人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

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日々の新風から 老女が歩けば・・・

日々の新風から 老女が歩けば・・・

 

 

コロナの変異種オミクロン株があっという間に全世界のコロナ地図を塗り替えてしまった。小池都知事が言うように、先ごろの東京の雪景色のようだ。瞬く間に東京は真っ白な雪のロングドレスに着替えたものだ。雪はまもなく跡形もなく消えたが、コロナはそうはいかない。今のところだれもかれもが唖然としているだけ。

 

幸い、3回目のワクチン接種の案内が来たので、早く予約が取れるように頑張ろうと思っている。人と会うことと乗り物に乗って出かけることは極力避けることに徹する。以前のように。

 

感染予防の初心に戻って、また、一人歩きを続けている。犬も歩けば・・・・何とやらであるが、老女が歩くと、うれしい事に出会う。

 

まだところどころにある雪の残りに気を付けながらスローで歩いていたら、すれ違いざまにお互いに気が付いた。「〇〇さん!」、「まあ、☆☆さんね!」。呼び合った。散歩の人しか歩かない道だった。

 

彼女は友達と呼ぶにはだいぶ遠い人である。知人と言ったらいいのだろうか。あるきっかけで知り合いになったが、交流はない。偶然に道で出くわしたらおしゃべりをする淡雪のような繋がりである。

 

意外なところで出会ったのでお互いにびっくりし、喜び合った。散歩談議に熱が入った。散歩の途中での長話である。歩数やら時間やらコースなど、話は尽きない。彼女は近くのマンションに悠々自適の一人暮らしである。いっそ二人で歩きながら話せばいいようなものだが、私にはその気はないしたぶん先方もだろう。また、どこかでお会いするでしょうねと、言い交わして別れた。老女が歩けば、心弾むドラマに当たる。

 

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日々の風から ゆく年・2021年を愛惜して

日々の風から ゆく年・2021年を愛惜して

 

今年も最後の日を迎えた。感謝なことに東京は今のところ穏やかに晴れている。風も強くない。家の周辺や道路は掃除が行き届き枯れ葉もない。車の音もまれである。コロナのせいもあるのか、時がゆっくりと流れている。家々はそれなりにおせちの準備に忙しくしているのだろう。大みそかはやはり特別な日だ。

 

今年は12月なって友人知人から「喪中はがき」が多く届いた。ああこの友も、あの知人も大切な方を喪ったのだと改めて思い返した。ふと、年末のあいさつカードを作ろうと思い立ち、喪中でない人も含めてラインなどで発信してみた。カードの背景は、よく歩いた近所の風景のスマホ写真である。添えたのはごくごくショートな一文である。それでも意外に多くの方々から返信をいただいた。一年の恵みを振り返るときになったと喜ばれ、お互いに年末感謝のあいさつを交わしたことである。今年最後のブログ「希望の風」は、カードの言葉を載せてクローズにしたい。

 

新型コロナウイルスによる、

パンデミックに翻弄された2021年が、

まもなく大晦日を迎えます。

 

この年の気持ちを推察するに、

災いしか運べなかったことを悔い、

悲しみにくれているに違いありません。

一刻も早く2022年にバトンを

手渡したいのではないでしょうか。

 

021年よ、さようなら!!

厳しい一年だったけど、毎日必ず朝が来て、

星の輝く夜があり、

時のリズムが希望でした。

 

電車にもバスにも乗れなかった日、

一人で歩くかたわらに、

主がより添ってくださいました。

 

 

 

2022年は、コロナに振り回されずに、コロナで学んだ新しい生き方を断固実践して、試練によって鍛えられた者にふさわしい「平安な義の実」を結びたいと願う。

 

来る年も、主ゆるしたまわば、ぼちぼちと、ますます歩みはSlowになりますが、書き続けたいと、祈っていきます。皆さまお一人一人が、いつまでも残る信仰、希望、愛に満たされますように。アーメン!

 

 

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日々の風から 母はせつない

日々の風から 母はせつない

 

 

友人は90歳に近い母上と長い間二人で暮らしてきた。母上は、ここ数年はほとんど寝たきりで友人が24時間介護をしてきた。はたで見ていてもハラハラするほど友人の負担は大きかった。母上がなぜ公的支援を避けてきたのかはっきりした理由はわからない。

 

今年の夏、ついに友人が過労で倒れ、入院してしまった。さあ、たいへん。母上はひとまずすぐに施設に入居した。親子は急に離れ離れになってしまった。友人はコロナ鬱もあるのか、入院が長引いた。施設の母上とは当然ながら会えない。母上は携帯もうまく使えず、娘との連絡は不通になってしまった。お二人ともどんなにもどかしく悲しかったろうか。もっとも施設を通して多少の様子はわかったであろうが。

 

数日前、友人から、母が倒れて救急で運ばれたのでこれから病院に行きます、意識が混濁しているそうです、お祈りくださいと一報があった。詳細は一切わからない。ご高齢だし、このまま入院になるだろうと思っていたが、半日ほど経ってから、「母は、生き返り、施設に戻りました」と連絡が来た。生き返った??それはすばらしいが、どういうことかと不審だった。

 

後で聞けば、救急車の中から心臓マッサージを受け、病院でも必死のマッサージがあり、息吹き返し意識が戻ったそうだ。「母は昼食を食べ、洗面をして何事もなかったように施設にいます」だそうである。そういうこともあるのかと安堵した事である。

 

友人がさらに語る。「母は、この度のことは、あなたに会えるように、神様がしてくださったのよと言うのです」と。胸が詰まってしまった。母上はずっと娘に会いたかったのだ。コロナもあるし、娘は入院しているし、普通では絶対に会えない。でも、会いたい、会いたいと切に祈っていたのだろう。死んでもいいから一目会いたいと思っていたのだろう。母上の思いが切々と伝わってくる。子どもを持つ親なら誰だってそうではないか。私にもよく分かる。

 

クリスマスと年末年始にこの母と娘がまた会えるとはまだ聞いていない。おそらく別々であろう。しかしつかの間でも会えてよかった。そして、そう遠くない日にまたともに暮らせる日が来るだろう。そう信じている。

 

 

 

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日々の風から メリークリスマス!

日々の風から メリークリスマス!

 

 

19日の日曜日にはおおかたの教会では「メリークリスマス!」とあいさつを交わしながら礼拝を捧げる。コロナ禍だから歓声はあげられないが、正真正銘のクリスマス礼拝である。

まだまだ人数制限の分散礼拝の教会があり、オンライン礼拝の教会もある。昨年もそうだった。2年続いてイレギュラーである。聖歌隊の賛美もない。それどころか、会衆賛美も我が教会ではマスクのままハミングするだけ。それも一番のみ。こんなことは私の信仰生涯ではなかったことだ。礼拝に続く祝会がないのも経験がない。恒例のケーキもローストチキンもない。

 

礼拝だけのクリスマス・・・。思えばこのSimpleがすばらしい。これでいいのだ、これもいいのだ。そう思って感謝している。主のなさることは「時にかなって」美しいのだ。

 

主イエス様がベツレヘムの家畜小屋で産声をあげられた時は、家畜のほかに母マリヤとヨセフの二人だけだった。最初のクリスマスはわずか二人だけだった。それからしばらくして数人の羊飼いが駆けつけてきた。聖書には「今日」とあるから、確かにイエス様降誕の直後だったのだろう。羊飼いたちは野原で羊たちと野宿していたところだった。そのままの姿で町に駆け付けたのだ。ケーキもローストチキンも持って行かなかった。仕事着のまま、とにかく救い主誕生の現場に走ったのだ。これがクリスマスの原風景である。原点を見据えることは大事ではないだろうか。そこには物事の本質がある。

 

これから礼拝に行きます。Simpleな礼拝に。

多少の正装をしています。特別な日ですから。

しかし、心の襟をただすこと、

心に感謝の衣をまとうことは忘れません。

 

いそぎゆきて おがまずや!

いそぎゆきて おがまずや!

 

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日々の風から 老女も走る師走

日々の風から 老女も走る師走

 

 

まだコロナ禍が完全に終わったわけではないのに、いつ大波が襲ってくるかわからないのに、

世の中の空気の流れがひところとは大きく変わって、せわしくあわただしい。老女ものんびりとうたたねしてはいられない。いつの間にか巻き込まれている。寝ぼけ眼で起き出して、もつれそうな足元をかばいながら、いつの間にか走り出している。師走は老女にまでスピードを要求する。

 

数日泊り客があって右往左往した。2年ぶりとあっては歓待せざるを得ない。いえいえ、とても楽しかったし、直接に会うことの素晴らしさを心ゆくまで味わった。しばらくぶりで東京駅まで出かけて新幹線を見送った。少しばかり寒い地方に向かう列車であった。

 

長年係わっている小さな「組織」のニュースターを記事集めから編集、印刷、発送まで、仲間と一緒に進め、一段落した。今は会わなくてもできる。ネット上のクラウドを使ってやり取りしながら編集できるのは便利この上ない。意見交換や連絡はライン上のグループをフル回転させる。時間短縮に、効果抜群である。そうなのだが、気がつけば12月も早や半ばに差し掛かる。

 

 

教会堂のアドベントクランツに三本のキャンドルが燃えている。穏やかな炎が心を和ませてくれる。来週は4本目も点火されて、いよいよクリスマス礼拝である。まだ賛美もハミングのみ、3部に分けた礼拝が続く。ケーキもローストチキンもないクリスマスだが、こんな時だからだろうか、飼い葉おけに眠る赤子のイエスさまが鮮やかである。

 

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日々の風から スケジュール帳はいらない

日々の風から スケジュール帳はいらない

 

 

今年も最後の月を迎えた。

どんなにコロナ禍で世界中が右往左往しようが、月日の足は微塵も乱れない。

人が早く感じようと遅く感じようと超然と時は進んでいく。

その堅牢さが何とも頼もしい。

ときには「時」に無情を感ずることもあるが、

それはこちらの勝手というものなのだろう。

 

「時」は「神の時」の中にある。

「神の時」はすべてうるわしい。

その確信さえあれば

古い言い回しだが、光陰矢の如しであっても

茫然とするとはない。「矢」とともに飛んでいけばよい。

うるわしい「神の時」を楽しめるかもしれない。

 

 

12月はカレンダーや手帳を用意する時期でもある。昨年はスケジュール帳がほとんど空欄であった。もう私には要らないのではないか、わざわざノートに書き込まなくても、小さなメモを目の前のボードに貼り付けておけばそれで事足りると思う。

 

ちなみに、私にはスマホやPCで管理する習慣はない。ずっとノートを使ってきた。これからもそうするつもりでいる。しかし、コロナが終わっても、かつてのように空欄のない日はないほどの活動はないだろうし、あえてしないつもりでいる。さて、2022年はどうしましょうか。カレンダーは用意するけど、スケジュール帳は不要かもしれない。

 

人生活動縮小で寂しくないか・・・

そうね、とも、いいえとも言いかねる。

思えば、この2年間のコロナ禍が、新しい生き方を示してくれた。それに従っているうちに、新しい生活スタイルが生まれ育った。それに慣れてきている。快適!と言えるほどに。

「今日一日のこの時」もうるわしい「神の時」に支配されているのだから、喜び感謝以外にない。明日を委ねながら。願わくは平和に満ちたクリスマスを迎えたい。

 

 

 

 

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日々の風から 二年ぶりの新幹線

日々の風から 二年ぶりの新幹線

 

 

コロナ禍が予想外に感染の火を小さくしているので思い切って少し遠方に出かけた。振り返れば新幹線は2年ぶりである。遠方と言っても乗車時間がわずか1時間ほどである。この2年間は新幹線どころか、近くの電車にもバスにもめったに乗らなかった。忠実に感染予防対策に励んできたのだ。

 

「今が動き時よ」、「今のうちね」とあちらこちらから聞こえてくる。決して物見遊山ではない。ずっと会えなかった親やきょうだい、親類、弱っている老友人たちへの訪問である。私の旅もその類である。施設もガラス越しに10分ほどリアルに会えるようになり、伯母に会えた、義兄に会えたと友ら知らせてきた。

 

2年ぶりの一人旅に多少の不安がちらついたのはコロナのせいかフレイル現象だろうか。しかし旅感覚は衰えてはいなかった。安心した。自粛の二年間、一人歩きを続けているせいか、足腰が軽い。体がよく動く。内心、ちょっと顔がほころんだ。継続は力なりとは至言だなあ、これからもできる限り励もうと新たなる決意をしたことである。

 

驚いたのは、新幹線がまるで空っぽで走っていることだ。自分の列車が来るまでに数本の往来を見ていたが、一両に数名、あるいはまったく無乗客のままの車両さえあった。こんな光景は今までになかった。これでは会社の経営も並大抵ではない、コロナの被害は至るところで予想をはるかに超えて大きいのだろうと肌身で感じた。

 

多方面で門、扉、入り口が開き始めている。リアルでの対面、活動が増え始めている。うれしいことだが、過ぎたるは及ばざるがごとし、ではないが、これが次のコロナ感染拡大の要因にならないようにと切に祈る。平和の中でクリスマスを迎えたいし、年を越して新年に向かっていきたい。

 

 

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日々の風から 環境への適応と順応

日々の風から 環境への適応と順応

 

 

 

新しいことを始めるには高い厚い壁を乗り越えなければならない。長く慣れ親しんだ習慣はそのひとつさえも変えるのは難しい。体に染みつき無意識に手足が動くようなことはなかなか変えられないものだ。健康に悪いと知りながらもやめられず「生活習慣病」を患うようになってもよほどの決意がないと抜け出せない。環境順応力は手ごわいものだ。

 

コロナの脅威が全世界を襲って以来、専門家たちの研究により、防衛のための戦略が練られ、私たちにも伝えられ要請され、ほとんど強制されたことがいくつもある。初めは耳新しかった「三密回避」は今も続いているが、その最たるものだろう。私たちはマスクをしてそのシェルターにもぐりこんだ。ソーシャルディスタンス、換気が呼びかけられ、スーパーのレジを待つ足元にテープが張られ、お店のドアーも開けたままになった。買い物に行く回数さえ減らした。家の周辺しか行かなくなった。いくつかの集いは休会、友達とも会わず、会食は家族の間でも気を付けた。

 

ところがこの2年間でその生活に慣れてしまった。初めは「適応」するために頑張ったが、今やすっかり「順応」してしまった。当たり前になり体の一部になっている。だが「順応力」に新しい課題が出てきた。特に高齢者であるが、いわゆる「フレイル現象」が加速している。

 

高齢者は自然現象で身体機能、知能が衰えていく。コロナによって外出などが制限されている間にそれはスピードを上げる。「巣籠り生活」があたり前になってしまう。それに伴って身体機能や認知機能がさらに低下する。悪循環と言えよう。果たしてこれでいいのだろうか。

 

人間に備わっている適応力、順応力について考えさせられている。年齢に係わらず、人はその環境に適応しようとする。抗ってばかりしたら苦しくてたまらないから、意識して受け入れる。大方の人は、突然の病や貧困、戦禍にさえ耐えていけるようなる。過去、そうしてきた。そのうち、諾々と順応していくようになる。人間の弱さだろうか強さだろうか、わからない。

 

今現在、私の友人知人はコロナ禍での新しい生活スタイルにすっかり順応している。この2年のあいだに加齢にも拠るが、もうコロナ以前には戻れないのだ。弱くなった自分を受け入れ、静かで穏やかな日々を楽しんでいる。もちろんそこには「適応力」、「順応力」のほかに「信仰力」が大きいのだが。「嘆きを踊りに」変える神への信仰によって、どんな境遇にも対処する秘訣を心得ているからだ。

 

騒がれたコロナ禍第5波が急速に退いている。その理由をかの専門家たちがわからないというのだから、なにをかいわんや・・・である。ともかくもこのひとときは感謝である。やがて必ず「アフターコロナ」がやってくる。その時、私たちには再び新しい環境への「適応力」と「順応力」が必要になる。生き方の姿勢と行動が問われてくる。神様から恵みの詰め込まれた「信仰力」をいただいて、柔軟に知恵深く「取捨選択」し、「優先順位」をきっぱりとつけて主の新しい世界へ向かっていきたい。

 

『見よ、私は新しいことを行う。

今、それが芽生えている』

イザヤ43章19節

 

 

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日々の風から 1年10か月ぶりの再開

日々の風から 1年10か月ぶりの再開

 

 

コロナ禍第5波がほとんど無風に近く凪いできたので、この約2年間、しぶしぶではあったが断念してきた活動の扉を開けた。いつもの場所のいつもの会場に入ると、つい先月も来たような気分になり、いつものように机を出し椅子を並べるなど、考える前から体が自動的に動き出すのには自分ながら驚いた。さすがに参加者はいつもの半分にも及ばなかったが、コロナ戦場からの凱旋兵士のような頼もしさを感じた。2年間の空白は瞬く間に金色の光で埋められ、希望のキック・オフになった。

 

実際には皆さんじっと忍耐の自粛暮らしをしていたのだが、ストレスやフレイルやうつ症状も見えず、お元気であった。ふと、この2年間は半強制的ではあったが、静養の時だったのではないかと思ってしまった。思えばコロナ以前は、ほとんど習慣的になっていた活動がかなりあった。それはそれで有益だったが無くても済むこともあった。自分を振り返ると思い当たることが多々ある。

 

会では、それぞれがこの2年間の生活の様子や心情を分かち合った。所属教会の活動の様子も紹介された。リアルな礼拝を貫き通した教会もあれば、オンラインを使う教会もあり、実情がよく分かって参考になった。共通していることは、食事会など交わりの場は中止したことだった。総じて、確かに教会員の交わりは大いに不足してしまった。コロナが収まればじきに充足されるだろうが。

 

この日の集いはあらかじめ飲食はしないことを申し合わせていた。いつもなら会の途中にブレイクがあり茶菓を楽しんだことだ。終了後は場所を変えてさらに歓談していたが、それもやめて、いっさんに駅に向かった。それもすっきりしていてよかった。

 

それぞれが、原稿提出の課題を背負って帰途に就いたが、決して重荷にはならないと信じる。会ったことで、語り合ったことで、喜びと感謝と新しい活力が課題の重さを軽くしてなお余りあるお土産になったと思う。

 

『見よ、兄弟が共に座っている。

なんという恵み、なんという喜び』

詩篇133篇1節

 

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日々の風から 今年もあと2か月

日々の風から 今年もあと2か月

 

 

 

10月下旬から11月に入った日までのわずか数日に、大きな箱もはみ出し破けそうなほどたくさんの出来事があった。日本中の目がいっせいに凝視したに違いない。

 

その最大の一つは、コロナ感染者数が面白いように減っていることだ。この数字の裏に何があるのか知らないが、約2年間は毎日毎日この数字の増減に一喜一憂してきたのだ。数字はダイレクトに一人一人の生活を襲う鋭い刃になった。生活の原点である仕事を直撃し、会社へ行けなくなり、倒産する会社があり、解雇される人があり、食うや食わずの生活へ突き落された人もいた。感染して亡くなったり重い後遺症に悩む人はいまだに多い。世界中が闇の中に投げ込まれ今も継続中である。しかし、東京ではその5回目の大波が退いて1年5か月ぶりにあの魔の数字が一けたになったのだ。ビッグニュースではないか。

 

大きなニュースの2つ目は、数年間、メディアの標的になって苦しんできた真子さんがついに結婚されたことだ。ゴールにたどり着いたことでニュース性もなくなり、メディアも矛先収めるといいとつくづく思う。市井の人として平凡な人生を歩まれることを願う。

 

もう一つは衆議院議員の選挙があった。国としては最大の出来事であろう。私たち国民にとっても責任ある応答をするべき重大なことだ。間接的ではあっても国政に参与する数少ないチャンスなのだ。と言っても、申し訳ないが勇んで選べる政党も候補者も見当たらす、ほとほと困ってしまった。棄権したいとさえ思ったが、この一票が与えられていることに思いを馳せながら投票所へと向かったことであった。

 

こうして今年もあと2か月になった。100年に一度の大禍の中をよくぞ今日まで無事に生きてこられたと深く思う。さらに昨今は高齢のせいだろうか、一日が大きな未知の旅路だと思えるのだ。今日はいったいどんな日になるのだろうかと、ワクワクと胸のときめく日もあるが、不安が横切る日もある。朝一番に、神に祈りを捧げずにはいられない。主の愛が私を取り囲んでいることを知らされ教えられてようやく立ち上がるのだ。不思議に、キッチンへ向かう足はしっかりし、心は弾んでいる。

 

今年もあと2か月!未知の旅路を突き進んで行きたい。

 

ヨシュアは年を重ねて老人になっていた。主は彼に告げられた。

「あなたは年を重ねて老人になった。

しかし占領すべき地は非常にたくさん残っている」

ヨシュア記13章1節

 

 

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