人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

<< September 2020 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
天の星のように―母エバから母マリヤまで 美しき姉妹たち
Search
日々の風から 敬老余話

日々の風から 敬老余話

 

正真正銘の高齢者の一人として、「敬老」なる言葉ははばかられて声高には言えない。自分自身を抜かすわけにはいかないから。しかしこれもカレンダーに印の付いたその日だけのお祭りだと思えばいいのだろう。事実、世の中はあっけらかんと後ろへ追いやり、前へ前へと進んで行く。「GOTOトラベル」、「GOTOイート」、「GOTOイベント」などなどと。元凶のコロナたちも目を丸くしているに違いない。居場所を失って退散してくれればそれはそれで喜ばしいことだけど。敵もさるもの、逆襲が始まるのではないだろうか。

 

話しは敬老に戻るが、古いメモを繰っていたら、どこかで見つけた「詩」が目に留まり、しみじみと味わった。敬老の頃になるとよく読まれ、あるいは引用される。ヘルマン・ホイヴェルスというカトリック教会の神父で、上智大学の学長をなさった方が書かれた、『人生の秋に』という本に紹介されている「最上のわざ」という詩である。この詩は、ホイヴェルス神父が、故郷の南ドイツに帰った時、友人から送られたものだそうだ。

 

「最上のわざ」

 

この世の最上のわざは何?

楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、

しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、

従順に、平静に、おのれの十字架をになう。

若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、

人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、

弱って、もはや人のために役だたずとも、親切で柔和であること。

老いの重荷は神の賜物、 

古びた心に、これで最後のみがきをかける。

まことのふるさとへ行くために。

おのれをこの世につなぐくさりを

少しずつはずしていくのは真にえらい仕事。

こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。

神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。

それは祈りだ。

手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。

愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために。

すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声をきくだろう。

『来よ、わが友、われなんじを見捨てじ』と。

 

 

季節の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 敬老こもごも

日々の風から 敬老こもごも

 

かつての「としよりの日」、「老人の日」が現在の「敬老の日」になったとか。「としより」とか「老人」の存在がとんでもなく遠い世界に思えていたころは、この呼び名に何の違和感も持たなかった。その内に「高齢者」という呼び名が市民権を得てきた。高齢化が社会問題になるほど増えてくると、行政は「前期高齢者」、「後期高齢者」と年齢で分けるようになった。賛否両論、意見が沸騰した。今は落ち着ているように思える。友人たちからも「後期高齢者になりました」なんて、ちょっと自嘲めいた便りが届く。

 

そして今日は「敬老の日」として、国民の休日である。町の店頭にはさまざまな「敬老のプレゼント」があふれ、何か贈らねばとプレッシャーを感じる人たちと、何か来るだろうと待ち受ける人たちがいる。

 

自分が自他ともに認める高齢者になった今、支える人たちは大変だなあと思う。プレゼントのことだけでもそう思う。誕生日、母の日、クリスマスプレゼント、それに敬老である。老親が4人いたらどうなることだろう。目の前に介護が迫っている。気の毒になる。せめて心の負担にならないように、そっと静かに、できるだけ自立して、心においてはなおさら自立して、奮闘中の家族や友人知人のために祈り続けたい。愛の祈りはきっと実現する。神はそういうお方である。

 

「敬老」とはなんだろうか。敬われる対象になるために、若い人たちに一目置かれ、愛し慕われる者として存在するために、私はどうあるべきか。

 

国は65歳以上を「高齢者」として分類している。なんと3617万人に及ぶという。百歳以上の人が8万人を超えるそうだ。統計を取り始めた1963年、今から57年前にはわずか153人だったとか。この数字は何を物語るのか。それを探るのも有意義なことだろうが、年齢ばかりを問題にするのはどうかなと思う。短命で世を去る人もいる。思わぬ難病で苦しんでいる人もいる。「健康で長生き」ばかりが称賛されるのは片手落ちだと思う。

 

私は世の価値観に乗せられてはならない。神が「聖書」を通して説く「生き方」に深く目を注ぎ心に留めたいと思う。私を造られたのは神であり、私の命は神の御手に握られている。

 

『私は裸で母の胎から出てきた。

また裸でかしこに帰ろう。

主は与え、主は取られる。

主の御名はほむべきかな』

ヨブ記1章21節

 

 

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 政治の換気

日々の風から 政治の換気

 

約8年ぶりに私たちの国の総理大臣が変わった。

それに伴って大臣たちの顔も新しくなった。

前政権その他でおなじみの人たちもたくさんいるけど、

同じ政党だもの、仕方がないではないか。

悪口をいい、批判をすればキリがない。

まずは、密閉された部屋の窓が開いたのだ。

風が通ったのだ。

換気がされつつあるのだ。

 

今は国難の真っただ中、

コロナ禍と長期政権の負を背負っての船出である。

あらしの大海への出航を

旗を振って見送りたい。

がんばってほしいと願わずにはいられない。

 

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 3か月ぶりの都心

日々の風から 3か月ぶりの都心

 

いまだに自粛生活の延長を続けている。新しい生活様式にすっかり慣れてしまったともいえる。ふり返ってみれば不要不急の外出ばかりが多かったので、切れるものはすべてカットしてスリムな暮らし一辺倒になったのだ。やればできるものだと我ながら感心し、むしろ新しい生活スタイルに喜びさえ感じ、感謝しながら日々を送っている。

 

しかし時にバスに乗り電車に乗らなければ用の足りたいこともある。不要不急ではないのだ。そんなわけで3か月ぶりに都心に出かけた。前回は緊急事態宣言が明けて間もなくだった。同じ場所の3か月前との違いが興味深かった。

 

まず人が多い。町の空気が和らいでいる。あのころのピリピリするような緊張感が緩んでいる。人の歩みさえスローだ。電車もバスも昼中なのにかなり混んでいる。座席を開けて座る余地はない。思わず立ち上がりたくなるが、立ってもそばに人がいる。隣り同士で話し込んでいる人もいる。コロナってどこにいるの?どこで暴れているの?だれが感染し、どこでエクモに繋がれてるの?と思うほど平和だ。

 

みなさん、まだ油断は禁物ですよと言いたい思いだ。コロナなどどこ吹く風と見えた。

 

さすがに全員マスクは付けていた。マスクがおもしろい。それぞれすてきなマスクである。マスクをファッションの一部と考えているのがよく分かる。特に女性は服装にマッチしている。さすがだなあと感心した。

 

老女たちの集団が見当たらなかった。それが一番大きな変化だろうか。私の友人たちも多くの方が巣ごもり状態である。出かけるのは行きつけの病院や医院くらいだ。教会の礼拝や祈祷会などが再開し始めているから、そこを目標にして一週間を調節しているようだ。私と同じように家にいることに安らぎと満足を覚えているという。

 

近ごろは全国的に感染状況が好転している。行政は縛ってきたいくつかを解放しようとしている。大規模集会も東京のGO―TOトラベルも解禁だろうか。そうなると恐ろしい。コロナ君は密が好きだ。人が好きだ。会食の席には必ずやってくる。またまた惨禍がくり返されるのだろうか。まだワクチンも当てにならない。特効薬はない。

 

せめてつかの間であろう秋を楽しみたい。安心して紅葉が見たい。さて、どうなるのでしょうか。

 

『見よ、私は新しいことを行う。

今、それが芽生えている。

あなたがたは、それを知らないのか。

必ず、わたしは荒野に道を、

荒れ地に川を設ける』

イザヤ書43章19節

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 突然の秋風

日々の風から 突然の秋風

 

この半年、コロナ、コロナで、

歓迎せざる大風に煽られながら明け暮れしたが、

今や私たちの国にはもう一つの風が突然吹いてきて、

あっという間に総理交代が行われようとしている。

 

この秋風を、長く待っていたともいえるが、

来る時は突然だった。

変わるとはこういうことなのか。

 

ハッと目の覚める思がする。

歓迎すべきことではないか。

 

政党が変わったわけではないから、特別な変化はないだろう。

しかし、やはり大きな変化であろう。

新しい首相、新しい内閣に少なからず期待する。

どんな人も最初は一生懸命に仕事するものだ。

初心はよいものだ。

二心なき初心が、

力強く推進されることを、

私は私の信ずる全能の神に祈ります。

神はすべてお見通しです。

 

それにしてもコロナが収束していきますようにと祈ります。

 

『すべてのことには定まった時期があり、

天の下のすべての営みには時がある。

 

神のなさることは、

すべて時にかなって美しい』

伝道者の書3章1節・11節

 

 

 

 

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 今夜は十三夜

日々の風から 今夜は十三夜

 

コロナ禍と猛暑の二重苦にあたふたとした8月も最終の日を迎えました。二つの負の鎖は手足に重くまとわりつき、あの自粛生活の継続をさらに強く推し進めたと言えます。ストレスを覚えながらも、Slow Simple Silent なる新スタイルを感謝して受け入れている私があり、今があり、それは大きな驚きなのです。

 

神様はかくも巧みに導かれるものかと、感嘆するのです。わがままで、自己流を変えられなかった私を、コロナを用いて外側から働きかけ、内側も変えてくださっています。いっときは、一日も早くコロナ以前の生活に戻りたいと、祈り願ったことですが、今は、御心がなりますようにと、心の波風が凪いできているのを知ります。これはあきらめとか怠惰では決してありません。仕方なく状況に流されているということでもありません。負け惜しみではないのです。心の中に今まで知らなかった新しい風が喜びを孕みながらそよいでいるのです。

 

昨夕、いつもの散歩の途中、降りて行った川辺の遊歩道で、東の空に昇った大きな大きな月に出会いました。まだ白っぽく、若さを感じさせる月でした。調べてみたら今日が十三夜だそうです。満月に二日を待つ今夜の月をゆっくりと眺めたいと思います。長いと思った安倍政権も終わります。始めがあれば終わりがある。コロナもよい時に退散するでしょう。その時は私たちの生活も世界もすっかり様変わりしているでしょう。楽しみに待ちたいと思います。

 

『私はアルファであり オメガである。

最初であり、最後である。

初めであり、終わりである』

黙示録2212

黙示録

 

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 戦後75年・私の終戦直後 戦後疎開 その3

日々の風から 戦後75年・私の終戦直後 戦後疎開 その3

 

数えてみると、母の里で、昭和二一年、二二年、二三年、二四年と四回新年を迎えたことになる。

 

暮れの二八日になると本家の庭に、数軒の分家と舟に乗り込んでいる漁師家族が集まってきた。正月用の餅つきの日である。毎年この日と決まっていた。夜明け前から土間の奥の台所のへっつい(竈のこと)に火がおこされ、大釜に湯が沸き立った。それから延々と一日中、杵の音が続いた。杵を取るのも捏ね取りするのも船乗りの男たちだった。女性たちは餅米を蒸かしたり、つきあがったお餅をのし餅にしたり、時にみんなで食べる支度をした。ときどきつきたてをみんなで食べる。そのためにこそ、子こどもたちは片時も離れずに集まっていた。わたしも例外ではない。おかげですっかり餅つきの手順を覚え、後年、教会のお餅つきに役立った。

 

どのくらいのお米を用意したのだろう。我が家は少人数だが、それでも一斗、今の十五キロだったと母が言っていたのを思い出す。臼は一台だけではなかった。鏡餅にしたりその場で食べるのは小振りの臼が使われた。それにしてもあの食糧難の時代にどこで大量の餅米を調達したのだろう。確か本家が一括して準備したようだ。正月一ヶ月はお餅を食べ通した。

 

二年目のお餅つきだったと思う。見慣れないものが登場した。大きなカーキ色の缶詰だった。開けると、知らないにおいがした。それは甘い甘いいちごジャムだった。小豆のあんこ代わりに、つきたてのお餅を、なんといちごジャムで食べることになった。小豆が手に入らなかったようだ。その代わりに、アメリカの放出物資のジャム缶が配給になった。 

 

あんころ餅に慣れていたせいか、さすがに違和感があった 「なんだや、こんなもの、食えっかよ(食べられないよ)」と男たちには不評であった 「甘えけっとも、餅には合わねえわ。(甘いけれど、お餅には合わない)と女たちも顔をしかめた。みんなジャムをジャミ、ジャミと言った。わたしがジャムを食べたのがその時が初めてだったと思う。ドラム缶を小さくしたような「カーキ色」の缶にぎっしり詰まった暗赤色のジャムは忘れられない。一度にあんなに多量のジャムを見たのも今に至るまでない。

 

お餅つきは二月にもう一度あった。暮れの時のように大がかりではなかった。のし餅は作らず、なまこの形にして寒餅を作るのだった。青のりや大豆やごまを入れたのも作った。切ると半月の形になった。それは冬の間のおやつになった。練炭の火鉢に餅網を置き、そこにかき餅(そういう名で呼んだ)を並べて焼いた。母が小皿に取り分けてくれるのが待ちきれないほどだった。

 

珍しいものと言えば、初めてパン食べた。大きなコッペパンである。お米屋さんまで取りに行った。それがなんともおいしくて、配給が待ち遠しくてならなかった。ぼそぼそして喉に詰まりそうだったし、強い酸味が舌と鼻を突いた。しかしそれこそがパンの味だと信じて疑わなかったから夢中で食べた。外国のものと思うだけで胸がときめいた。これもまた米国からの援助物資なのだろう。近隣の米軍基地で作られたのだろうか。ずいぶん日数が経っていただろう。いまならとっくに賞味期限切れとなるところだが、お腹も壊さなかった。いつもジャムがあるとは限らなかったので、多くの時はそのまま食した。

 

以来、わたしはすっかりパン党になった。三度パンでもかまわない。ジャムやバターがなくてもかまわない。ふわふわのパンより固いのがいい。これも幼年時代に染みついた名残であろうか。そして、今思うに、食べ物の思い出がとりわけ鮮やかなのはなぜだろう。何をして遊んだか、その仲間たちはだれだったか、何がいちばん楽しかったか、悲しかったか、いやだった事は何か、すぐには答えられないし、どんな服を着て、足には何を履いていたかも思い出せないのは不思議だ。

 

ある年の春先、三つ違いの妹が重い麻疹に罹り、病後に丹毒を患った。右足の膝が腫れ上がった。もちろん就学前であったわたしには詳しいことはわからないが一つ、二つおぼろな記憶がある。父と母が二人がかりで医者に連れて行ったことだ。父が妹をおんぶし、母が患部に氷嚢をあてた。町の医者では手に負えなかったのだろう、遠く銚子まででかけた。かの銚子電鉄は復興がまだならず、田舎道一里半を歩いて行った。半日は帰ってこなかった。

 

留守をするわたしは竈に火をつけてお釜をかけ、サツマイモを蒸かして帰りを待った。毎日のようにそうした。母の言いつけだったのだろう。「医者に、びっこになるかもしれないと言われた時は身が縮み上がった。でも、この子を方輪者にしてなるものかと、どんなことしても治さねばと、必死だった。半年は通ったよ。タンス一さお分の着物が医者代になってしまったけど」。母はよくこの話を物語った。両親の命がけの思いが天に通じたのだろう、妹は後遺症もなく元気になった。

 

まもなく、三番目の妹が生まれた。私は4人姉妹の長女なのだ。そのころ母は病気になった。今から考えればもろもろのストレスのせいだろう、胃を患った。胃潰瘍でもあったのか。一度ならず入院した。生まれたばかりの妹は近くに住む母の姉の家に預けられた。伯母の家は子どもが一人だった。妹はしばらく伯母の家にいた。伯母はたいへん妹をかわいがり、自分の子にしたいと真剣に母に願ったという。もちろん母は人にあげる子はいないと言下に断ったと、あとで聞いた。その話を聞く度にわたしの胸には暖かいものが流れ、満たされた思いになった。父や母の愛は強かったと、今更ながらにありがたいと思う。

 

入院は布団持参であった。リヤカーに夜具一式を積み込み、その上に母が横向きで座った。母は留守をするわたしに何か言ったにちがいない。わたしも答えたにちがいない。しかし会話は一つも覚えていない。目の奥にあるのは、小さく細く、青白い母である。退院してからも、母は姉の家に寝ていた。まだ家事や育児の体力がなかったのかもしれない。

 

小学校へ入学する日が近づいてきた。母が「学校へ行くときはこれを持って行くのよ」と肩から提げるカバンを見せた。そういえば、母は毎日針箱を脇に置いて作っていた。固い白地の布にところどころ小さい花が刺繍してあった。きれいですてきだった。わたしは早速肩にかけて部屋中を飛び回った。布地は帯芯だという。なにもない時代だから、母は自分の帯をほどいて硬い芯の部分を使ったと、後年になって聞いた。

 

入学式の日、集まってきた子どもたちはそれぞれ違ったカバンを提げていた。なにも持たない子もいたし、風呂敷を抱えている子もいた。皆校庭に集まった。その中の一人の子に目を奪われた。その子ではなく、背中のカバンに吸い付けられたのだ。あとでランドセルと聞いた。ランドセル……。その子は真っ赤なランドセルを背負っていた。立派なものに見えた。すてきなものに見えた。よく見ると、その子はセーラー服(これもあとで知った)着て胸元に大きな臙脂のリボンを結んでいた。別世界から来たようにかわいらしく美しかった。わたしは見とれていた。

 

ふと、自分のカバンを見た。ひどくみすぼらしく見えて、恥ずかしくなった。わたしもランドセルがほしい、あんな洋服を着てリボンを付けてみたい。心で叫んでいた。これを物欲というのだろう。まだ『あなたは隣人のものを欲しがってはならない』という神の素朴な戒めを知らなかった。

 

父が、徴用になる前に長年勤務していた会社が再開した。連絡がついたのだろうか、父は待っていましたとばかり単身で上京した。今の単身赴任の先駆けであろうか。父は二週間に一度帰ってきた。父の帰る土曜日の夕方が待ち遠しくてならなかった。わたしと妹は必ず駅まで出迎えに行った。父は両国から総武本線に乗るのであった。終点銚子から銚子電鉄に乗り換える。おそらくわたしたちは早くから駅に行ったのであろう。電車が着くたびに、父の顔を探した。次の電車かな、次の電車かなと待った。

 

「あっ、お父ちゃんだ」、「わーい、お父ちゃんー」。わたしたちは父のそばに駆け寄った。父はわたしたちの頭をなでながらいつもわたしの手に風呂敷包みを渡した。そこにはそれこそ楽しみにしているおみやげがあるのだった。クレヨンであった。まだクレヨンを持っている子は少なかった。わたしは大喜びをしたのだろう、それからというもの、父はわたしが喜ぶのを楽しむようによく買ってきた。十二色、十五色、二十色とだんだん色数が増えて、箱も大きくなった。真新しい箱に整列するクレヨンたちの鮮やかな色彩に引き込まれ興奮した。クレヨンはわたしの誇りであった。優越感を抱いた。また、惜しげもなく使った。まだ、持ち物を誇るのは罪であるとは知らない時であった。ところがどうしたことだろう、未だに絵画は一番苦手なのである。

 

潮風とも別れて、わたしたち一家が東京に引き揚げてきたのは、奇しくも四年前の終戦の日とちょうど同じ八月十五日であった。足かけ四年に及ぶ母の里での暮らしは未だに色あせない表紙をかざりながら思い出のアルバムを残している。思い出は古いほど美しい。年月の鉈が、名庭師のように見栄えのしない枝葉を切り落としてくれるからだろう。

 

海辺の町は、母だけでなくわたしにとってもふるさとになった。三年生の一学期まで通った高台の小学校は、廃校になってしまったが、今は観光スポットの名所になり直ぐ近くに展望台ができて観光客で賑わっている。三百六十度ぐるりと海が見渡せ、地球のてっぺんにいるような壮大な気分に浸れる。

 

町を去る日、おそらく親戚中の人たちが見送りに来てくれたに違いない。銚子電鉄に乗り込んだわたしは、別れを惜しんで胸を詰まらせ泣いただろうか。情景も感情も思いだせない。明日から始まる新しい生活に心が飛んでいたのかもしれない。

 

 

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 戦後75年・私の終戦直後 戦後疎開 その2

日々の風から 戦後75年・私の終戦直後 戦後疎開 その2

 

 

漁船はたいてい夜明けに出て翌日午前から午後にかけて戻ってくる。近海で漁をする船であった。当時は今のように規制がなかったのか、大きな網で海の底を浚(さら)う様にして漁をした。カツオや鯛は一本釣りをしたようだが時期を選ぶ必要があった。

 

明日も天気がよくて漁に出られそうだと、漁師たちは船具を点検し、えさを船に運んで夕方までいそがしく準備した。漁に出るかでないかは船主の伯父が判断した。漁に出ることが決まると、見習の若い衆が船乗りの家に一軒、一軒知らせに行くのだった。真夜中を過ぎる頃声がかかるのだ。電話も有線放送もない時代だった。すべて人の力でこなしていくしかなかった。

 

漁師たちはめんぱと呼ばれた小さなおひつにご飯を持って家を出る。二食分くらいの主食だ。船の出る晩は、母はもう一度ご飯を炊いて、炊きたてをめんぱに移した。船での食事には毎食釣ったばかりの雑魚をふんだんに放り込んだ味噌汁を作り、刺身を作ったと聞いた。質素だがこんな贅沢はないだろう。

 

売り物の魚を除いて残ったものは同乗の全員で分けた。毎日父は網にいっぱいに魚を担いで帰ってきた。ひらめやかれいやかさご、それにエビとカニがあった。母は手早く調理した。たいてい魚は煮つけられた。塩焼きにすることはほとんどなかったように思う。エビやカニは真っ先に茹でた。ざるに山盛りのカニを惜しげもなく食べた。今思うと夢のようである。しかしいつもいつも魚ばかりであった。今思うに、野菜不足であった。八百屋さんもあったが町全体が野菜不足だったのではないか。漁村の宿命だろう。

 

主食には苦労したらしい。配給のサツマイモがおいしくなかった。今でもあのときの水っぽいさつまいもの味が舌の奥にしみこんでいる。トウモロコシの粉で作ったパンが喉を通るときの痛いような感触やサツマイモの粉で作った真っ黒いパンの鼻を突く臭いを覚えている。

 

お米など農作物は農家に買出しに出かけた。配給では足らないのだ。後年、母は持っていた着物はほとんどお米に換えたと言っていた。

 

あるとき、どういう成り行きだったか、わたしも母といっしょに買い出しについていった。母は持ってきた着物を見せて農家の人と話をし、お米と交換した。その時、家の奥から一人の女性が出てきて、わたしの手のひらに大きなおにぎりを乗せてくれた。見事な白米のおにぎりであった。おにぎりの白さがまぶしかった。キラキラと光っていた。わたしはすぐに食べた。ほどよいお塩の味が口に広がった。母もいただいたかどうか知らない。おそらくその女性はふとわたしをかわいそうに思ったのだろう。白米を食べたことがないと思ったのだろう。その善意は忘れられない。いまだに味を思い出す。いまでもおにぎりは塩結びが一番だと思っている。

 

子どもたちの遊び場は海だった。夏いっぱい毎日毎日浜へ下りて行って泳いだ。少しくらい雨が降っても泳ぎに行った。泳げない時期は何をしていたのかあまり思い出せないが、海で過ごした日々のことはたくさんの場面とともに今でも鮮やかだ。夏が近づくと、まだ夏休みにならないうちは、学校から帰るとすぐに浜に行った。「泳ぎに行くべ」と年上の従姉たちから声がかかる。いつも十人くらいの女の子たちがいっしょだった。

 

町にはふたつ泳げる浜があった。泳げない浜もあった。そこはいつも大きな波が白い波頭をたてて勢いよく寄せていた。海の色も違って深い青をしていた。砂浜が見事だった。ほかの砂浜よりずっと広々していて砂もたっぷりあり、銀砂が多かった。西ノ浜と呼ばれていた。が、そこでは絶対に泳いではいけないのだった。ほんの沖合に千騎ヶ岩(せんがいわ)というこんもりした岩山が聳えていた。そのあたりは波が渦を巻いていると聞いた。凪いでいるときでも波が白く砕け散っていた。

 

祖母が口癖のように厳しく言った。西ノ浜で泳いだらだめだあど、波にさらわれっからな。やんら(男の子)だけだあど 祖母の言葉から西ノ浜がいかにも恐ろしいところに思え、深い青色が不気味に見えた。あるとき、溺死事件があった。土地っ子ではなく海の事情を知らない人が、美しさに惹かれて泳いだらしい。波は獲物を見つけたように襲いかかったのだ。ばっぱさんの言うとおり、西ノ浜は怖いところだと、真剣に心に刻んだ。

 

時々、泳ぎに自信のある男の子たちの頭が波間に見えることがあった。彼らは本当の海の子であり波の子であった。将来は漁師になると決めていた子たちであった。一年に一度、大潮の時だけ、海水が引いて浜辺から千騎ガ岩まで歩いて行けるのだった。一度も歩いたことはなかったが、あの荒い波が引いて岩と砂地が露出した浜を驚きいっぱいで眺めた。

 

 

夏休みに入ると、朝食を終えると海へ飛んでいった。まず本家へ集まった。どんな恰好で泳いだのか全く覚えていないが、今のような海水着などは皆無だったろう。母が何か作ってくれたのだろうか。家からすでに素足だった。タオル一枚持っていなかった。むろん浮き袋や波板などもなかった。年長の従姉を先頭に浜に下りて、思い思いに水に入った。三十分も入ると、体が冷えてくる。その頃を見計らってか、声がかかって全員浜に上がる。砂浜まで走っていって熱い砂の上に円を作って腹ばいになるのだ。焼けた砂が肌に快く、気持ちがよかった。

 

一つの遊びがあった。砂の上に寝転ぶとき、両方の手の平に砂をつけてはならなかった。肘をついて横になった。両手をよく振って水を飛ばし、思い思いに指を曲げて軽く握ると、輪の真ん中の砂に手をくぐらせるのだ。よく振りかけて、いっせいに開く。と、広げた手のひらは、砂のついている部分と、いない部分がくっきりと表れ、美しい模様が見えるのだった。指の組み方や曲げ方ですばらしい模様になった。それを見せ合って、誰のが一番いいかと時に競い合った。そうしているうちに背中がじりじりとしてくる。今度は背中を下にして仰向いた。 

 

これ以上我慢ができないほど熱くなると、また海へ走っていった。ところが海までが一難関あるのだった。素足では歩けないほど砂が熱くなっているのだ。一気に波打ち際まで走らなければならない。必死で、命がけで走った。

 わたしより小さな子は泣き出してしまうのだった。すると年長の女の子がさっとかがんで、乗らっせえよと声をかける。こうして立ち往生した子はすばやく水まで運ばれていった。お昼になると、全員一度家に帰った。家に着くと庭先には水を張ったたらいがあった。母がいつも用意していた。温かい水で行水し、昼食となるのだ。

 

午後一番でまた浜に下りていった。午前中と同じように何度も水と砂浜を行ったり来たりして過ごした。二、三時間もいたのだろうか。年長者が、もう、あがっぺ(あがろう)と声をかけると、今日の泳ぎは終わるのだった。わたしは従姉妹たちとそのまま本家に行った。ほとんどそうしていた。つく頃には母も妹もきていて、全員でおやつを囲んだ。大きなざるに山盛りのサツマイモ、トウモロコシが並んでいた。船が入ったときは、真っ赤にゆであがったワタリガニやエビがいくつものざるに乗せきれないほど盛られていた。船から上がって船具やえさの整理が終わると、祖父や伯父や父も、他の漁師さんたちも輪に加わって、それはそれは賑やかなひとときだった。

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 戦後75年・私の終戦直後 戦後疎開 その1

日々の風から 戦後75年・私の終戦直後 戦後疎開

 

 

終戦の日、軍需工場に徴用されていた父たち社員は、即刻解雇されたので、すぐに社宅を出なければならなかった。我が家は母の里へ引っ越すことになった。戦後疎開という。東京の父の会社はまだ再開しておらず、東京へは入ってはならなかった。母の里は千葉県の、灯台で有名な犬吠埼を南に廻った漁師町にあった。

 

母の実家は船主であった。船主である母の兄がわたしたち家族を引き受けてくれた。父は漁師の一員に加えられて漁船に乗り組み、どうにか家族を養う仕事を得たのである。もちろんすべては母の兄の好意であった。しかし、都会育ちの父に海の仕事などなにひとつできるわけはない。母の兄は年の離れた末っ子の母をかわいく思っていたようだ。自然父にも親切だったし、わたしにも顔が会えば優しく声をかけ笑顔をむけてくれた。おばさん(兄の奥さん、兄よめ)がまた本家の主婦らしく気持ちの豊かな女性だった。口数は少なかったが優しい人だった。

 

その地でわたしは約四年間生活した。思い出は尽きない。その間にもう一人妹が生まれた。

最初、両親とわたし、妹の家族四人は、本家の敷地内にあった船具を保管する倉庫に住んだ。わたしたちのために急きょ空けてくれたのだ。畳の部屋は一部屋しかなかったが、土間の隅に簡易の小さな台所が作られた。  

 

本家には、まだ祖父も祖母も健在だった。家長は息子だったが、祖父はまだまだ威厳があり権力もあった。祖母は一日中コマネズミのようによく働く人だった。この家には上から女ばかり四人の娘がいた。のちに二人男の子が続いて生まれ、十人の大家族だった。そこにわたしたち家族が加わった。

 

ところがすでにもう一家族が世話になっていた。正確には家族とは言えない。戦死した母のすぐ上の兄の遺児たちが居候していた。この兄はガダルカナル島へ向かう途中、敵機の襲撃を受け、船は撃沈したという。後日、国から届いた白木の箱の中には戦死を告げる一枚の紙片のほかは何も入っていなかったそうだ。母がよく話していた。

 

遺児となった男の子三人が本家の子供になっていたのだ。母親は夫が戦地に向かう間に病死した。わたしのいとこに当たるのだが、彼らは孤児になってしまったのだ。祖母はその孫たち三人の母親役だった。自分が全面的に世話をしようと思ったのだろう、まるで母親だった。三人の男の子たちもそれをよく承知していたらしい。なにかにつけ母親を呼ぶように「ばっぱさん、ばっぱさん」(おばあちゃんの意味)を連発していた。わたしは伯父の子供たち六人とこの三人の従兄弟たちの輪に入り、賑やかな毎日であった。大人たちにとってはさぞ騒々しい集団だったろう。

 

三人の遺児たちたちの末っ子が手に負えない腕白であった。いつも祖母にしかられていた。彼はよくわたしをからかった。「東京っペ!東京っペ!」と、笑い声を上げては走り去った。とても悔しかったが今ではなつかしいばかりである。彼らは成長すると三人とも本家の漁師になった。恩返しができるほどよく働いたと聞いている。

 

ほどなく、わたしたち家族は本家の近くに住まいを見つけて引っ越した。そこは一軒の家の奥の一間だった。戦争未亡人の家だった。その家にはわたしより三歳ばかり年上の長男をかしらに男の子三人と女の子が一人いた。育ち盛り食べ盛りの子ども四人を抱えて一家の大黒柱を失ったのだ。その悲惨さは我が家以上に深刻だったに違いない。たった一間の部屋代も貴重な収入だったろう。

 

庭先に簡単な台所が造られた。わたしはこの台所のかまどでよくサツマイモをふかした。母に言いつけられたのだろう。いかにむらなく火が通っておいしく蒸かせるか、教えられたことを工夫しながらお芋を並べた。

 

わたしたちが間借りしていた部屋の前の庭はすぐに畑にした。家主の家もそうであった。場所は狭いものだったが懸命に耕してなにかしら食料になるものを植えたのだ。サツマイモ、ジャガイモ、カボチャ、トウモロコシなどがあった。もちろんナスやキュウリも植えられた。お米や麦などの穀類はなかった。近くの畑の脇を通ると我が家の畑にないものがあった。大豆や小豆であった。小豆が筵の上に干してあるのをうらやましいような気持で眺めたことがあった。

 ( 自分史の一部・多少編集して)

 

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :
日々の風から 戦後75年・私の8月15日前後のこと

日々の風から   戦後75年・私の8月15日前後のこと

 

あの年、わたしは片手指にも満たない年齢であった。記憶もとぎれとぎれで、あとから聞いた話がくっついているようだ。

 

妹が生まれてまもなく、父は国の命令で戦闘機を製造する会社へ徴用工として動員された。幸いにも父は戦地には行かないですんだ。工場は千葉県の船橋、すぐに社宅に移転した。その家の前の庭は母が急遽畑にしたが、一隅に防空壕があった。

 

ある時期、突然母が妹を抱え、わたしの手をきつく握って「空襲警報だ!」叫んで防空壕へ走った。何度も、何度もそんなことがあった。家の真上を耳が破裂するほどの轟音が響く。母はそばに置いてある布団や座布団を頭からかぶってうつ伏せになった。妹とわたしは腹ばいになった母の下にいた。しばらくすると母が「もう大丈夫、敵機は去ったよ」と言って外に出ると「こわかったね」と言ってわたしの頭を撫でた。

 

ところがわたしにはこわかったという覚えはない。まだ恐怖心というものが芽生えていなかったのだろうか。母が鋭い声をあげて防空壕に飛び込んでも、いつもわたしのそばには母がいて、妹がいて、夜になれば父が帰ってきて、わたしの周りはいつもの通りだった。日本中が、世界中が、とんでもない混乱と恐怖のどん底にいることなど、何一つ知らなかった。

 

ある晩のことだった。父がわたしを外に連れ出した。父は独り言のように言った。

「空を見てごらん。真っ赤だよ。東京の方だ。空襲で焼けているのだ」。東京の方、西の空が夕焼けのように赤かった。夕焼けにしては周りは真っ暗だと、子ども心にも異様なものを感じた。次の日の朝早く父は東京に出かけた。両足にゲートルという厚い包帯のようなものを巻いて真深く帽子をかぶっていた。東京には父の実家があり、兄家族がいた。亀戸には叔母夫婦がいた。(自分史の一部から)

 

実家は爆弾で吹き飛んだが兄夫婦も子どもたちも無事だった。しかし叔母夫婦は防空壕の中で亡くなっていたそうだ。3月10日、東京大空襲の出来事である。

 

まもなく八月十五日を迎えた。その日がどんな日であるかわたしにはわかるはずもなかったが、わたしなりに覚えていることがある。昼下がりのことである。わたしは庭に面した南側の縁側の近くで遊んでいた。わたしは異様なものを見た。父であった。昼日中に父が帰ってきたのだ。あり得ないことだった。同じ社宅の数人といっしょだった。

「わあ、お父ちゃんだ!お父ちゃんだ!」

驚きのあまりわたしは棒立ちになって大声をあげた。

「えっ!」

家の中から母の声がした。絶叫だった。わたしよりずっと鋭く、短く。と、大きな音がして、母が開け放した玄関から転がり出てきた。素足のまま。母は正午の『玉音放送』を聞いたにちがいない。父を案じていたのだろう。

 

父たちは戦争終結と同時に、全員、即刻帰宅を命ぜられたという。もう戦闘機を作る必要がなくなったからであろうし、戦勝国からどのように扱われるか、会社側もうろたえ、さらには国から指令が出たのであろう。 

 

その夜、母は電灯を覆っていた黒い布切れをはずして、「今日からは堂々と電気をつけられる。こんなものは要らなくなった」と晴れ晴れした笑顔で言った。

 

わたしの家族は幸いにも戦争という死の刃を免れ、戦後という新しい生を歩むようになった。その後、生き抜くために父母が払ったであろう大きな犠牲をわたしはたいして知らない。(自分史の一分)

日々の風から : comments(0) : - : kibounokaze :