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日々の風から 招かざる客長逗留・春の長患い

 

かれこれ1か月も前だが、昼夜を問わす胃とお腹がキリキリと痛み出した。近所のかかりつけ医のていねいな診察によれば「胃腸炎」とのこと。確かに胃と腸に異常があるのだと納得した。何種類かの薬が出された。そのうちに首から喉が痛み出し咳もひどい。また医院に飛び込んだ。普通の風邪でしょうと、またまた薬が出た。

 

食べ物の制限もあり、それ以前に食欲がない。薬が三度の食事のような時もあり、口が苦くてますます食欲が出ない。大した熱も出ず、寝込むようなことはなかったが、不要不急の外出は控えて、ひたすら蟄居の日々が続いた。家に居るのだから思う存分書き物や読書に集中できていいはずなのに、なんと、その元気ない。PCの前でぼーっとし、時にサーフィンして無為な時が過ぎて行った。

 

出された漢方薬が合わない。いままで漢方には漠然と安心感を持っていたのでびっくりし、また来ましたと恐る恐る医者の前に座った。医師は別の漢方を処方された。こんどこそと、意気込んで服用した。前回と似た症状が出たが、慣れるだろうと数回我慢して使った。しかしついに放り投げた。ついでに数日間、一切の薬断ちをした。

 

回復期にも入っていたのだと思うが、口の苦さが消え、食べ物がおいしくなった。この1か月、ろくなものを食べないできた。好きなコーヒーもチョコレートも和菓子も見向きも出来なかった。前代未聞の体重にショックを受けたが、今はガツガツと食べ始めていて、我ながらおかしい。

 

神さまが私に託されている命はいつまでなのか、知るよすがもないし、知る必要もない。しかし、元気になると、いただいた命をいかに使うか、つまり「使命」への熱い思いが戻ってくる。いのちの主のお導きに従って、今日一日を精一杯生きたい。

 

 

 

 

 

 

2018.04.20 Friday 10:22 | comments(0) | - | 

書林の風から 堀田善衛著『スペイン断章』からドナルト・キーン著『百代の過客・続』まで。

書林の風から 堀田善衛著『スペイン断章』からドナルド・キーン著『百代の過客・続』まで。

 

2017年1月から堀田善衛著『スペイン断章』から始まった新しい読書は、今までの文学街道と並行して新しく歴史街道を増設してくれることになった。私の読書街道は複線化したと言える。堀田氏の『ゴヤ』や『ミシェル・城館の人』などを心楽しく読んでいった。

 

そこから私はダイレクトに西ヨーロッパの一つ一つの国の歴史を読みだした。スペインを始め、フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、オランダへと進んだ。河出書房新社の「ふくろうの本」シリースは教科書のようだ。作家の私感が色濃く入らず、その国の歴史が整理された。

 

堀田氏の「歴史は読むものではなく見るもの」との至言に一時は大いに納得したものの、至言の先に光る針の痛みを胸に感じる中で、ついに見に行けない現実もあるのよと開き直り、もっぱらペーパー上の歴史を楽しんだ。イタリアでは、好きなフィレンツェで足踏み、個性派の塩野七生の『わが友マキャベリ』、若桑みどりの『フィレンツェ』に再び捕まってしまった。これらは講談社学術文庫にある。

 

ヨーロッパはもういい〜〜〜そんな思いになったのは、スペインを始め、あのオランダまでもが、世界に進出して行って、アジア、アフリカ、南アメリカで残虐の限りを尽くした事実をいっぺんにまとめて知った時からである。もちろんその前に、自国内や隣国にも同じことをした。今、観光地として世界中の人たちを呼び集めている栄光に輝く都市や建造物の一つ一つは、凄惨な陰謀、殺戮、略奪 凌辱、侵略、戦争の結果ではないか。これはもちろんヨーロッパだけでなく、世界で大国と呼ばれる国々一つ一つに言えることである。日本の国も遅ればせながら悪行を重ねた。私は世界の歴史にげんなり、うんざりしたのである。これは堀田氏のいう「歴史は読むものではない」のことばを軽んじたからか。私の論は正に机上の空論なのかもしれない。

 

講談社学術文庫を書棚に戻すにあたって、最後尾の案内の部分を見ていた。次は何を読もうか。目に留まったのが、ドナルド・キーン著『百代の過客・続』。幕末から維新を経て、幕を開けた近代日本の、日本人を取り扱っている。私は、日本に帰ってきたのである。しばらく落ち着いて本の中へと旅してみる。

 

今日の聖書通読から(4/16)

伝道者の書11章1節

あなたのパンを水の上に投げよ。

ずっと後の日になって

あなたはそれを見出す。

 

ローズンゲン4/16

人の歩む道は御目の前にある。

箴言5・21

 

わたしは良い羊飼いである。

私は自分の羊を知っており、

羊もわたしを知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.04.14 Saturday 21:23 | comments(0) | - | 

日々の風から 日々の風は待ったなし

 

 

数日、所用で留守しました。

帰宅して、いざPCの前に座ったら、

ネットワーク不具合!

あたふたし、

結局、すっかり間が空いてしましました。

お詫びして、明日に繋げたいと思います。

 

 

ローズンゲン 4/11

 

主よ、誰があなたのような威力を持つでしょう。

主よ、あなたの真実は、

あなたを取り囲んでいます。

詩・89/9

 

 

2018.04.11 Wednesday 17:32 | comments(0) | - | 

日々の風から 4月1日イースターは62年ぶり!

 

4月1日がイースターとは、とても新鮮に思える。はっきりしていてさわやかである。しかし、過去、年度の始まりのこの日がイースターだった日はいつだったろうか、いままであまり意識しないでいたが、ふと、考え込んでしまった。記憶にもない。そこで、天下の宝刀をつかって調べてみると、なんと前回は1956年なのだ。じつに62年ぶりである。ついでながら次回は2029年である。どうしてこうなるのか省くことにするが、れっきとした理由が存在する。

 

今年のイースターがとても貴重に思える。年度の始まりの日が、イエス・キリストが復活された大いなる記念の日とは、私にはたいへん意味がある。イエス様が死にまで勝利して立ちあがり、その復活のいのちで今も生きて働いておられることを思うと、大いに励まされ体の底から力が出てくる。特に今年度、そして1日のイースターに期待していた。そのとおり、うれしい日になった。それが62年ぶりの4月1日イースターであったとは!不思議な感動で揺さぶられている。

 

 

 

2018.04.03 Tuesday 20:34 | comments(2) | - | 

日々の風から キリストが十字架にかけられた日(受難日)

日々の風から キリストが十字架にかけられた日(受難日)

 

聖書によれば、イエス様は木曜日の夕方からユダヤ民族の三大祭りの一つ過ぎ越しの祭りの宴を、愛する12弟子とともにエルサレム内の一室で持たれ、楽しまれた。その後、いつものように谷の向こうのゲッセマネの園に入られて祈りをして過ごした。その最中に弟子の人一人、イスカリオテのユダがかねてよりひそかに計画していたように、ユダヤ人の祭司長たちにイエスを売り渡した。ユダは師を銀貨30枚で交換した。イエスはすぐに逮捕され、ユダヤ人議会で裁判され、さらにユダヤの総督ポンテオ・ピラトのも前で裁判を受け、ついに十字架刑を言い渡された。夜が明けてから、イエス様は公衆の面前に引き出され、郊外のゴルゴタの丘で、他の二人の極悪人とともに十字架につけられ、息絶えた。

 

さて、聖書はイエス様の十字架の意味を次にように明記する。

キリストは、「十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました」。Iペテロ2:24

キリストは「罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです」。 汽撻謄3:18

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」。IIコリント5:21

キリストは、「私たちのためにのろわれたものとなって……くださいました」。ガラ3:13

「多くの人の罪を負うために……ささげられました」。ヘブ9:28

「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた」。イザ53:5

「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」。イザヤ53・6

 

私たちキリスト者は文字どおり、イエス・キリストは私の罪の身代わりとなって十字架に掛かってくださったと信じる。イエス様は私を罪から救い出してくださった救い主である。しかし、だれも「聖霊によらなければイエスは主です」と告白することはできない。私が救われたのは一方的な恵みによりあわれみによるものである。知識も資格もいらない。この恵みがすぐそばに差し出されいる。受け取ってください。

 

今日のみことば

【十字架上の七つの言葉】教文館 加藤常昭著

 

『わが神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』

マタイ27/46

 

 

 

 

 

2018.03.30 Friday 20:58 | comments(0) | - | 

日々の風から 今週は受難週

日々の風から 今週は受難週

 

教会暦では今週25日は、かつて主イエス様がエルサレムに入城された日である。この日イエス様は大勢の群衆の歓呼の声の中を、ちょうどローマの将軍が凱旋するように、ご自分の国の都エルサレムに入られた。しかし、もちろんローマの将軍とは真逆の目的のためであり、真逆の状況が待っていた。

 

イエス様は十字架に掛かるために来られた。木曜日の深夜に逮捕され、真夜中に裁判があり、金曜日の朝、処刑が始まるまで、あらゆる屈辱、凌辱を受けた。日曜日の朝は棕櫚の葉を振り振り凱旋将軍のようにイエス様を迎えた群衆は、豹変し、あらん限りの罵詈雑言を浴びせかせた。イエス様はほふられる子羊のように黙々と十字架の道を選び、従われた。

 

これらの、一見する謎と矛盾に満ちたイエス様について、

真理が知りたい場合はぜひキリスト教会へいらしてください。

4月1日はイースター、復活祭です。

クリスマスに並んで、特別な礼拝の日です。

きっと、主イエス・キリストの恵みと祝福があるでしょう。

 

 

今日のみことば

『はっきり言っておくが、あなたは今日、

わたしと一緒に楽園にいる』

【十字架上の七つの言葉】著・加藤常昭・教文館

 

ローズンゲン3/27

主の慈しみとまことはとこしえに、

私たちを超えて力強い。ハレルヤ

詩篇117・2

 

私たちたちすべてのために、

その御子さえ惜しまず死にわたされた方は、

御子と一緒にすべてのものを

私たちに賜らないはずがありましょうか。

ローマ・8・32

2018.03.27 Tuesday 21:47 | comments(0) | - | 

日々の風から 孫息子とのひととき

 

昨今は孫たちも幼くはなく、上の男子は4月から大学二年生になる。中学生、高校生になってからはほとんどブログには登場させない。個人の人権にかかわることだから敢えて書かないでいる。それに、彼らは超多忙であるから、同じ家に居ても顔を見ないこともある。どんな行動をしているか、わからないことのほうが多い。

 

加えて、耳が遠くなったのか、玄関を出る音も入る音も聞こえないことが多い。ドア越しに行ってきます、ただいま、が聞こえる時は返事をするが、それも毎回とはいかない。特に、CDをかけていたりPCに見入っていると外の音が聞こえない。

 

今日は珍しいことがあった。これくらいは書いてもいいだろう。もしかしたら今後二度とないかもしれない程のことなのだ。もう春休みに入っている大学生が、今日は一人だけ家に居た。みんな朝から忙しく出てしまっている。午後、声がかかった。「ビデオセンターに行くけど、いっしょにいかない?」と。へえー、ビデオ屋さんねえー。私も借りられるかしら。

「探してみたら」ということで彼とともに、なんとビデオセンターに行くことになった。電車では一駅、バスなら3駅だが、歩くという。よし、孫とならどこまでもいくぞと、内心張り切ってついていった。

 

しみじみと陳列棚を見た。懐かしい洋画、邦画がずらりと並んでいる。これならそのうちに一人でも来よう。映画館に行ったつもりで借りよう。家で、一人でゆっくり見られるなら、そのほうがいい。そんな気になった。借り方が面白い。4泊5日、7本まで1本80円と。びっくりである。世の中は恐ろしく変わってしまった。便利と言えば便利。これなら町の映画館は要らないかも。

 

気になった一本を借りてもらった。「奇跡のシンフォニー」という。これならショッキングな場面もなく見られるだろうと選んだ。往復の道々、孫とは大人の会話が続いた。成長したものだと、彼を見上げながら胸がいっぱいになった。成長どころが、私をはるかに越えた二十歳の青年がいた。

 

帰宅してまた二階から声がかかった。どうせならいっしょに見ようと。時間の節約もあるらしい。おかげで、大きな画面で映画を見ることになった。映画の内容についてはまたの機会にして、孫と二人っきりで家で映画を見るなんて、ほんとにもうないだろう。神さまからのすてきな身に余る贈り物以外にない。いつも神さまからは必要なすべてをいただいているが、これば番外篇ではないか。神さまがそのへんで、私の締まらない顔を見て笑っているようにさえ思えた。

 

神さま、すてきな時をくださってほんとにありがとうございます!ハレルヤ。

 

今日の聖書通読から

 

詩篇91篇14節、15節

「彼がわたしを愛しているから

わたしは彼を助け出す。

彼がわたしの名を知っているから

わたしは彼を高く上げる。

彼がわたしを呼び求めれば

わたしは彼に答える。

わたしは苦しみのときに彼とともにいて

彼を救い 彼に誉れを与える」

 

ローズンゲン3/16

あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、

この広大な荒野の旅路を守り通された。

申命記2・7

 

イエスの言葉:わたしは世の光である。

わたしに従う者は

暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。

ヨハネ8・12

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.03.16 Friday 22:37 | comments(0) | - | 

世相の風から 7年目の3・11とキリスト教会の働き

 

被災地の復興が思うように進んでいないと報道されている。被災された方々の計り知れない苦悩苦闘がなお続いていることを諸処で聞く。あの当時は日本中が何らかの形で立ち上がった。それが歳月とともに形を変えていっている。同じ形で継続している働きもあり、打ち切ったところもあると聞く。キリスト教界も教派を越えて力強く参加した。各教会もできるだけのことをした。支援物資を送ったり、ボランティア活動に参加した。

 

友人たちの教会の係わり方がずっと聞こえてきている。我が教会の所属する教団はある地域に3年ほど前から一つの教会を建て上げた。専任の牧師が派遣されて物心両面から活動をしている。全国の教会はそれを支えている。また、仮設住宅の方々を対象にカフェを開いていたグループが、ついに仮設が閉鎖されることになり、近くの教会が引き続き活動を続けることになったと聞いた。最近の事である。活動は並大抵ではないが教会にとってはうれしいことである。信仰を持たれた方も誕生しているそうである。

 

私の友人の教会では、被災地に建てた新しい教会が軌道に乗り、毎週の礼拝を始め、いわゆる教会の活動が順調に進んでおり、月に一回は親教会から大勢が出向い特別に集会を開いているそうである。友人は茶道の師であることから、お茶会を開いてふるまっている。昨日は30名の方が集って喜ばれたとメールがきた。

 

音楽の出来る方々が毎月コンサートを開いていることも聞く。また、ある幼稚園に月二回園児や父兄のメンタルのカウンセリンを続けている知人もいる。被災地を、被災者を決して忘れてはいない。私などは物言う資格もないものだが、それでも祈りにおいて支援する。

 

 

 

 

 

2018.03.10 Saturday 21:34 | comments(0) | - | 

日々の風から 新しい聖書 新改訳2017年

 

昨年から新しい訳の聖書が出版された。新改訳2017年である。私たちの教派、教団は長年新改訳聖書を使ってきた。何度も改定され、それまでは第3版と言われるものだった。2004年からだった。13年ぶりである。もう、ボロボロになってきていた。

 

私が洗礼を受けた時、教会からお祝いにいただいたのは文語訳であった。その後、口語訳聖書を使うようになった。そして1970年からは新改訳聖書になった。これは改定を重ねて今回は四回目である。2017年版としたようだ。慣れ親しみ、折々の記念の聖句は暗唱している。聖書が変わると当然、訳が変わってくる。文語から口語へ変わった時は大いに戸惑った。しかし教会でいっせいに変えるのだから一人だけこだわってはいられない。もちろん個人的には使うけれども。そのうち新改訳になり、今回は2017年版である。

 

もうあまり戸惑わなくなった。むしろ、同じ聖書箇所をあれこれ読み比べるのも楽しくなった。この度の新しい聖書は3月から読みだしている。文字が見やすい。行間とのバランスが良くすっきりしている。さて、新改訳にがぎってだが、1970年から昨年2017年まで47の間に4回改訂されている。12年に一度であろうか。そうなると次は2030年になる。2030年?!!。

 

おそらくもうこの世にはいないだろう。もし生かされていたとしても聖書が読めるだろうか。つまらないことを考えたものだが、そこで思うのは、やはり今日一日、神のことばである聖書に誠実に向かい合うことではないか。すぐそばで神さまが語ってくださっていると努めて意識して、喜んで読み進めよう。心を集中させていけば、ほんとうに神が語っているのを実感するだろう。そのように読み込んでいきたい。

 

今日の聖書通読より

詩篇第1巻 1篇

幸いなことよ

悪しき者のはがりごとに歩まず

罪びとの道に立たず

あざける者の座に着かない人。

主のおしえを喜びとし

昼も夜も そのおしえを口ずさむ人。

その人は

流れのほとりに植えられた木。

時が来ると実を結び

その葉は枯れず

そのなすことはすべて栄える。

 

ローズンゲン3/5

 

これら(天と地)はすべて、わたしの手が造り。

これらはすべて、それゆえに存在すると、主は言われる。

わたしが顧みるのは、苦しむ人、霊の砕かれた人、

わたしの言葉におののく人。イザヤ66・2

 

 

 

 

 

2018.03.05 Monday 19:33 | comments(3) | - | 

日々の風から 嵐が連れてきた春

 

日々の風から 嵐が連れてきた春 

 

明け方は大嵐になり、たたきつける雨と雷鳴で3月1日が始まった。その後じきに雨は上がり、清々しい朝になった。気温はぐんぐん上がり、なんと21度。驚きの1日である。外出するとコートなしの人が多い。胸元にショールはない。とまどいつつもさすがに真冬のコートは着心地が悪く、いそいで春物を羽織った。体が軽い。今年初めて春を感じた。しかし北海道は大雪で車が立ち往生しているそうだ。北国、雪国はまだ春は遠いのだろう。

 

寒い間は気になりながらも訪問できなかった療養中の姉妹宅のドアーをノックした。ほとんど教会には来られない。車での送迎を申し出ても礼拝時間に自信がないようで断ってくる。連絡は電話と携帯、時たまの訪問だけである。しかし姉妹は強くたくましい。元気な声がしてドアーが開いた。部屋着のままであったが短時間ではあるが交わりができた。よかった。すでに後期高齢者であるが、全くの一人暮らしである。介護のお世話にもなっていない。地域の見回りがあり、ごきょうだいと繋がっているのでひとまず安心である。

 

じきに失礼したが最後に姉妹が「なにかあったらいちばんに知らせるから、その時はお願いね」と言われた。何気なく返事を返したものの、ふと、姉妹の方からそう言い出したのは初めてではないかと、その一言が心に残っている。これからはさりげなくではありながら、もう少し頻繁に連絡し、またお訪ねしたほうがいいと思った。今日の春風はここちよいがまだまだ3月は油断のならない月である。三月は気まぐれである。

 

 

2018.03.01 Thursday 22:02 | comments(2) | - | 
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