人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

心の風から 老親介護・老老介護

心の風から 老親介護・老老介護

 

私と同年齢の方々はすでに老親介護は終わっている。私は遅いほうだったが、それでも母を天に送ってすでに8年になる。人によって千差万別であるが、私の年齢になると介護される側である。問題なのは老老介護である。介護されても仕方のない方々が、幸い自分自身は今のところ元気ではあるものの、配偶者の介護をすることになってしまうことである。実際、私の友人知人でそんな苦境に立たされている方が何人もおられる。今では珍しくもない社会現象のひとつだが、実際は深刻である。深刻さを増しているのは、ずっと二人暮らしだった方々。同居する家族か、独身でもいいから同居の子どもがいる方々はその困難さが緩和されると思う。

 

ご主人を介護している方の方が多い。奥様のお世話をしておられる男性も存じている。ときにその内情を知ることがある。わりにオープンに話す方もおられる、こぼし話をするということである。一方で、固いガードを張り巡らし、弱音を吐かない人もおられる。それもこれもその人の生き方の姿勢の表れであるとおもう。良い悪いの問題ではない。ただ、外側から、あるいは人づてに、耳に入ることから、多くのことをあれこれ考えさせられる。

 

言葉選びが難しいが、介護するご本人の体力の限界が目に見えている、あるいは限界に達してしまう場合、もっと介護制度のお世話になればいいのにと、いちばんにそこに歯がゆさを感じてしまう。母の場合、介護制度がどんなにありがたかったか、身に染みている。申し訳ないほど便利に利用した。本人の使える保険点数の範囲内でケアマネさんと相談しながら、プログラムを立てていった。母の意志、私のスケジュールをミックスさせながら、日ごとに、時間ごとに、細かい表を作った。そしてその通りに進めた。感謝なことであった。

 

今は制度が目まぐるしく変わって、当時より不便、あるいは悪くなっていると聞く。費用の問題から使わない人もいると聞く。だから、一概に介護制度を利用したほうがいいとは言えないが、共倒れが目に見えている方にはお奨めしたいとおもってしまう。しかし総合してみるとこんな人が多い。

 

いつもそばにいてあげたい、自分のそばから、自分の家から出したくない、人に預けてまで楽するつもりはない。骨が折れてもつらくても、できるだけ頑張りたいというのである。この思いはどこから来るのだろうか。じっと考えるに、やはり最後に残るのは情であろう。愛情であろう。外側からはうかがい知ることのできない長年の絆、関係の深さがそうさせるのではないか。親を思う子の思い、夫を、妻を思う配偶者の思いは一つなのだろう、当事者の関係のただ中に、第三者はうかつには入れない。愚痴を聞かされるときは深くうなずいて聞き、じっとガードを固くして頑張っている人には、背後から祈っていくほかはない。ついに共倒れになった方々には駆け寄って行きたい。

 

 

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心の風から 板挟みの苦しみその4 熱き涙
心の風から 板挟みの苦しみその4 熱き涙
 
対立する二人の人の間に立って、双方を理解し味方しながら和解の道を探すことが、こんなにも苦しいとは思ってもみなかった。たぶん70余年の人生で初めての経験ではないかと思う。途中、苦労があっても、終わりよければ〜〜〜、になれば晴れやかになれるであろうが、そうはいかなかった。二人は決裂。立場の弱いBさんは自分の主体性に立って職場を捨ててしまった。今は浪々の身である。Aさんは、去るものは追わず式であり、私にもメール一本もない。すべては水泡に帰した。私にとっては完敗である。途方に暮れるばかり。
 
ひとつ、救われるのはBさんのその後である。私は、何の力にもなれなかったことをひたすら詫びた。しかし、Bさんは、内心はいざ知らず、気にしないでくださいと、反対にしきりに私を慰めてくれる。そして、自分の人生のひとつの転機だと思うと、積極的未来志向で乗り越えようとしている。明日にでもハローワークに行くのかと思えば、めったにないことだからとロング休暇のつもりで、旅に出てしまった。もう10日になるがまだ続けているようだ。時どきすてきな風景が送信されてくる。
 
もう一つ慰めがあった。
今回の問題を私は主にある信頼できる友に話をし、祈りをささげていただいてきた。できるだけ冷静に、出来事だけを簡潔に説明してきたつもりである。絶対的公平はないと思うが。友はなんだか大変ですねというくらいで強い感想はない。しかしそれでいいのである。
先日、結末を話した。そして祈り合った。ところが、祈りの途中で友の声が詰まり、途切れ、涙声になった。みれば、友の頬に大粒の涙が流れていた。驚いてしまった。友は、間に立ってどんなに大変だったかと言われた。私はしばらく感無量であった。
 
じっと顧み考えてみて、涙はもちろん友の理解と同情の愛の表れであるが、私はそこに主の慰めを見た気がしたのである。すべては徒労に終わり、失敗に終わり、何の役にも立たなかったと自責の思いばかりであったが、それは今でもあるが、すべての経緯をつぶさにご覧になりご存知の神様が、ゆるし受入れてくださり、そのしるしとして友の涙を送ってくださったのだと、そのように解釈した。暖かな安らぎの風がそよいでくるのを感じた。独りよがりであろうか。
 
私の祈りはまだまだ続く。Bさんの就活が祝され、これまで勝る好条件、好環境の職場が与えれ、張り合いのある働きができるように、希望の風が勢いよ吹いて導かれるように、である。Aさんのことは無責任のようであるが神様にお任せする。
     
      
 『後の栄光は、先の栄光に勝る』
 
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心の風から 板挟みの苦しみ その3 
心の風から 板挟みの苦しみ その3 
 

AさんとBさんの間に立ってなんとかお二人の意見が合意点を見出し、関係も以前のように良好になるように努めてきた。しかし、一連の対立の中で私の心がBさんに傾いてきたのをAさんは察知したのだろう、ふっつりと音信が途絶えた。以前のAさんを知っているし、私との関係も信じているので、現在の問題はさておき、私の心持ちは変わっていないつもりなのだが、Aさんにとってはそうはいかないらしい。心を閉ざしてしまったようだ。私は非常に落胆し思い悩んでいる。
 
ところが、お二人の対立はますますこじれてしまった。もともとAさんはBさんのいわば上司である。力関係は上と下である。Aさんには立場があるから周囲にはAさんになびく人もいる。Bさんに公然と味方する人はいないようだ。そっとメールしてきた人も音なしになったとのこと。Bさんは四面楚歌の中に置かれてしまった。Aさんは攻勢を強め、徐々に仕事も取り上げ、ついにBさんは明日からの仕事すらなくなってしまった。もともと組織の中で、ある部分を担当しているだけであるから、それができないのであれば会社にいっても何もない。雇用関係を盾にすれば、報酬はいただけるだろう。しかし人間には心がある。自分の存在をかけて仕事しているのである。存在を無視され否定されたらその屈辱に耐えうるだろうか。明日、無収入になっても耐えられるものではない。Bさんは早々に退職願を出してしまった。
 
あれよあれよという間である。もう少し時を見てもいいのではないかと思うのだが、Bさんはきっぱりと決めてしまった。私には留める力も理由もない。突然の思いがけない展開にただただ呆然とするばかり。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。まさか、ここまで来るとは思わなかった。これは破壊である。失敗である。とんでもないことになってしまった。おろおろくよくよするばかりである。私は双方によくないことをしてしまったのだろうか。自分吟味もさりながら、実際問題として職を失くしたBさんのこれからの苦境を考えると胃に穴が開きそうになる。
 
和解の日があるのだろうか。お互いに笑顔を交わす日があるのだろうか。AさんとBさんは笑顔どころか顔も見たくないだろう。もっとも今後は係わりあうことはないだろうけど。それにしても情けない。悲しい。つらく悔しい。先は見えない、わからない。しかしこのままであってはならないと、それだけは願う。ゆるしと和解の主に祈るのみである。
 
 
 

 
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心の風から  板挟みの苦しみ その2
前回の続きである。
AさんとBさんの激し熱した砲弾は頻度が少なくなった代わりに、双方の相手への問題が鮮明化し具体化してきた。私なりに事の次第がかなりよくわかってきた。そうなると中立なんてありえないことが分かった。お二人とも私の大事な友人であり、このことが解決したら再びもとの友情で結ばれると信じるが、私の理性とともに感情も活発化してきた。
 
お二人の関係は、Aさんは年長であり、職場での立場も上である。つまり優位な地位におられる。どんな展開になっても損はしない。いわば強者である。Bさんはその真逆。年も若く、Aさんの部下的存在であるから、展開次第では不利であり、損害を被る。職場なら上に従うのは常識かもしれないが、Bさんは無条件に服従したくはないのだ。自分の置かれている立場をきちんと認識した上での発言である。
 
具体的に問題を記さないので、読んでくださる方には大変に失礼であるが、抽象化せざるを得ない。板挟みになる者の苦しさと難しさをお察しいただけたら幸いです。
 
書きながら、自分の中でもやもやしている部分が整理できていくように思う。間に立つ者としてどうしたいいのか、それこそ私の役目は何だろうかと、その答えも探し出したい。ことは現在進行中である。この先、どのような展開になり、どこに落ち着くかわからない。しかし、私の心は決まりつつある。

実際にその渦中にいてこの目で見聞きしているわけではないから本当のところはわからない。また、たとえ現場にいても、刑事事件でない限り、正確に黒白をつけることは難しいと思う。考え方は人それぞれである。Aさんに味方する人もいればBさんに味方する人もいるだろう。

 
私の心は、不利なほう、弱いほう、今、より多く傷ついているBさんに傾いている。強い人は自力で生きていける。しかし弱いほうの人は味方がいなければ立ち上がれないであろう。私はそちらを応援するしかない。しかしそうなると私はAさんの敵になることだ。私はもうAさんの友人ではなくなるのだ。それは、実につらく悲しい。こんなことがあるだろうか。長年の友を失うことになるのだ。一時的だろうか。いつか回復する日があるのだろうか。しかし敵と言っても憎んでいるわけではない。ゆるせないと思っているわけではない。

とにかく今は、ほんとに体調まで崩したBさんに、心を傾けたい。

 
 

 
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心の風から  板挟みの苦しみ
心の風から  板挟みの苦しみ
 
 
AさんとBさんは私にとって大切な友人である。お二人は同じ職場にいる。私とは係わる年月も、係わり方も違っているが、それぞれが私のことをよき理解者であると信じている。つまり味方だと思っている。もちろん私は遠方にいるのでその職場には全く関係がない。お二人とは長い係わりあいの間に、何度も会っているが、別々である。三人いっしょのこともあった。
 
ところが最近、仕事上のことで二人の意見がぶつかり合うようになった。双方から別々に事情を聞かされている。Aさんから聞くと、それが事実なら、問題はBさんにあると思って、そのように受け答えをする。ところがBさんの話を聞くと、問題なのはAさんだと本気で思ってしまう。なんどもそんな往復がある。その度に私の心はAさん側からBさん側に極端に大きく振れる。意見の相違は二人の立場の違いによる考え方の違いであるが私は中立でいることができない。自分の考えが両極端に揺れるたびに、自己嫌悪に陥る。こんなにもるクルクルと白から黒へ、黒から白へ簡単に変わる自分が情けないのだ。私には判断力が無いのだと落ち込んでいる。苦しくてたまらない。考えても考えても堂々巡りばかりである。
 
とはいえ、もうたくさんだ、聞きたくないと逃げる気持ちにはなれない。AさんともBさんとも今まで以上に友人でいたいし、お二人も和解し合ってよい関係になってもらいたいのである。私は双方にいいかっこしたいのだろうか。Aさんを捨ててBさんを生かせばいいのか、それともAさんを生かすためにBさんを非難し捨てればいいのだろうか。二人のどちらかに嫌われ、悪く思われても、どちらかに徹底的に味方すればいいのだろうか。ところが、それで全面解決になるとは思えないのだ。
 
私はひそかに神様のみ前に持ち出して祈っている。それしかない。神様は私の知らない部分をもすべてすっかりご存知である。一番正しい判断をされ、いちばん適切に処理してくださるだろう。神様のみもとに重荷をおろすとき、ホッと息がつける。しかしまた、Aさんから、しばらくするとBさんから、弾丸が飛んでくる。
 
主よ、早く解決してください!
 
 

 
 
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心の風から 縮こまる
心の風から 縮こまる
 
暖冬だ、暖冬だと、冬を軽く見ていたらとんでもないことになった。耳ざとい冬将軍があらゆるご自慢の武具を総動員して立ち上がってしまった。今朝の東京はマイナス2、6度とか。暖かい地方も氷点下になり雪まで降った。びっくりである。さすがに大寒である。冬将軍の前に素直に平伏するしかない。すっかり縮こまっている。
 
寒さもさりながら、最近心も縮こまっている。これは加齢による悲しい現象のようだ。いや、加齢のせいではなく私自身の問題かもしれない。往年の私なら気にもとめないような事柄だったろうに、気になり、いつまでも気になり、吹っ切れない。こんな私ではなかったのにと、気が付くまでに時間がかかる。気が付けば方向転換できるし、立ち上がれる。そんなことがちょくちょくある。心が縮こまっているのだ。自分を、ちょっと離れた位置から総合的によく観察し、判断し、修正していかねばならない。尺度は恵みによっていただいている信仰であり、みことばである。季節の刃に負けるな。自分の弱さにたじろぐな、弱いところに働かれる主を寄り頼み、喜んで凍てつく道を歩くのだ。
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心の風から 心に移りゆくよしなし事を
 心の風から 心に移りゆくよしなし事を

地球上に、我が日本のあちらこちらに、自分の暮らす小さなエリヤに、嵐のようなことから、ひそやかに降る細い雨の様なことがらや、虫についばままれて穴の開いたバラの葉に至るまで、手に余ること、手に負えること、大小さまざまな事件が次から次へと起きて、心に留めて、心を注ぎ、じっくり考える暇もないうちに流れ流れて通り過ぎていってしまう。
 
一杯のお茶を手にし、小さなスイーツを楽しみながら、現代版の「硯に向かいて」に当たるだろうか、PCに向かって「心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば〜〜〜」と、兼好法師よろしくやってみる。その結果はたしかに「あやしうこそものぐるほしけれ」である。昨今、すべてがしらじらしい。
 
出来事を見聞きしてもひところのように激しく憤慨したり、あるいは歓喜したり、突き詰めて考えたり結論を出したり、自分なりの意志表示、意思決定に至らない。これこそまさに老化現象なのだろう。これを老いるというのか。しかも情けないとも思わず、わりに悠々としている。そんな自分を自嘲しながらも、一方ではこれでいいのだと、甘やかす自分がいる。
 
最近働いている心理は、今はこうだけど、もう少し時間をかけてみよう、もう少し辛抱してみよう、時は流れ進んでいるのだから、このままで終わるわけがない、このまま固定するわけがないということである。それを私は神さまにお任せする、ゆだねる、神様の時を待ってみると位置付けている。物事が私の願っている方向に進むのかどうか、それこそ、神様のお心ひとつだと、できるだけ自分のカラーを抑えて、白紙で待ち望むことが出来ればと願っている。
 
具体的な事例を示さないままのこんな文章は、人様のお目に曝すのは申し訳ないし失礼かもしれない。しかし、「おぼしき事言はぬは腹ふくるるわざなれば、筆にまかせつつ〜〜〜」
これも兼好さんに刺激されつつなした筆のすさびといえよう。ご容赦を!

 
 
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心の風から AさんとZさんの対立のかたわらで
心の風から AさんとZさんの対立のかたわらで
 
新年早々から物騒な事件が起きている。フランスのテロではなく、ごく身辺である。そのことで悩みに悩んでいる。一人思いあぐんでいる。自分なりの見解に行きつくためにため息をついている。白か黒かで決着がつくことではない。こうした場所に書くべきではないのかもしれない。自分の心の奥深くで始末すべきなのだ。近くの人には言えない。遠くの人にも言えない。Aさん、Zさんと仮称を使っても、分かる人はわかってしまう。それでは困るのだ。
 
物事には発端がある。それは些細なことの時もある。第三者は、何だ、そんなことか、気にすることではない、聞き流して済むことだ、あるいは軽く答えればいいことだと、半分笑いながら片づけられることである。ところがAさんの一言にZさんが立腹して立ち上がってしまったのだ。Zさんは無口で冷静な人で通っている。一方Aさんはすこぶる明るい。よくしゃべる。そのおしゃべり、つまりひとことが多かったのだ。Zさんはとっさに自制がきかなかったのか、堪忍袋の緒が切れたのか、Aさんの過去のことまで持ち出して話を膨らませ、完膚なきまでにAさんを罵った。
 
Aさんは思いがけない展開に激しいショックを受けてパニックに陥った。ずっと信じて信頼してきただけにZさんの豹変ぶりに面喰い、今までのイメージが粉々に砕けてしまった。怒りが吹き出してしまった。同時に卑近距離から狙い撃ちされた人のように、心に深手を負ってしまった。私は現場にいたわけではないがその日のうちにAさんから聞かされた。Aさんは子どものように泣きじゃくった。ともかくも聞いてなだめた。しかし収まるものではない。傷口から血がしたたり落ちているようだった。この場合、Aさんは被害者、Zさんは加害者である。しかしここに至るまで、Zさんが加害者になるまでには、ある時被害者だったともいえる。
 
事件のきっかけになったことは間もなく事務的に解決した。しかし、事はちっとも解決していない。被害者のAさんの傷が治らないのだ。漏れ聞けばZさんは当然のことを熟慮の末に決行したのだと加害者意識は微塵もない。和解の握手など思いもよらない。
 
喧嘩両成敗だという人、あのAさんだからしかたがない、それにしてもZさんのやり方は問題だと、事を知った人々はそれぞれ自分の思いを言う。それらを総合して私は考え悩んでいる。なにはともあれ、道端に怪我をして血を流している人がいたら、手当てをしないで通り過ぎていいものだろうか。見てみぬふりをしていいだろうか。「よきサマリヤ人」のたとえがあるではないか。事情を詮索するのはさておき、いま、この人を医者や病院に運ぶのが先決ではないか。正しい人だから助ける、正しくないから放っておく、そんなことをイエス様は教えていないと思う。
 
イエス様は、『裸であったときに着せ、病気をしたときに見舞い、牢にいたときにたずねてくれた』、そして『これらの最も小さき者のひとりにしたのは私にしたのである』と言われた。『あなたも行って同じようにしなさい』とも言われた。今、私は、被害者のAさんに近づいている。しばらくそうするつもりでいる。
 
 
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心の風から この秋こそ願うこと 


友人提供による 

 

91日が日曜日、私たちクリスチャンにとって主日とか聖日と呼ぶ日に重なったのはなんといってもうれしい。月の初めの日に、キリストの体である教会へ行き、父なる神のもとに兄弟姉妹と呼び合う多くの友と会いまみえ、ともに礼拝をささげるのだ。これはなにも勝る喜びであり、感謝である。顧みれば、クリスチャンになって以来半世紀以上も、日曜日は教会へ行く以外には使わず、自分や身辺の一大事件で、足を阻まれることもめったになく、なんとかここまで来られた。自力の意志や努力でできることではないのは明らかだ。

 

人が何と言おうとも、私は納得している、神様の強力な愛の力が私を捕え、私を引き寄せ、離さないのだと。人は、神様に愛されていると言い切るなんてずいぶんな自惚れじゃないの、自分を何様だと思っているの、どんなに偉いことしたの、特別な才能でもあるのって、詰め寄られるかもしれない。ああ、そんなふうに羨ましがってくれる人がいたらどんなにいいだろう。その人の魂は神様に近づいていると思う。そのような人と語り合いたい。そのような人には、私の心と体の傷跡を見せながら、私の弱さ醜さに愛を注いで清め、癒し、赦してくださった神様の配慮あふれる働きを心ゆくまで証ししたい。

 

91日、神様は私の心に生き生きした聖霊の涼風を吹き込んでくださったらしい。熱く、熱くそう思う。こんな思いも生来の怠惰で臆病な私は持ち合わせていない心情である。この秋こそ、この身を大きく差し出して、神様のお働きに使っていただきたいものだ。

 

 

 
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心の風から 名作の背景から 体罰あるいは虐待、折檻
 

 読書会で新年から読み始めたディッケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』は、なんといっても読みやすいので助かる。訳がいいのだろう。そもそもはディッケンズの文章がそうなのだろうと思うが、ストーリーの面白さもあって、軽いノリでどんどん読んでいける。作者の自伝物語とも言えるそうだ。自分の半生をこだわりなく受け入れられる健康な精神状態の作者が、悲劇も喜劇もなつかしみつつ楽しみつつ思い出して書いているせいか、ついつい引き込まれてしまう。こんな風に、自分史を書いてみたいなどと、そんな視点も教えられる。

 

第一冊目の初めの部分に、幼いデイヴィッドが、継父のいわば虐待方針で、愛する母から離されて送り込まれた寄宿制の学校生活が克明に描かれている。そこには、≪凶暴な韃靼人≫のような(この言い方は差別用語ではないか)校長に鞭打たれながら勉強する恐ろしい光景がある。手でたたくのではなく、鞭でひっぱたくのである。鞭など見たこともないし、それを振り回して叩くなど想像するだけでも恐ろしいの一言である。生徒たちは容赦なく振り下ろされる鞭の下で身もだえし、真っ赤なミミズ腫れの背中の痛みをこらえ、それでも我慢しながらたくましく成長していく。

 

ふと、最近、大きな社会問題になっている学校での体罰事件を思い出した。

体罰は今に始まったことではない。時々世相の表に現れるが、昔からあったことなのだろう。程度問題もあるが。殺人に至ったり、あるいは自殺に追い込んでしまうのは言語道断である。

 

中学生の頃、担任が若い男性だった。男子がいつも殴られていた。頬をぶたれていた。教室の後ろに10人くらい立たされて、端っこから順に大きな怒声を浴びながら激しくぶたれた。年中であった。原因はなんであったか覚えていないが、恐ろしくてじっと下を向き、身を縮めて終わるのを待っていた。

 

本では、よく体罰が描かれている。昨年読んだ『ジェーン・エア』にも陰惨な体罰と虐待の場面が延々と続いていた。『レ・ミゼラブル』ではコゼットが入った修道院の生活が身震いするほど恐ろしかった。日本でもそうだったのだろう。考えてみると幼い子どもたちはみなひどい目に会ったといえる。教育者たちは体罰や虐待を第一としてはいないのはもちろんだが、教育の過程でそうなるのだろうか。教育する者とされる者、訓練する者とされる者の間には、体罰や虐待が必然的に存在するのだろうか。《愛の鞭》という言い方があるが、これはそこから生まれた言い逃れなのだろう。

 

あるとき友人の教師が話してくれた。授業していると生徒の方から物が飛んでくる。けしごむであったり、紙つぶてであったりする。嫌がらせというか教師いじめである。冷静に講義するのは並大抵のことではないと。教師が脅かさないと生徒が脅かしてくる。なんという情けないことだろう。ここにも食うか食われるかという弱肉強食の構図があるのだろうか。

 

ふと思う。作家たちは思い思いに自分の子供時代を重ね合わせながら小説を書いているのだろうが、皆、心の奥深くに傷や痛みや恨みが消えないまま残っているのだ。思い出が強烈だから書くのだろう。あるいは傷が癒えていないから書くのだろう。暴力は人の人格を蝕む恐ろしい力を持っている。単に肉体を傷つけるだけでなく、むしろ、心の傷の方が大きい。暴力が大手を振るところに愛はかけらほどもない。愛の鞭なんて詭弁だ。感情に任せた暴力の中に人を生かし育てる力があるのだろうか。

 

教育や訓練の究極的な目標はなんだろう。学問では良い成績を得ること、スポーツなどの戦いでは勝利することだけであろうか。実利だけを負う成果主義ばかりが目につく。最終ゴールは高潔な人格を形成するためではないのか。これは空想めいた理想論だろうか。傷ついた心をいやすことこそ目指すところなに、かえって傷を深くしてどうなるのだろう。試行錯誤するだけで妙案はないが、一つだけわかるのは、受ける者、与える者の双方に愛と信頼が欠けているのだ。人間には心があるのだ。弱くて強い、ちょっとした刺激で生きもするし、死んでもしまう心があるのだ。考えはどこまで行っても止まらない。脱線したかもしれない。

 

 

また考えます。今は、教師側も生徒側も、お互いを尊重する同じ強さの愛と信頼で結ばれるように祈り願うのみである。

 

 

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