人生の逆風の中で見つけた希望の風を、小説、エッセイ、童話、詩などで表現していきます。

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その6

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その6 

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

 

 

トマス、イライザ・ウイン夫妻はどんな迫害にもまた教会内の意見の対立にも耐え、決して初心を忘れることはなかった。キリストの福音を伝えるという一点に焦点を合わせ働きを進めていった。トマスは金沢だけでなく北陸の各地に宣教を広げ教会の元を築いていった。

イライザは教育と慈善活動に精を出した。その間、夫妻は契約書にある有給休暇をとることなく、日本滞在は20年に及んだ。一度だけトマスの眼底出血治療のため一時帰国したことがあったが。すぐに金沢に戻った。

 

1897年6月、夫妻は20年ぶりに一年間の休暇をとり、サンフランシスコ港に着き、大陸横断鉄道で懐かしのゲールズパークに帰った。休暇を過ごすとウイン夫妻は1898年9月に再び金沢に帰ってきたが、まもなく大阪に転任することになった。ミッションからの勧めであった。夫妻にとっては金沢を離れることは断腸の思いであったが、潔く決断し、大阪へ向かった。その地で8年間、夫妻は金沢と同じように誠心誠意働きに従事した。やがて1906年、日本基督教会宣教師として満州に渡った。今度は遠く中国大陸である。夫妻は祈りに祈って主の御心と確信して旅立った。満州では、大連、旅順、撫順を中心に伝道した。

 

1912年10月8日水曜日、その日夫妻は奉天で手術する一人の婦人を見舞う予定であった。イライザは早朝から朝食の準備にと台所に入った。トマスが隣室で祈っていると台所で異様な音がした。行ってみると、イライザ夫人が倒れていたのである。抱き起した時にはすでに息絶えていた。死因は脳溢血であった。時に59歳であった。葬儀は「大連教会」の教会葬として行われ、イライザを慕う500名の人たちが参列し、国葬級であったという。

 

トマス・ウイン師の嘆き、打撃はいかばかりであったろう。イライザはトマスにとっては最愛の妻だけではなく最高の同労者であった。周囲の者たちは、ウイン師は再び立ち上がれないのではないか、もはや満州にはとどまれないのではないかと心配した。しかし、ウイン師は主の召しに従った。その後12年もとどまり続け、諸教会に奉仕し、72歳で引退した。しばらく帰米したが再び来日し、かつて築いた「金沢教会」、「殿町教会」で説教奉仕をした。1931年(昭和6年)2月8日の主の日、「金沢教会」の説教壇に立つ直前に倒れ、天に帰って行った。79歳であった。20年も前に召されたイライザ夫人とともに、夫妻のご生涯は神の御前にも人の前にも実に光輝にみちたものであった。

 

ウイン夫妻の生涯をこんなに小さくおおざっぱに、しかも、参考図書を熟読する間もなく生かじりのままでまとめたことがいまさらながらに悔やまれ、申し訳ない気がして恥じ入るばかりである。お二人とも二十代半ばのうら若き日に日本に渡って以来、生まれ育った故郷にほとんど帰ることもなく、親兄弟、親族、旧友と会うこともなく、老いて病んで息絶える時まで日本で生きた。日本人以上に日本人だったのかもしれない。いや、この世の国籍などにはとらわれずに、神の国からの大使として、その重責に生きて死んだのだ。大使と言っても高位に胡坐をかくのではない。キリストのように「仕える人」、「愛する人」に徹したのだ。

 

イライザ夫人が、手術前の女性を見舞うその朝に召されたとは、いかにもイライザらしいといえる。いつもの生き方の真っただ中からそのまま御国へ駆けていったのだ。イライザ夫人は正に「北陸のマザー・テレサ」であった。イライザ夫人が孤児院を開いたきっかけは、雪降る早朝の町で、家々のゴミ箱をあさる孤児たちを見たからであったという。偉大な愛の人であった。小柄な女性であったウイン師は語る。また金沢の町ではいつも自転車に乗ってあちらこちらと用事に走り、その手が何かをしていないことはなかったという。

 

「ウイン館」資料室にはイライザの愛唱聖句が掲げられていた。『エホバを畏るゝことハ智慧の根本なり』。詩篇111篇10節のみことばである。

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その5

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その5

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

伝道の風が勢いを増すにつれ迫害の逆風も強烈であった。岩盤のように分厚く固い仏教王国地域である、その壁にどのようにして穴をこじあけ福音の風を吹きめるだろうか、ウイン夫妻ほかツルー婦人宣教師たちの戦いはまさに命懸けであった。「異人」、「毛唐」、「耶蘇」、「邪教」などと罵られ蔑まれ、罵詈雑言が浴びせられ、石つぶてが飛んできた。しかし中には、好奇心から集会に参加する人も現れ、好意を抱く人もいたのである。

 

ウイン夫妻の伝道は早くも実を結び、伝道開始後の翌年1880年4月が洗礼を受けた。6月には2名、9月には4名、12月に2名が受洗し、翌年1881年に19名、1882年は11名83年15名、84年は12名と、5年間で72名に及んだ。この集まりは81年に「日本基督一致教会」の年会で審議され、「金沢教会」として正式に発足した。信者となった人たちの中で特筆すべきは80年に受洗した「長尾八之門(はちのもん)である。

 

長尾八之門はもともと加賀藩の2030石の中級武士であった。明治2年、556名の「浦上四番崩れ」のキリシタンたちが金沢に流されてきた。藩主の前田慶寧(よしやす)は彼らを卯辰山開墾に従事させ、八之門に監督を命じた。これが八之門とキリスト教との最初の出会いである。彼はキリシタンたちの極度の貧困と屈辱の中でも神を信じて揺るがない不動の信仰を目の当たりにして大いに感ずるところがあった。時を経て、ウイン宣教師の講義を毎晩のように聞く一人になり、コリント13章の愛の章で心動かされ、入信した。彼は土地を購入し建物を建てて提供した。81年には按手を受けて「金沢教会」の最初の長老となった。次男長尾巻も続いて受洗した。また三野季暢(きちょう)は加賀藩で洋才教育を受けたエリートであったがさらに英語を勉強しようとしてウイン宣教師から学ぶうちに信仰に入り受洗した。彼を見て家族5人が救われ、のちに「明治学院」に勤めた。

 

1881年9月、トマス・ウインととツルーの中等師範学校教師としての任期が切れた。しかしウイン夫妻は金沢に留まって伝道したかったので、県と外務省に許可を申請したところ滞在許可が下った。ツルー婦人宣教師は東京の「新栄女学校」に帰り、やがて「女子学院」を成立させた。彼女の功績は大きい。「女子学院」は今現在も女子名門校である。

 

ウイン夫妻は長尾八之門、三野季暢らの協力を得て県に学校設立を申請し82年に私立男子校「愛真学校」が開校した。さらに、85年にはイライザ夫人が発想し願っていた女子だけの学校「金沢女学校」が開校した。ここに」北陸における女子教育がスタートし、現在の「北陸学院」に発展した。その後、イライザは学校はメリー・ヘッセルなどに任せて、教会の婦人会を」積極的に指導した。

 

婦人会ならではの活動に、パンやお菓子を皆で焼く、ミシンの使い方を習う、毛糸の編み物を習う、西洋料理を作る、アイスクリームを作る、パッチ・ワークをする、バザーを実施する、衣類や食物を困窮者に届けるなどがあり、思えば現在、私たちの教会婦人会も同じようなことをしている。1890年の大飢饉の時に、イライザ夫人は率先して救済事業にあたり、アメリカからも寄付を募って困窮者を助けた。これは北陸初の「社会事業」であった。また、貧窮者の子どもたちを救済する「孤児院」を開設した。(今回で終わりにしたかったのですが、続きます)

 

 

 

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その4

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その4

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

トマス・ウイン宣教師

 

イライザ・ウイン宣教師

 

当時、日本宣教師団を掌握していたのはジェームズ・ヘボン博士である。ヘボン師は1959年、日本が開国したと同時に来日して伝道と医療に従事したアメリカの宣教師。ヘボン式ローマ字を考案し、聖書和訳、聖書辞典の編纂にも先頭に立った。夫人の「ヘボン塾」開設にも尽力し、日本の女子教育がスタートした。この女子教育の場が、キダー宣教師に受け継がれ、そこに若松賤子が入塾した。

 

話が少しそれるが、私は胸を躍らせている。ウイン宣教師夫妻の書物にキダーさんが登場するからである。この春に『会津若松の火炎・若松賤子の生涯』をまとめたが、幼い賤子を知的、霊的に育てたのがキダー宣教師なのだ。キダーさんは、トマス・ウインの伯父サムエル・ブラウンとともに日本に遣わされてきた日本宣教の女性第一号の宣教師である。

 

さて、ウイン夫妻はヘボン博士の斡旋によって金沢へ行くことになった。ヘボン師のところへ「石川県中学師範学校」から教師派遣申請が来ていた。ヘボン師を中心とした在日宣教師団は会議を開き、ウイン宣教師夫妻とM・ツルー婦人宣教師を北陸に派遣することに決定した。私はここでも懐かしい名前を発見して目を瞠っている。M・ツルーは、かつて「矢島楫子」を調べていた時に出会った女性である。ツル―こそ、矢島楫子をキリストに導いた人であり、ツルーの係わった女子の学校は曲折を経て「女子学院」に発展していく。楫子は初代学院長であり、またなによりもかの婦人矯風会を組織し会頭として長く活躍した女傑である。

 

またまた脱線したが、トマス・イライザ夫妻とツルー師一行は1879年9月23日に横浜を出発した。いよいよ日本最初の北陸伝道のスタートである。ところが当時は新幹線どころか鉄道すらない。金沢へ入るまでの道のりは困難を極めた。ウイン夫妻は一歳の赤ん坊を連れていた。

 

横浜から船で神戸、頭から鉄道で京都の大谷まで、そこから人力車で大津まで、大津から琵琶湖の北端の塩津までは蒸気船で行った。ところが船は暴風雨に巻き込まれ、ようやく塩津に着いたのは横浜を経ってから5日目である。塩津から人力車、徒歩、籠で敦賀に着いた。敦賀から金石まで汽船に乗った。ところが今度は台風に遭い、伝道用の聖書、トラクト、食料品、衣類などすべてを失った。土砂降りの中を下船し、三時間人力車に揺られて金沢に入ったが、横浜を出てから12日経っていた。最初からこの困難である、記さずにはいられなかった。私はこの道を、快適な新幹線にゆったりと座し、熱々のコーヒーをすすりながらわずか二時間半でクリヤーしたのである。いまさらながらではあるが申し訳なくて顔があげられない思いになった。

 

数日後、学校での授業が始まった。トマス・ウイン師もツルー師も教師として働き出した。県令と面会した時、ウイン師ははっきりと言った。「教師としてきたのだから忠実に職務は果たすが、自分はもともとキリスト教の宣教師であるから伝道したい。公然と伝道することに当局は干渉を加えるでしょうか」と。県令は「干渉はしない。少しも差し支えない」と明言した。ウイン師は大いに喜び、さっそく伝道計画を立て、実行することになった。こうして「長町講義所」での活動が始まった。一同は北陸で初めてのプロテスタント礼拝をささげた。聖日礼拝を中心に毎晩伝道集会が開かれた。イライザ夫人、ツルー婦人宣教師たちは子どもへの「安息日学校」を開いた。伝道の風が勢いよく吹き始めた。(つづく)

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その3

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その3 

北陸初のプロテスタント宣教・トマス・ウイン、イライザ宣教師夫妻

 

 

キリスト教と金沢との関係は深い。キリシタン大名高山右近がしばらく(と言っても26年ほど)前田家の客将として仕えていたことは有名である。時代は戦国末期から江戸初期のことである。高山右近といえば、奇しくも今年2017年、ローマ法王庁から、信仰の模範者としての「福者」に認定され、マスコミでも取り上げられたが、盛大な列福式が行われた。さらに金沢とキリシタンとのかかわりは幕末にもあるが、今回は明治以降のプロテスタント信仰の伝道者にフォーカスした。

 

私たちは自他ともに老女と呼ばれるのを厭いはしないが、親しい仲間同士の旅であってもただの親睦会ですませたくない共通意識を持っている。ちょっと大げさですが、なにか自分たちの知識や生き方に示唆を与えてくれるようなテーマにチャレンジしたいのでる。平たく言えば好奇心と向学心を満たしてくれる、体と心のグルメの旅を目指している。

 

キリシタン迫害の足跡をたどる旅は昨年の上五島を含めて数回体験してきている。今回はぜひプロスタントの伝道の歴史を知りたいと願っていたところ、金沢通の友がすぐにウイン宣教師夫妻の働きを持ち出してくださった。現在の北陸学院の元を築いた夫妻である。そこで、学院の一画にある「ウイン館」を見学することにした。

 

 

私たちは「お宿やました」でゆっくりと豊かな朝食をいただいた後、宿のワゴン車で直接「ウイン館」のそばまで送っていただいた。「ウイン館」とは、明治24年にウイン夫妻が家族や宣教師家族の宿舎にするため、またミッションハウスとして、トマス自身が設計し監督した、アメリカがまだ独立する前によく見られた簡素な建物である。「コロニアル・スタイル」と呼ばれる。木造二階建て瓦葺、外壁は板を張ってペンキを塗っている。また前庭ではホルスタインを飼って牛乳を搾った。後にイライザ夫人が孤児院としても使った。

 

「ウイン館」は現在資料館として使われており、ウイン宣教師夫妻の資料がびっしりと展示されていた。私たちは職員の女性に迎えられ説明を受けながら時間をかけて見学した。金沢通の友人が北陸学院についても知識があって職員の方と話が弾み、椅子を勧められお茶までいただいてしまった。幸いと言おうか見学者はほかにはいなかった。販売している資料もあった。私は「信仰の証人 イライザ・ウイン伝」新書版で200ページほどの一冊を買った。

じっくり読みこんでまとめてみたいが、それには時間がかかる。まずは拾い読みして、紹介します。

 

 

 

北陸の地に初めてプロテスタントの福音の風を運んだのは、トマス・ウイン(1851年〜1931年・79歳)とイライザ夫人(1853年〜1912年・59歳)であった。

二人の家族はそれぞれ彼らが幼い時からイリノイ州ゲールズ・バーグという町に住みつき、二人は長老教会の日曜学校に通っていた。いわば幼なじみであった。トマスの父は牧師、イライザの父は実業家であった。二人はともにノックス・カレッジで学んだがこのころから将来は海外宣教師として伝道することに決めていた。その後トマスはユニオン神学校を卒業すると同時にイライザと結婚し、その年の秋10月、1877年に来日する。

 

トマスの伯父サムエル・ブラウンはすでに宣教師として来日していた。トマスの来日に当たってはこの伯父、母の兄にあたるが、の影響は大きなものがあった。来日するとトマス、イライザの二人は横浜山手にあるブラウンの家に居留し日本語を学んだ。トマスは翌年にはJ。バラ宣教師が開いていた「バラ塾」で英語と聖書を教えた。(つづく)

 

 

 

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その2

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その2

 

 

 

 

玉泉院丸庭園の広いお茶室でお抹茶のおもてなしを受け、その後縁側に腰を下ろしてお庭を拝見した。自分の呼吸が変わってくる。いつもとは時間の速度が違う感じがする。日ごろいかに浅いところで呼吸しているのかよくわかる。ゆっくりと吐き、ゆっくり大きく吸う、自然に深呼吸のような息遣いになっている。ふだんは何に合わせて呼吸しているのだろうか。通りを走る自動車の速度か、電車の速さか、人びとの足音か、ラジオのアナウンサーの話し声か、次から次へと頭をよぎるあのことこのことか〜〜〜。一服のお抹茶のひとときが心の隅々にまで馥郁たる初夏の緑風を吹き込んでくれたようだ。

 

午後4時。いよいよ今晩の宿泊先へ向かった。日本旅館でお宿「やました」という。湯涌温泉にある。今回は敢えて純日本旅館を選んだ。最初は当然のように市内のホテル群の中から決めようとしたが、ふと、ホテルのデメリットに気がついた。それは、団欒の場がないことである。シングルあるいはツインでも、一部屋に5人全員が集まってゆっくりと歓談できるスペースはない。それにひきかえ日本旅館なら十分に叶う。大きな座卓を囲んでお座布団に座ってお茶をいただきながらそれができる。もう一つは食事である。ホテルは外でとるか別の場所に移動しなければならない。朝食もビュッフェ形式でせわしい。

 

金沢通の友が、このお宿に泊まった経験もおありだ、あらかじめの食事の様子を訊いてくださった。個室の別室を用意するとのことであった。こじんまりとした旅館で、客室数はわずか10室だから移動も簡単である。それに本物の温泉がある。私たちはよい選択に導かれたようだ。

 

「やました」は出羽町から北鉄バスで南東へ約40分、金沢の奥座敷と呼ばれる湯涌温泉にあった。湯涌は加賀のお殿様が湯治場として使ったそうだ。バス終点からは宿の迎えのワゴン車に乗り換えた。ほんの数分であったが坂道を上がり、山肌に触れるようにして建つお宿「やました」の打ち水された玄関に降り立った。玄関わきに水琴窟がしつらえてあった。私たちはかわるがわる耳を当てた。「歓迎」とささやかれているようであった。

 

その夜のことは語るまでもない。ところで、ブログタイトルの「金沢に吹く伝道の風」はどこに?と思われてしまいそうだが、次回は今も生き生きといのちあふれる風の行方を追いかけることにする。(つづく)

 

 

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旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その1

旅の風から 金沢に吹く伝道の風  その1

 

 

 

 

 

親睦と学びを両輪にした旅列車は、5名の老女軍団を乗せるとゆるゆると金沢に向かった。5月の末である。学びと言っても今回は冒険や探検はないはず。そのぶん緊張も気負いもなく、まして一泊なので旅装もいたって簡単、全員キャスター付きのキャリーバッグは持たず、軽やかに北陸新幹線「かがやき」に乗り込んだ。

 

前回は2013年9月に団体16名で「金沢のキリシタン迫害の足跡を辿る」をテーマにした手製2泊3日の旅をした。時にまだ北陸新幹線は開通していなかった。その時は高山右近を中心に迫害の歴史を追いかけたが、右近はもちろん金沢城も兼六園も特別にお願いした懇意な専門家にガイドをお願いし、くまなく廻った。

 

今回はまったくの私的な旅である。と言っても金沢通の姉妹がガイドさん以上に詳しくていねいにさらに老女たちのスローなペースに合わせて付き添ってくださった。いわば極上の希少な旅なのである。学びは「ウイン宣教師夫妻の足跡を訪ねて」とした。夫妻は北陸に初めて福音を伝えたパイオニアである。私は特に夫人のイライザ・ウインに関心を寄せ期待を抱いた。

 

朝8時16分上野発「かがやき」521号は10時47分には金沢駅に着いてしまった。なんという早さだろうか。前回は越後湯沢で乗り換え、4時間半ほどかかったと思う。金沢での最初することは昼食なのだ。予約していただいている。着いてすぐ直行した。朝食は家ですませたが旅気分でそわそわし、食べた気がしなかった。駅から北鉄バスに乗って尾張町で下車した。金沢通の姉妹が地味だが珍しいお麩の専門店「不室屋」に案内してくださった。蔵を改造したシンプルなこじんまりとしたお部屋で、手の込んだ珍しいお麩のお料理を楽しんだ。

 

お腹の支度ができたのでいよいよ見学に向かう。金沢城を通り抜け、兼六園に入り、有名な徽軫灯籠(ことじとうろう)をみながら虹橋を渡った。観光客は思ったほどではなかったがさすがに虹橋の上でゆっくり記念撮影ができないのはしかたがない。途中、「玉泉院丸庭園」に入り、お抹茶でティータイムになった。(つづく)

 

 

 

 

 

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日々の風から 断捨離中の思わぬ展開

日々の風から 断捨離中の思わぬ展開

 

一大決心をして「断捨離」を初めて早やくも一か月が過ぎた。順調に進んでいる、そのように言い切っていいと思う。断捨離と言っても、中心は「捨」である。ちなみに「断」とは不要なものを入れないの意だそうだ。この年まで生きてきた習いから、不要なものを簡単に買ったり引き受けたりはしないようになっている。いわゆる衝動買いなどからも解放されている。第一、経済力もないから。努めて「エコ」に生きるようになっている。

また「離」とは、物への執着から離れることだそうだが、これはたぶん「断」と「捨」の両方に影響してくると思う。執着がなくなれば「断」はたやすい。また、今あるものを「捨」できないのは、強い執着があるからだろう。

 

なんといっても中心は「捨」である。この場合は不要な品物を捨てることである。しかし「捨」とはむごい言葉である。捨てるという言葉にはいいイメージはない。暗く悲しい響きがある。捨て子、捨て犬、捨て猫、家庭を捨てる、妻を捨てる、夫を捨てる、恋人を捨てる、故郷を捨てる、仕事を捨てる、世を捨てる、信念を捨てるなどなど山のようにあるだろう。捨てるとは、破ることであり、壊すことである。もちろん、捨ててから向かう方向によっては「希望の捨」があるだろう。

 

「断捨離」の「捨」は新しく生きるための生活革命、改革の一つの手段にちがいない。捨の持つマイナスイメージを越えて、明日に向かう「希望の風」を呼ぶ「捨」でありたい。例えば、一つの物を捨てるについて、手に取ってそのまま座り込み、まつわる過去を思い出し、つい涙を流し、ああ、捨てられないとまたも度に場所に戻してしまう、この繰り返しでは前にすすめない。「捨」は心でするものだ。強い気持ちが要る。思い出のあるもの、思い入れのあるものを捨てるのは、まるで自分を捨て、自分がなくなってしまうような気になる。むなしくなり寂しくなる。「捨」には感情をかき乱す魔の力が潜んでいる。初心が見えなくなってしまう。「捨」に勝利するためには強い意志が要るのだ。まさに戦いである。それも自分との戦いなのだ。様々な思いを模索しながら、自分なりの、独断かもしれないが、頭の仲も心も整理整頓しながらの「断捨離」に励んでいる。

 

「捨」の部分で、時間を取られているのは「本」である。何十年も前からの手放せないものがかなりある。しかし、もういい、そんな思いもある。これから先、ふと開きたくなることもあるかもしれないが、子供や孫はおそらくないだろう。あまりにも古い。ほしかったらネットできれいな中古本でも買うだろう。今やそんな時代である。私自身が昨今は読みたい本はネットで買う。こざっぱりとクリーニングされた本が安価で買える。それらを考え併せて思い切って処分した。

 

ところが忘れていた数冊の本に再会して、心動かされ読み始めている。かつて読み込んだしるしのたくさんの付箋が貼られていてびっくり、こんなことをしていた自分がいたなんてと、懐かしい限りである。一冊は「フランス歴史の旅」(朝日選書 田辺保著)である。すっかり忘れてしまっていた。昨年の夏以来、遅まきながら堀田善衛に出会い、ずっと読み続けていた。主にスペインが舞台であった。当然フランスも出てくる。改めてフランスの歴史を見たくなっていたところであった。読み終わると同じ著者の本が読みたくなり「フランス 心の旅」を取り寄せた。たぶんこのまま田辺保とフランスへの読書の旅は続くはずだ。「断捨離」は思わぬ展開になった。私は「捨」の中から新しい読書の旅路を見つけた。このところせっせとその旅路を急いでいる。

 

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世相の風から イートインって?

世相の風から イートインって?

 

最近、スーパーの一隅やコンビニ、お弁当屋さん、自家製パン屋さんなどで簡単に飲食できるスペースが設けられ、利用している人たちをよく見かける。なあるほど〜〜〜いいアイデアだなあと思う。商売する人たちはよく次々に新しいこと考えるものだと感心してしまう。

 

若い人やお勤めの方が一人でスマホ片手に飲食されているのは当たり前の風景だと気にもしないが、近所の方であろうか、高齢の方々がコーヒーなどをいただきながら談笑しているのはなんともホッとする光景である。むかしの時代を思い出す。あのころ大人たちはイートインではないが路地のかたわらでよく話し込んでいた。下町風景かもしれないが。

 

高齢の方々が、一軒家で一人暮らしをしたり、団地の一室に閉じこもっていると聞く。孤独死までには至らなくでも、さまざまな悲劇につながりかねない。もちろん地域にはその気になればケアーの準備は十分あるが、その気のない人は取り残されてしまう。そんな方々でも、買い物のついでにイートインで気軽に一息つき、一休みできる。お友達がいなくても周りに人がいる。人が見える。声が聞こえる。それだけでもどんなに力付けられることだろう。

 

人とは、人と人の間に生きる、人間なのだ。神様は創造のはじめからともに生きるように配慮してくださった。夫でなくても、妻でなくても、子どもでなくても、24時間いっしょにいられなくてもいいではないか。努めて友を作ることが必要だと思う。そのためには多少の犠牲がいる。イートインに出かけるのもひとつの努力であろう。束の間であってもいいではないか。ひと時小さな交流ができたら、それこそ血液循環がよくなるであろう。

 

 

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日々の風から 母の日に

日々の風から 母の日に

 

我が教会では月に一回礼拝後に婦人の集いを設けている。「婦人会」と称している。昨今、婦人という言葉に神経質になり、「女性会」と改称している教会もあると聞く。私も本当はそちらに賛成だが、急に声高に叫んでも当惑させるだけではないかと現状をみすえつつ、「婦人会」で甘んじている。この婦人会は実によく働く。《教会の主婦群》である。

 

食事作りや衛生美化など奉仕が主であるが、月一回の「婦人会」は交わりと祈りの場である。長年にわたって女性二人がペアーでその月の会を主催する。メンバーは未婚の若い女性を除く教会の女性全員である。全員と言っても昨今は超高齢の姉妹たちは参加しなくなったので十数名である。

 

今月は年に一度ぐらいの割で回ってくる担当月になった。相棒の姉妹は50代のキャリアウーマン。うちの会社はブラック企業と言いながらも高い地位に就いてバリバリと働いておられる。姉妹と相談してプログラムを作った。メインは「我が母を語る」とした。折から世は《母の日》で盛り上がっている。赤いカ―ネーションをあしらった案内文書を配って呼びかけた。午後だからティータイム付きである。

 

テーブルを囲んで話が始まった。メンバーの中には子供のいない姉妹たちもおられる。しかし、生みの母のいない人は一人もいない。その意味では公平な話題であると思う。最初に85歳の老女性が「やさしい母でした」と一言だけ語られた。息子、娘、孫もおられ、お耳がだいぶ遠くなられたが静かにはっきりそう言われた。私はそれだけで胸が熱くなってしまった。次の姉妹は70代半ば。「私は若いころ反抗的で母につらく当たったが、母は何も言わずいつも大きく受け止めてくれた」と語った。私は同じ地域なのでお母上を存じ上げていたから、姉妹のいうことに間違いはないと頷きながら聞き入った。

 

全員のお話を記すことはできないが、総じて知ったこと感じたことは、皆さん一人一人が母の生き方を胸に秘めそれに倣いたいと思っていること、ある時の母のひとことが忘れられず、その言葉に励まされ、実行したいと願っている、などなどであった。人の前であるから100%実像を語っているとは思わないし、美化していることもあるだろうが、強い母が嫌だったとか、どうも性格的に合わなかったなど率直な話も出た。

 

「我が母を語る」とはほんの数分で済むことではない。たぶん会が終わってから、みなさんの思い出の袋はさらに大きく口を広げ、家で、子どもたちにその続きをしたかもしれない。

 

私はちょうど「断捨離中」で古いアルバムを広げたばかりなので、娘家族に父や母の写真を見せていくつかのエピソードを披露した。母にはひ孫にあたる私の孫たちは、この家から母を天に送ったので記憶の底に留まっていることもあるらしかった。ほんのひと時ではあっても話題を共有できたことは、私はもちろん彼らにも心温まるものがあったにちがいない。古いアルバムの役目は済んだ。もうこれでよい、さらに縮小し処分することにしよう。

 

 

 

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日々の風から 70歳代のひとつの現実

日々の風から 70歳代のひとつの現実

 

 

17歳、セブンティーン、Seventeenは青春真っ盛りの象徴であろう。おなじセブンに係るがセブンティー、Seventy、70歳代はどうであろうか。老年真っ盛りではないだろうか。私を含めて親しき友はまさに70代を生きている。私は自分の周辺の方々しか知らないが、皆さんほとんど一日として家に居ることはない活動家である。それぞれに今までの歩みの中から自分だけのスペシャルな働きや活動場所を持っておられる。老親をケアーしながらの主婦であれ、配偶者との二人暮らしであれ、単身者であれ、「一人の個」として自立しておられる。見習うことの多い友垣である。

 

17歳前後も話題は多いが70代も、出来事、それも危険な事件が頻発する。今、私の耳に盛んに届くのは70代「喜怒哀楽たより」である。うれしいことにしろ、困った問題にしろおもわず身を乗り出して聴き、受け止め、場合によっては手を出し足を出すこともある。とはいうもののこちらも70代、限界のある状況下にいる。まさに「ともに喜び、ともに泣く」の最前線なのだ。

 

最近ではあまり出番のない家の電話が鳴り、いつもはメールの友の声が聞こえた。

月末には会うことにしている近県の友である。

 

「わたしね、困ったことになったの。脚立に乗って高いところのお掃除をしていたの。降り際に、ステップを踏み外してひっくり返って、右手首の上を骨折してしまったの。お医者様はギブスよりも手術したほうがいいと言われるので、明日入院して手術になってしまったわ。3か月は安静にしているようにと言い渡されてしまった、遠出はダメですって。そんなわけで久しぶりに皆さんとお会いするのを楽しみにしていたけど、しかたないわ。ごめんなさね。メールも左手が慣れるまで無理かもしれない」

 

愕然とした。この友に限って「骨折」は近づかず、逃げていくだろうとさえ思っていたのだ。友はいつもには似合わず、自分の愚かさを責める理由を挙げ、悔いておられた。また、先のことを案じ、活動を縮小しなければなど、自分自身に言い聞かせるように語られた。じっと聞いていた。

 

友は多少トーンダウンしていたが、いつものように明快で歯切れのよい落ち着いた話しぶりであった。

 

話に耳を傾けているうちに、友は療養の期間を過ぎれば、軌道修正をした賢い方法を見つけ、自分の賜物を生かしていっそう質の高い活動をされるにちがいないと確信し、早くも安心した。一日も早く回復されることを祈り続け、秋になったら、闘病談をたっぷり聞かせていただこうと思った。

 

ところでただいま「断捨離中」であるが、私も脚立に乗り降りして、重い箱を上げ下ろししている。まだまだこのくらいは大丈夫、若い者の世話にはならずともできる、心の中はそんなツッパリでいっぱいなのだ。しかし、友を思うと、手が出ない、足が出ない。どうしましょう。

 

 

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美しき姉妹たち
美しき姉妹たち (JUGEMレビュー »)
三浦 喜代子
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