ボナパルド、織田信長、西郷隆盛などなど。

彼らはどうして英雄と言われるのか、戦争が上手で、戦争に勝ったからだ。戦争とは、他の地域や国を武力で攻撃し、相手国の多くの兵士、一般人の命を奪い、町を破壊し、自分のものにしてしまう恐ろしい行為だ。その先頭に立って、残虐の限りを尽くして勝利者となったのが英雄なのだ。

 

今、ウクライナの情勢を見ていて、あの非道を指図している暴君が、戦勝した暁には英雄と呼ばれるのだろうか。歴史はそれを許すのだろうか。決してそんなことはないと信じる。

 

彼らの末路はどうであったろうか。上記の4名はことごとく非業の死を遂げている。カエサルの最後は有名だ。腹心に裏切られ「ブルータス、お前もか」と叫びながら刃に倒れた。信長に反旗を翻した明智光秀の「敵は本能寺にあり」も有名だ。近くは、ヒトラーもスターリンも一時期は英雄だった。しかし今は誰一人として栄誉を与える人はいない。

 

話しが曲がりくねるが、凱旋門、凱旋将軍という言葉がある。凱旋門と言えばパリのエトワール凱旋門は世界一の観光スポットと言える。ナポレオンが造らせたそうだが、彼はその門を潜れなかった。凱旋門はもともとローマ帝国から由来している。市内のコロッセオの近くにあるのも観光の名所である。私も潜った。

 

戦争に勝った将軍が、きらびやかに着飾って四頭立ての戦車に乗ってこの門から市内に入城するのだ。沿道は歓呼の群衆で埋め尽くされる。その行列の内容を読んだことがある。映像も見たことがある。戦いに敗れた国の高官たち、兵士、捕虜が鎖につながれて延々と曳かれていく。すぐに処刑される人たちもいる。戦利品の列(強奪、略奪品だろう)が行く。これが戦争の実態なのだ。おぞましさも極まれりではないか。そのパレードを、今、かの暴君はしたくてたまらないのだ。戦争は2千年の昔からちっとも変わらない。むしろ使う兵器が発達しているだけに悲劇は大きい。

 

「歴史」を本のタイトルだけを見るように眺める時、戦争の勝者たちの華々しい姿を「英雄」として並べてしまう。かのベートーベンでさえナポレオンを讃えて「英雄交響曲」を作った。

 

人間には、勝者にあこがれる心理があるのだ。「英雄」は人が生み出した悲しい幻像ではないだろうか。人生という戦場をあえぎながらさまよう私たちの、勝利への切ない願望が幾人かの有名人に投影されるのだろう。しかし、なにを「勝利」とするのかが問題だ。勝利に対する価値観である。その人の価値観がその人の「英雄」を作りだす。ある人はマザー・テレサを、ある人はキング牧師を心の英雄とするかもしれない。少なくとも他国を侵略する猛々しい暴徒を英雄としてはならない。

 

真の英雄とはだれか。私にとって英雄とはだれか、何をした人か。どのような人生を歩いた人か。その人の生き方、死に方を模範とする人が私にとっての英雄だ。キリスト者の私には確かな「英雄」がいる。慕わしき「英雄」が心のうちに住んでおられる。

 

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日々の新風より 春の嵐 戦禍の嵐

日々の新風より 春の嵐 戦禍の嵐

 

花冷え、花散らしとはよく言ったものだ。春の嵐は満開の桜を標的にするように襲った。気温も下がり真冬並みになった。整理した冬物をまた取り出す残念さ!思えば毎年同じことをしている。今年だけに限ったことではないのだ。お天気が良くなったので、桜花の様子を見に恐る恐る近くの公園に駆け付けた。あまり無残な姿は見たくなかったけど・・・・。

 

桜はまだまだ残っていた。ところどころに早くも緑の葉が出ていて、初々しい葉桜に姿代わりをしていた。桜はめげていなかった。嵐に耐えながら新しい命を次々に生み出していた。そのたくましさ、あふれる命に強く胸を打たれた。彼らは創造主のご計画の通りに素直に従った。それは彼ら自身の祝福になった。花衣を脱いだ桜樹は新緑に着替え、さらに夏のために緑陰を作っていく。

 

一方、人とは何だろうか。一番神に愛されている被造物なのに、同じ人間に銃を突きつけ命を奪う。今、世界中を震えあがらせているロシア軍の蛮行は、どんな理由があろうとあってはならないことだ。人として、してはならないことだ。どうしてああいうことをしてしまうのだろうか。戦場のせいだろうか。彼らとて、社会にいたら、一人の職業人であり、家庭では普通の夫であり父であったろうに。人は状況次第で凶暴な野獣になってしまうのだろうか。私もそうなるのだろうか。

 

この惨状を見聞きする事すら耐えられない。いっそ、シェルターにでも身を潜めてしまいたい。しかし耳をふさいで済むことではない。何もできないけれど、せめて心を裂き、心を寄せ涙を流して戦禍をくぐる人たちを思いたい。神は見ておられる。知っておられる。神は見逃さない。神は立ち上がってくださる。信じて祈り続けます。

 

 

 

 

 

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日々の風から 春に来た道

日々の風から 春に来た道

 

 

この2年間のコロナ禍生活での、一番のトピックは散歩、わたし流に名付ければ「ひとり歩き」を日課の一つに設けたことである。ブログでも何度も記し、友人たちにもたびたび話題にしてきた。思えば、過去に、歩くだけの目的で外出したことはなかった。あわただしい年月を過ごしてきたものだ。それが半強制的に閉じられてしまった。行動人間で通してきた私としては牢獄に監禁されたと同じだった。ちょっと大げさかしら・・・・。

 

今まで聞き流してきた、散歩する、歩くという言葉が急に光り輝きながら目に、耳に、心に飛び込んできた。それは牢獄の戸を開ける都合のよい鍵になった。初めは家の近くの道路を行ったり来たりした。と、散歩スタイルの人たちとよくすれ違うのに気が付いた。ああ、皆さん歩いてるんだ、そういう人たちがおられたのだと知って驚いてしまった。よく見ていると、我が家の脇の幹線道路を同じ時刻に同じ人が通り過ぎていくのだ。それぞれに自分流のコースがあるのだろう。

 

はじめはごく近場を歩いたが、だんだん遠くへ行きたくなった。少しずつ歩行力も強くなった。今では途中休憩なしで一時間以上はらくに歩けるようになった。なんだ、それっぽっちと言われそうですが・・・。私にとっては快挙なのです。

 

江戸時代からの掘割、人工河川が縦横に走っている。道路から川べりに降りていくこともある。よく整備されていて歩きやすいし、人影もまばらで、マスクを外すこともできる。季節の草花や樹々が植えられ、景観も楽しい。天然ではなく、人が造ったいわば偽の自然であるが、目には優しく心楽しい。

 

隣の区の南部に下っていくと、掘割がいくつも合流して荒川に流れ込み、間もなく東京湾に注ぐ。そのあたりは景色も雄大で、川岸には災害時の避難場所にもなる広大な公園が広がる。スポーツ広場もあるが種々の樹々で囲まれたこんもりとした森もどきの一画がある。緩い坂道を登っていく。そこが、すっかり気に入ってしまった。春に初めて来たときはちょうど新緑の頃だった。若緑の葉が差し込む陽に踊って、息を忘れるほど感動した。さすがに真夏の間は足を延ばせなかったが、10月に入って遠路も苦にならなくなり、行けるようになった。

 

桜樹はところどころ紅葉し始めていたが、落葉樹ばかりではなく小道はまだ鬱蒼としていた。それでも秋の姿になっていた。赤い実をびっしりと付けた木もあった。ススキも風に揺れていた。吹く風の中に冷えて尖った冬の顔がみえた。同じ場所ではあるが、春と秋では装いが違う。もう一か月もしたらすっかり葉を落とした裸の樹に会えるだろう。その姿も見てみたい。裸木の声にも耳を傾けてみたい。冬鳥のさえずりも楽しめるだろう。

 

どこかに「哲学の道」というのがあるが、この小さな森への緩い坂道は「祈りの小道」以外に名を付けられない。私の胸に畳む「祈りの小道」はコロナ禍が導いた貴重な隠れ道である。

 

 

 

 

 

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日々の風から オンライン礼拝で・もう泣かなくてもよい

日々の風から オンライン礼拝で・もう泣かなくてもよい

 

 

コロナ禍による緊急事態宣言が出るたびに、教会は日曜日の礼拝をオンラインにし、実際に教会に集まる活動を休止してきている。日本中、さらに世界中の教会がこうしたスタイルを取り入れているはずである。教会員のほとんどがスマホあるいはパソコンを使って、自宅に居ながらにして、教会から配信される礼拝に参加できている。ZOOMからLineからあるいはYouTubeから受信できる。思えば驚くべきことだ。私の教会では9月中はオンラインで行われる。会堂には説教者の牧師と奏楽者と配信の奉仕者だけが、いつもと同じ時刻に同じ礼拝堂で無人の会衆席の前で始められる。それがリアルタイムでそのまま送信されるのである。前日には礼拝のプログラム他の記載された「週報」が添付文書で送付されてくる。

 

私の友人たちの教会もだいたい同じようなスタイルで礼拝をおこなっているようだ。特に東京の教会は徹底して感染予防に努めていると聞く。教会がクラスター源になってはいけないだろう。一方、感染者数が比較的少ない地方の教会は、可能な限りの対策をしながらいつものようにともに集まって礼拝を捧げている。ある知人の牧師はいのちがけですと語った。

食事会など飲食のある集まりは中止している。寂しく辛いことであるが、永久に続くわけではない。いましばらくの忍耐であろう。

 

礼拝ではルカの福音書7章から、有名な「ナインのやもめ」が開かれた。一人息子を亡くして悲嘆にくれるやもめの母親に、イエス様は声を掛け、葬列に近づき、遺体に触れて「若者よ、起きなさい」と言われた。そのとたん、若者は生き返ったのだ。一番うれしかったのは母親であったろう。イエス様は心底悲しんでいる人を見分けられる。その悲しみに御自ら魂を振るわせて心を寄せ、ご自分の内にある力を発揮される。死んだ人が生き返るなんてと、たいていの人は一笑に付すだろう。その御業を信じる者をもあざ笑うだろう。そういうこともあるだろう。しかし、その議論はひとまず外に置く。

 

だれの上にもどこにでも起こる「死」は、動かしがたい事実である。「死」の力は強くこれに勝てるものはない。しかしイエス様はその「死」に自ら近づき、遺体に触れ、あわれな母親に「もう泣かなくもよい」と優しく力強く声を掛けられた。「もう泣かなくてもよい」とは何と的を得た言葉だろう。泣いていた人は一瞬泣くのを忘れただろう。悲しみはいったん」立ち止まり、母親はハッと我に返っただろう。母親の心はここですでに立ち直ったのではないだろうか。イエス様のおことばの力である。続いてイエス様は息子にいのちを与えて救った。

 

この出来事は単にイエス様が人を生き返らせただけのお話ではない。イエス様は人の悲しみや苦しみに全身で係わり、当人にも勝るほど悲しみ苦しみ同情し愛を注がれた。イエス様の伝道とはこういうことなのだろう。これが福音を伝えるということなのだろう。イエス様はその方法で町々村々を巡って働かれた。寝食を忘れるほど働かれた。「もう泣かなくてもよい」、「もう泣かなくてもよい」と声を掛けながら。

 

今、私の内にもこのおことばが鳴り響いている。今はこの母親ほどの状況ではないにしても、心には涙の雨が降りしきっている。自分のこと、友のことで、泣かない日はない。そのすべてを主は知っておられ見ておられ、近づいてきて手を触れて「もう泣かなくてもよい」と言ってくださっているのだ。御声の方を振り向き振り仰いだ時、主の御力が働き栄光が表されるのだ。「もう泣かなくてもよい」を聞き続けていきたい。

 

 

 

 

 

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日々の風から 9月の風速

日々の風から 9月の風速

 

 

 

秋雨前線の停滞で急に気温が下がり、涼しいを通り越して肌寒い。半袖の腕を摩りながら羽織る物を探したり長そでに着替えたり、一気にあわただしくなってきた。体調も快適とは言えない。久しぶりに歯痛に襲われ、歯科医に駆け込むことになった。

 

コロナ禍での開催には日本中を二分するほどの賛否両論で沸騰したオリンピック・パラリンピックも、もう終わった。関係者は多大なご苦労があったろうが、遠くにいる者としてはひととき大きな夢を見せていただいたと喜んでいる。

 

気がつけば、政変が起こり、コロナ感染者数が減りつつある。カウントの仕方にはいろいろあるだろうがとにかく一番基準としてきた数が好転しているのは何よりの朗報である。ワクチンの接種が効果を表わしてきているのだろうか。長い間「先が見えない」と嘆き節ばかりが聞こえたが、「光が見え始めた」と言えるのはうれしい。手ごわいコロナはさらにどのように姿を変えて襲ってくるのか知らないけれど、せめてしばらくの間は緊張を解いてホッとしたいものだ。

 

9月は新しい季節を運ぶ役割を担っている。この一か月は世界を急速に変えていく。自然界だけでなく、地球上の隅々まで吹き込み、生活も心も変えていく。9月の風速、風力は大きい。そう思っている。爽やかな9月の風速、風力に吹かれて光の方へ導かれていきたい。

 

 

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日々の風から この日を喜び楽しもう!

日々の風から この日を喜び楽しもう!

 

 

今日は8月最後の日。この数日猛暑日が続いてさすがに辟易したが、今日でこの月も幕を閉じるとなると惜別の情が沸く。創造主である神様が天地を創造して以来、実際の日数を正確に計ったらいったい何日を経たのか、だれにもわからないが、あの時以来、一秒の狂いもなく時が進行しているのだ。そして今日があるのだ。実に悠々たるドラマではないか。その神秘を思うとワクワクする。

 

ともあれ、小さな地球ひとつを見ても、今日は2021年8月31日である。歴史の上で2度とない日である。私の生涯においても今日は一回限りである。生かされて来年8月31日を迎えられたとしても、それは2022年であって全く違う日である。今日一日の何と貴重なことか。奇しくも偉大な創造主から賜ったまたとない贈り物なのだ。だれからどんな高価なプレゼントをいただくより価値がある。今日は喜ばしい日なのだ!この日を楽しみ喜ぶことが送り主への最高の返礼ではないだろうか。

 

現実には、今日も不快な暑さが続き、大災禍のコロナに苦しめられている。政治も行政もあたふたしている。新しくはアフガニスタンの動静に世界中の目が凝集されている。どこを見ても、闇、闇、闇である。胸がふさがれ心は傷み、笑顔など忘れてしまいそうである。

 

しかし、原点に戻って、私は今日一日を喜び楽しむことに徹する。この日をくださった神への感謝を捧げながら、小さな一日を歩んでいく。神様は単に時間の一日をくださっただけではない。実際に喜びや楽しみも用意されている。荒野の母ハガルは孤独な死の砂漠の真ん中でこんこんと清水湧く泉を見つけた。不遇にあえぐサマリヤの女はイエスさまからいのちの水をいただいた。隠れたところにおられる神は、肉の目では見つけられない密かな場所に喜びや楽しみを用意される。その宝を探し当てたい。8月31日のために備えられたオンリー・ワンの恵みを楽しみ喜びたい。

 

これは主が設けられた日。

この日を喜び楽しもう。

詩篇118・24

 

 

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日々の風から コロナ禍読書 短編100篇読破中

日々の風から コロナ禍読書 短編100篇読破中

 

 

疫病コロナに振り回されて久しいが、三密を避ける自粛生活の中で読書の時間が増えたことは確かである。この半年、あまり馴染みのなかった『辻邦生』と言う作家に出会って、彼の小説世界にすっかり入り込んでいる。こんなに書いている人を素通りしてきたことに恥じている。膨大な執筆量には唖然茫然以外にないが、私にできることは手当たり次第に読むことと悟った。そのことに情熱を、いや、残り火を煽っている。辻氏は巨人中の巨人だ。私の立ち位置からだと、辻氏がキリスト者でないことが唯一残念ではある。しかし辻氏の小説や理論にはいやみがない。私でも入り込める清涼感あり平和と愛を感ずる。彼は生きる意味の本質を経験と思考から見つけようとしたと私は思う。

 

下手な前置きはさておき、現在は『ある生涯の七つの場所』シリーズを読んでいる。ハードカバーでしかも箱入りである。重い頑丈な本が8冊ある。それを図書館から借りている。重いので一度に2冊がせいぜいである。辻氏はある時、100篇の短編を書くようにと勧められたそうだ。100である。100篇!100篇!100篇!である。それに挑戦したのだ。一冊に12作品が収められている。今6冊目であるが、100篇かっきりになるのか最後の8冊目でわかるだろう。1篇の長さはざっと2万字、400字原稿用紙で50枚か。計算だけはしてみたのである。50枚の短篇が100!!5000枚である。ああ・・・。

 

短篇だから、一つ一つ完結している。それがとてもいい。しかし、作者には壮大な意図がある。そのからくりも面白い。クイズかパズルのようだ。初めはまったく無関係の作品が並んでいるが、そのうちに繋がり出すのだ。登場人物も見おぼえた人が出てくる。場所もである。日本かと思えばヨーロッパの各地が舞台になる。語り手の「私」が高所から作品列車をけん引している。手の込んだ作品である。こんな作り方もあるのかと、感心するばかりである。

 

梅雨空とコロナ禍で鬱々とした日々であるが、熱いコーヒーをかたわらに、読書するのも一つのストレス解消法ではないか。展開する読書世界の非日常性がいかにも楽しい。

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