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2018.05.21 Monday

日々の風から 五月晴れと呼べる日はわずか

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    今日のお天気は理想的な五月晴れではないだろうか。日差しは強くまともに浴びるのは怖い。帽子か、それより日傘がいい。しかし吹く風は正に薫風、緑の下では緑風と呼びたい。速足で長く歩けば汗ばむが不快なほどではない。空は真っ青である。湿度はどれほどであろうか。からりとしている。遠出はできなかったが、家の周辺を3度も廻った。もったいなくて日暮れ前にもう一度近くの公園を巡った。こんな日はめったにない。それに、5月も下旬に入った。五月晴れと名づけられる日は幾日あるあろうか。この日を喜び感謝せずにはいられない。

     

     

     

    昨日は教会ではペンテコステ礼拝が行われた。「ペンテコステ」とはギリシャ語で50と言う意味である。主の復活の日から50日目、12弟子、女性たちを始め120人ほどのイエス様の弟子たちが祈っていた。そこへ突然に激しい風が吹き響き渡って聖霊が下った。聖霊は三位一体の一位格の神様で、いわばイエス様であり父なる神様でもある。

     

    礼拝の説教は、聖霊が下ったすぐ後に、ペテロの説教によって3000人もの人が救われた

    大きなみわざを記す聖書記事から、現在の教会がこのペンテコステの祝福のみわざを得るための備えについて語られた。第一は、心を一つにして祈ること。第二は聖書を重んずること、第三は神に従順にしたがう献身が必要であること。

     

    三つの教えはいわば信仰生活、クリスチャンの基本である。だれでも祈っている、聖書を読んでいる、神に従う思いは強く抱いている。しかし、どこかで不徹底であり、自己流が混じっている。一人では祈るが、親子、夫婦、特に教会で大勢が一致して祈ることは足りないかもしれない。祈祷会が振るわない。聖書は片時も離さない、しかしみことばを100%信じているかと問われれば、理屈や言い訳が入る。神に従い神に捧げることもしているが、全き献身ではない。自分のご都合が入る。ああ、こんな基本ができていないのだ。伝道しにくい世の中になったのではないのだ。私一人の態度がいい加減なのだ。これではペンテコステの礼拝に集っても形式にすぎない。この日の説教で、深いところを探られ抉られた思いである。

     

     


    2018.05.14 Monday

    旅の風から 新緑の森にたぬき出没

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      近年十年余り、八ヶ岳南麓に移住した知人宅を訪れる特権に与かっている。春も夏も秋もそして冬もいい。いつでも来てと言われるとすぐその気になるが、頻繁に行けるものではない。年に一、二度がせいぜいである。今年は桜を観にぜひ行きたいと思っていたが逃してしまった。そこで新緑こそと思い、急きょ出かけた。すでに緑一色であった。

       

      知人も年々年を重ね、運転も遠出は無理。それでもサービスしてくれて、当日は白州方面へ走り、甲州街道を少し辿った。かつての面影が残っていて風情ある道だった。翌日は八ヶ岳を見ながら清里方面へ走った。ちょうど数日来ぐずついていたお天気が回復し、いつもの山々が勇ましい姿を見せてくれた。まだ深々と雪帽子をかぶった富士山、残雪を縦じま模様にした南アルプスの山波、そして八ヶ岳連峰が重なり合って聳えていた。

       

      午後まだまだ日が明るい頃、家の西側の窓から森を眺めていたら、すぐ近くになんとたぬき悠々と歩いていた。知人もびっくり。狐はよく見かけるけどたぬきは初めてとか。私たちに気が付いたのか振り返ってじっとこちらを見るのだ。目が合ってしまった。丸い目であった。こちらの目も彼に劣らず大きく丸かったに違いない。すぐにのっそりと奥に去った。私たちは思わず笑い転げた。しかし、もし、外でじかに出会ったらどうしただろう。まず恐ろしい。恐ろしさのあまり逃げただろうか、追いかける習性があったらどうするのか。あちらが逃げてくれれば一番いいけれど。とにかく今回は窓越しだったので助かった。こんなことは都会では想像もできないことである。

       

      たぬき事件は今回のトピックである。いいお土産話ができた。次回はいつ来られるだろうかと早くも胸算用しながら「あずさ」号に乗った。ところがこれが新型の「あずさ」。すばらしい車両だった。お土産話がもう一つ増えました。

       

       

       

       


      2018.05.06 Sunday

      書林の風から 『百代の過客<続>』ドナルド・キーン 金関寿夫訳 講談社学術文庫

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        GWは去った。風とともに去りぬ、ではなくて、五月の薫風を残して去った。その風を楽しんでいる。風は本のページをめくってくれた。少し前に紹介した800ページ近く、厚さ3.3僂傍擇峙霏腓癖幻頬椶任△襦いくら読んでもまだまだ半分もいかない。速読できないこともある。副題は【日記にみる日本人】である。作者の視点のユニークさ、鋭さに驚く。確かに日本には「日記文学」と呼ぶジャンルがある。他の国の事は知らないし、日本の日記文学についても知ることは少ない。ただ、平安時代に紀貫之を始め多くの文人たちが日記を書き、それが今に至るまで残っており、学校でもそのさわりを学んだ覚えがある。

         

        しかし、作者のキーン氏は全く違う見方で多くの日記を紹介している。名前を一度も聞いたことのない人たちの日記、それも文学ではない日記を丹念に読み込んでいる。途方もない作業である。日本文化の研究家とは言え、外国の方だと思うだけでただただ驚くばかりである。この膨大な本を、たとえエッセンスだけでもまとめたいと思えども、難業である。

         

        しかし、この本にはぜひ挑戦してほしいと願う思いでいっぱいである。キーン氏は、日本人には日記をつける習慣が強い位置を占めているという。そういえば私なども小さい時から日記を付けてきた。一年の初めに日記帳を買った。「三日坊主」などと嫌味なことわざは日記の事でよく使われた。

         

        とりあえず目次を紹介する。簡単なコメントを付けてみた。

         

        *遣米使日記・作者は村垣淡路守範正・日米修好通商条約を批准するため万延元年(1860年)にアメリカへ派遣された使節団の副使として渡米。その旅日記である。

        *奉使米利堅紀行・作者は幕府の軍艦奉行、木村摂津守喜毅・有名な咸臨丸に乗り込む。艦長は勝海舟だが、勝は日本を出る前から発熱し、航海中もずっと船酔いのため自分の船室を出ることはほとんどなく、艦長としてはあまり役に立たなかったそうである。 

        *西航記・作者は福沢諭吉・幕府が派遣する。ヨーロッパの各国へ。

        *尾蠅(びよう)欧行漫録・作者は市川渡・先の福沢諭吉らの使節団の副使の従者・自分は馬のしっぽにくっついた蠅ほどのものであると卑下している。諭吉とは違う視点で見て書いている。使節団員中、物事を一番しっかり観察した人。

        *仏英行・作者は幕府の官僚柴田剛中・幕府が派遣した第四回使節団。横須賀に建てる製鉄所の建設準備のためにフランスとイギリスを訪問する。

        *航西日記・作者は渋沢栄一・幕府の公式使節団6つの内の最後。フランス政府の要請によって慶応3年(1867年)送られた。時にパリで万国博が開かれていた。団長は将軍慶喜の弟徳川昭武、30人の幕吏で組織された。渋沢は財政方面で注目されていた。

        *米欧回覧実記・作者は久米邦武、使節団の正式書記官として任命。明治政府がアメリカとヨーロッパへ初めて派遣した使節団。大使岩倉具視率いる48人。副使として木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など明治政府の重要高官が加わる。それぞれの国へ散るたくさんの留学生とともにアメリカの飛脚船アメリカ号に搭乗する。

        *航西日乗・作者は成島柳北・明治4年、東本願寺現如上人のヨーロッパ旅行に随行。幕府官僚の子。西洋に通じていたことから外国奉行に任命されるが明治の代になってすぐに職を辞す。二君に仕えるのを拒否したからである。当時の他の日記にはない洗練された文学的な文体。書くのが楽しいから書き、人を楽しませるために書いた。

         

        以下なお23の日記が続く。中には漱石日記、新島襄日記、一葉日記、津田梅子日記、子規日記、啄木日記などなども収録されている。初めの方の日記で、あの幕末の動乱期の中で、幕府がアメリカにヨーロッパに、6回も公式使節団を派遣しているのを知ったことは大きな驚きであった。幕府は自分たちの世が続くことだけに汲汲としていたと思っていたが、大きな認識不足であった。歴史観が間違っていたのかもしれない。今後この本についてここで触れることはないだろうが、じっくり読んでいきたい。

         


        2018.05.02 Wednesday

        日々の風から さすがGW

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           じっと考えるに、関東あたりのことだが、5月、GWに入るころようやく心地よい気候になるのだ。毎年の事ながら、なかなかそれが待てない。今日は寒い、今日は暑すぎるなどと一日一日、その日の気温や雲行きに神経を尖らせる。しかし、ここにきて、ああ、今が一年で一番うるわしい季節なのだと顔をほころばせている。

           

          第一に、暖房も冷房もいらない。戸を開けると室温よりちょっとひんやりした風が入ってくる。カーテンの裾がそっと揺れているのでそれがわかる。おもわずにやりとしてしまう。

          水道水も気持ちがよい。お湯にしたり手袋を使うこともない。素手に触れる水がいとしくなるほどだ。体がシャンとしてくる。掃除がしたくなる。ウエットシートのモップ掛けなどまどろっこしい。水拭きがいい。這いずり回って床を拭く。体が動くから不思議である。

           

          朝一番で知人から野菜一箱が届いた。ゆでたてのタケノコがびっしり入っている。すぐに食べられる。新玉ねぎ、葉っぱ食べられますとのメモがあって、セロリが丸ごと。柔らかいパセリなどなど。家庭菜園どころか市場に出荷できるほどの年季がしのばれる。五月の薫風と新鮮なお野菜で、冬の間に体中にこびりついた不要物を追い出したい。

           


          2018.04.27 Friday

          世相の風から 北朝鮮と韓国、南北両首脳会談

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            つい先ごろまで、ミサイルを発射し続けて世界を脅かしていた北朝鮮、ならず者国家と言われて世界から恐れられ嫌われていたリーダーが、今日は何と韓国の首相と今まで見たこともないような笑顔で握手し手をつなぎ、ハグしあっている。この変わり方は何か。世界中がいろいろに批評しているが、私は映像を見ているだけの野次馬だが、ミサイルを打ち上げるより、笑顔で握手する方が見ていて心地よかった。この先の事は分からず、お芝居かもしれないが、仲良くしようとする姿は歓迎したい。一つの民族が一つになれる日を期待したい。

             


            2018.04.20 Friday

            日々の風から 招かざる客長逗留・春の長患い

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              かれこれ1か月も前だが、昼夜を問わす胃とお腹がキリキリと痛み出した。近所のかかりつけ医のていねいな診察によれば「胃腸炎」とのこと。確かに胃と腸に異常があるのだと納得した。何種類かの薬が出された。そのうちに首から喉が痛み出し咳もひどい。また医院に飛び込んだ。普通の風邪でしょうと、またまた薬が出た。

               

              食べ物の制限もあり、それ以前に食欲がない。薬が三度の食事のような時もあり、口が苦くてますます食欲が出ない。大した熱も出ず、寝込むようなことはなかったが、不要不急の外出は控えて、ひたすら蟄居の日々が続いた。家に居るのだから思う存分書き物や読書に集中できていいはずなのに、なんと、その元気ない。PCの前でぼーっとし、時にサーフィンして無為な時が過ぎて行った。

               

              出された漢方薬が合わない。いままで漢方には漠然と安心感を持っていたのでびっくりし、また来ましたと恐る恐る医者の前に座った。医師は別の漢方を処方された。こんどこそと、意気込んで服用した。前回と似た症状が出たが、慣れるだろうと数回我慢して使った。しかしついに放り投げた。ついでに数日間、一切の薬断ちをした。

               

              回復期にも入っていたのだと思うが、口の苦さが消え、食べ物がおいしくなった。この1か月、ろくなものを食べないできた。好きなコーヒーもチョコレートも和菓子も見向きも出来なかった。前代未聞の体重にショックを受けたが、今はガツガツと食べ始めていて、我ながらおかしい。

               

              神さまが私に託されている命はいつまでなのか、知るよすがもないし、知る必要もない。しかし、元気になると、いただいた命をいかに使うか、つまり「使命」への熱い思いが戻ってくる。いのちの主のお導きに従って、今日一日を精一杯生きたい。

               

               

               

               

               

               


              2018.04.14 Saturday

              書林の風から 堀田善衛著『スペイン断章』からドナルト・キーン著『百代の過客・続』まで。

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                書林の風から 堀田善衛著『スペイン断章』からドナルド・キーン著『百代の過客・続』まで。

                 

                2017年1月から堀田善衛著『スペイン断章』から始まった新しい読書は、今までの文学街道と並行して新しく歴史街道を増設してくれることになった。私の読書街道は複線化したと言える。堀田氏の『ゴヤ』や『ミシェル・城館の人』などを心楽しく読んでいった。

                 

                そこから私はダイレクトに西ヨーロッパの一つ一つの国の歴史を読みだした。スペインを始め、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、オランダへと進んだ。河出書房新社の「ふくろうの本」シリースは教科書のようだ。作家の私感が色濃く入らず、その国の歴史が整理された。

                 

                堀田氏の「歴史は読むものではなく見るもの」との至言に一時は大いに納得したものの、至言の先に光る針の痛みを胸に感じる中で、ついに見に行けない現実もあるのよと開き直り、もっぱらペーパー上の歴史を楽しんだ。イタリアでは、好きなフィレンツェで足踏み、個性派の塩野七生の『わが友マキャベリ』、若桑みどりの『フィレンツェ』に再び捕まってしまった。これらは講談社学術文庫にある。

                 

                ヨーロッパはもういい〜〜〜そんな思いになったのは、スペインを始め、あのオランダまでもが、世界に進出して行って、アジア、アフリカ、南アメリカで残虐の限りを尽くした事実をいっぺんにまとめて知った時からである。もちろんその前に、自国内や隣国にも同じことをした。今、観光地として世界中の人たちを呼び集めている栄光に輝く都市や建造物の一つ一つは、凄惨な陰謀、殺戮、略奪 凌辱、侵略、戦争の結果ではないか。これはもちろんヨーロッパだけでなく、世界で大国と呼ばれる国々一つ一つに言えることである。日本の国も遅ればせながら悪行を重ねた。私は世界の歴史にげんなり、うんざりしたのである。これは堀田氏のいう「歴史は読むものではない」のことばを軽んじたからか。私の論は正に机上の空論なのかもしれない。

                 

                講談社学術文庫を書棚に戻すにあたって、最後尾の案内の部分を見ていた。次は何を読もうか。目に留まったのが、ドナルド・キーン著『百代の過客・続』。幕末から維新を経て、幕を開けた近代日本の、日本人を取り扱っている。私は、日本に帰ってきたのである。しばらく落ち着いて本の中へと旅してみる。

                 

                今日の聖書通読から(4/16)

                伝道者の書11章1節

                あなたのパンを水の上に投げよ。

                ずっと後の日になって

                あなたはそれを見出す。

                 

                ローズンゲン4/16

                人の歩む道は御目の前にある。

                箴言5・21

                 

                わたしは良い羊飼いである。

                私は自分の羊を知っており、

                羊もわたしを知っている。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                 


                2018.04.11 Wednesday

                日々の風から 日々の風は待ったなし

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                  数日、所用で留守しました。

                  帰宅して、いざPCの前に座ったら、

                  ネットワーク不具合!

                  あたふたし、

                  結局、すっかり間が空いてしましました。

                  お詫びして、明日に繋げたいと思います。

                   

                   

                  ローズンゲン 4/11

                   

                  主よ、誰があなたのような威力を持つでしょう。

                  主よ、あなたの真実は、

                  あなたを取り囲んでいます。

                  詩・89/9

                   

                   


                  2018.04.03 Tuesday

                  日々の風から 4月1日イースターは62年ぶり!

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                    4月1日がイースターとは、とても新鮮に思える。はっきりしていてさわやかである。しかし、過去、年度の始まりのこの日がイースターだった日はいつだったろうか、いままであまり意識しないでいたが、ふと、考え込んでしまった。記憶にもない。そこで、天下の宝刀をつかって調べてみると、なんと前回は1956年なのだ。じつに62年ぶりである。ついでながら次回は2029年である。どうしてこうなるのか省くことにするが、れっきとした理由が存在する。

                     

                    今年のイースターがとても貴重に思える。年度の始まりの日が、イエス・キリストが復活された大いなる記念の日とは、私にはたいへん意味がある。イエス様が死にまで勝利して立ちあがり、その復活のいのちで今も生きて働いておられることを思うと、大いに励まされ体の底から力が出てくる。特に今年度、そして1日のイースターに期待していた。そのとおり、うれしい日になった。それが62年ぶりの4月1日イースターであったとは!不思議な感動で揺さぶられている。

                     

                     

                     


                    2018.03.30 Friday

                    日々の風から キリストが十字架にかけられた日(受難日)

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                      日々の風から キリストが十字架にかけられた日(受難日)

                       

                      聖書によれば、イエス様は木曜日の夕方からユダヤ民族の三大祭りの一つ過ぎ越しの祭りの宴を、愛する12弟子とともにエルサレム内の一室で持たれ、楽しまれた。その後、いつものように谷の向こうのゲッセマネの園に入られて祈りをして過ごした。その最中に弟子の人一人、イスカリオテのユダがかねてよりひそかに計画していたように、ユダヤ人の祭司長たちにイエスを売り渡した。ユダは師を銀貨30枚で交換した。イエスはすぐに逮捕され、ユダヤ人議会で裁判され、さらにユダヤの総督ポンテオ・ピラトのも前で裁判を受け、ついに十字架刑を言い渡された。夜が明けてから、イエス様は公衆の面前に引き出され、郊外のゴルゴタの丘で、他の二人の極悪人とともに十字架につけられ、息絶えた。

                       

                      さて、聖書はイエス様の十字架の意味を次にように明記する。

                      キリストは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」。Iペテロ2:24

                      キリストは「罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」。 汽撻謄3:18

                      「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。IIコリント5:21

                      キリストは、「私たちのためにのろわれたものとなって……くださいました」。ガラ3:13

                      「多くの人の罪を負うために……ささげられました」。ヘブ9:28

                      「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」。イザ53:5

                      「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。イザヤ53・6

                       

                      私たちキリスト者は文字どおり、イエス・キリストは私の罪の身代わりとなって十字架に掛かってくださったと信じる。イエス様は私を罪から救い出してくださった救い主である。しかし、だれも「聖霊によらなければイエスは主です」と告白することはできない。私が救われたのは一方的な恵みによりあわれみによるものである。知識も資格もいらない。この恵みがすぐそばに差し出されいる。受け取ってください。

                       

                      今日のみことば

                      【十字架上の七つの言葉】教文館 加藤常昭著

                       

                      『わが神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』

                      マタイ27/46

                       

                       

                       

                       

                       


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